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ミゲルの声。


それは、一年という長い間、私の心の奥底にしまい込まれ、忘れかけていた響きだった。


けれど、一度その声が鼓膜を――いや、SIDを通じて直接脳を震わせると、堰を切ったように、他のセラフィムたちの声も次々となだれ込んできた。




『エリック! 聞こえるかい、エリック!』


ソフィアの、少し甲高い、しかし懐かしい声。



『ったく、やっと繋がったぜ。こんなクソ田舎、電波もろくに飛んでねえのかよ』


エミリオの、悪態をつきながらも安堵したような声。



『…無事だったか、エリカ』


アントニオの、ぶっきらぼうだが、温かみのある声。



『ああ、エリック、私の可愛いエリック。どれほど心配したことか…』


ジュリアの、少しヒステリックな、しかし愛情に満ちた声。



『お腹は空いていない? 怪我は? 大丈夫なのね?』


ルイーザの、母親そのものの優しい声。



そして、パブロおじさんの、いつもと変わらない、陽気な声。



『やあ、エリック! 君なら大丈夫だと信じていたよ! さあ、ここからが本当の冒険の始まりだ!』


まるで、私の頭の中で、七つの異なるラジオ局が同時に放送を始めたかのような、騒がしい、しかし心地よい混乱。




一年間、私を支配していた深い孤独感が、急速に薄れていくのを感じた。


私は、一人ではなかったのだ。


彼らは、ずっと私のことを見守ってくれていた。


ただ、この村にはSIDネットワークが届いていなかったために、その声が聞こえなかっただけなのだ。




「…みんな…!」私は、涙声で彼らの名を呼んだ。




男たちが、私たちにじりじりと近づいてくる。


その手には、黒光りする最新式のスタンガンと、電磁警棒。


ビエントスは、私を背後にかばい、ショットガンの銃口を男たちに向けた。




「エリカ、逃げろ! 俺が時間を稼ぐ!」彼の声は、絶望的な響きを帯びていた。




だが、ミゲルの声が、私の頭の中で冷たく響いた。




『逃げる必要はない、エリック。ビエントスは、もう用済みだ』




「え…?」




『彼は、ドン・ソンブラを裏切った。そして、君を連れ去り、我々との接続を断った。それは、許されざる罪だ。彼は、ここで死ぬべき運命なのだよ』




ミゲルの言葉は、氷のように冷たかった。


彼が言っている「我々」とは、誰のことだろう。


セラフィムたちのことか? それとも、ドンの組織の残党のことか?




『ドン・ソンブラは死んではいない。彼は、再起の時を待っている。


そして、君の力を必要としているのだ、エリック。君は、選ばれた存在なのだから』




『さあ、ビエントスから離れろ。そして、我々と共に来るのだ。君の本当の居場所へ』




他のセラフィムたちも、口々にミゲルに同調する。




『そうよ、エリカ! あんな男のことなんて、放っておけばいいのよ!』とソフィア。



『面倒なことはさっさと終わらせて、うまいメシでも食いに行こうぜ!』とエミリオ。



『ドン・ソンブラ様への忠誠を忘れたのか、ビエントス!』とアントニオ。



『エリック、あなたにはもっと輝かしい未来が待っているのよ!』とジュリア。



『大丈夫、私たちがついているわ。何も心配いらないのよ』とルイーザ。



『さあ、エリック、新しい冒険の始まりだ!』とパブロおじさん。




彼らの声は、甘く、優しく、そして抗いがたい力で、私を誘惑する。


ビエントスを見捨てろ、と。




彼を裏切れ、と。




私は、混乱していた。


ビエントスは、私を救ってくれた。


この一年間、私を育ててくれた。


彼の不器用な優しさは、本物だったはずだ。


なのに、セラフィムたちは、彼を「裏切り者」と呼び、見捨てろと言う。


どちらが正しいのか、私には分からなかった。




男たちが、さらに距離を詰めてくる。


ビエントスは、必死の形相でショットガンを構えている。


その額には、脂汗が滲んでいた。




『エリック、決断の時だ』ミゲルの声が、最後通牒のように響いた。




私は、泣きそうになるのを必死で堪え、震える声でビエントスに言った。




「…ごめんなさい、ビエントス。私…行かなきゃ…」




彼の顔が、絶望に歪んだ。


その表情を、私は生涯忘れることができないだろう。




男たちに促されるまま、私はビエントスに背を向け、彼らが乗ってきた黒い大型の車両へと向かった。


セラフィムたちの声が、私の頭の中で勝利を宣言するように、高らかに響き渡っていた。




それからの数年間、私は再び、ドンの組織の中で暮らすことになった。


以前のような、要塞のような屋敷ではなかったけれど、メキシコシティのどこかにある、高層ビルのペントハウス。


そこが、私の新しい「家」であり、そして「職場」でもあった。




私の役割は、以前と同じ、あるいはそれ以上に、セラフィムたちと共に、SIDネットワークを通じて情報を集め、分析し、そして時には、ドン・ソンブラの指示に従って、特定のターゲットにサイバー攻撃を仕掛けることだった。




私のSIDは、おそらく幼少期の施術と、そしてこの組織の特殊な環境によって、異常なほどの適応と進化を遂げていたらしい。


私は、ネットワークの深層に潜り、他の人間では到底アクセスできないような情報に触れることができた。


そして、セラフィムたちの助けを借りれば、その情報を自在に操ることさえ可能だった。




五歳になる頃には、私はもう、自分自身を「エリック」ではなく、「エリカ」として認識するようになっていた。


ビエントスが、あの逃避行の最中に、そう呼んだから。


そして、その呼び名が、なぜか私にしっくりときたからだ。


セラフィムたちも、私のその変化を受け入れ、私を「エリカ」と呼ぶようになった。


そして、彼らは、私のその女性としてのアイデンティティを、外部の世界から隠すように、巧妙にSIDの設定を調整した。


「組織のためだ」とミゲルは言った。


その本当の意味は、私には分からなかったけれど。




私は、高価な、女の子らしい服を与えられ、女性としての立ち居振る舞いを教え込まれた。


鏡に映る自分の姿は、確かに少女のものだった。


けれど、時折、その瞳の奥に、かつての「エリック」の面影がよぎるような気がして、言いようのない不安に襲われることもあった。




私は、本当は誰なのだろう。


男の子なのか、女の子なのか。


それとも、そのどちらでもない、何か別の存在なのか。


セラフィムたちは、その問いには答えてくれなかった。




そして、七歳の誕生日を迎えた数日後。


私は、初めて、自分の手で人を殺めた。




相手は、組織を裏切ったとされる、一人の男だった。


ドン・ソンブラの命令。


私は、セラフィムたちに導かれるまま、彼のSIDに侵入し、彼の脳の深層にある恐怖の記憶を増幅させ、精神を崩壊させたのだ。


彼は、自ら窓から飛び降りて死んだ。




その時のことは、あまり覚えていない。


ただ、自分の指先が、まるで他人のもののように冷たく、そして無感覚だったことだけを、ぼんやりと記憶している。


セラフィムたちは、私を褒め称えた。


「よくやった、エリカ」「君は、本当に特別な存在だ」と。




その同じ年、2051年に、メキシコシティを巨大な地震が襲った。


マグニチュード8.3。


街は一瞬にして瓦礫の山と化し、多くの人々が命を落とした。


私たちがいた高層ビルも、大きく揺れ、いくつかの階層は崩壊した。


その混乱の中で、ドン・ソンブラの組織もまた、大きな打撃を受けた。


多くの構成員が死に、あるいは行方をくらませた。




私は、その混乱に乗じて、再び組織から逃げ出すことを考えた。


いや、考えたというよりは、セラフィムたちがそう囁き、私を導いたのだ。


彼らは、まるでこの時を待っていたかのように、用意周到に逃亡計画を練り上げ、私に実行させた。




『エリカ、今こそ好機だ。ドン・ソンブラは、おそらくこの混乱で死んだか、再起不能なほどのダメージを負ったはず。彼の残党も、今は自分たちのことで手一杯だろう』ミゲルが、冷静に状況を分析した。




『だが、油断はできない。生き残りがいるかもしれない。彼らを完全に無力化しなければ、君の未来はない』アントニオの言葉は、いつになく重かった。




地震の数日後、まだ余震が続き、街全体が恐怖と無秩序に包まれている中、私はセラフィムたちに操られるように動いた。


彼らは、私のSIDを通じて、組織の残党たちが潜伏していそうな場所を特定し、そこへ私を導いた。


そして、私の持つ特殊なSID能力を使い、彼らの通信網を遮断し、偽情報を流し、互いに疑心暗鬼に陥らせ、そして…直接手を下すことなく、彼らが自滅していく様を、私はただ、セラフィムたちの指示通りに見守っていた。




それは、静かで、しかし確実な「掃除」だった。


私が直接手を下したわけではない。


けれど、私の存在、私の能力が、彼らを破滅へと追いやった。


その事実は、私の心の奥底に、消えないシミのように残り続けるだろう。




全ての「処理」が終わったとセラフィムたちが判断した時、パブロおじさんが、いつものように陽気な声で言った。




『さあ、エリカ! これで本当に自由だ! 新しい世界が君を待っている! 目指すは、日本! 富士山、桜、そしてアニメの国だ!』

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