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桜花学院の影

重い腰を上げ、岡崎ゆかりは職員室の自席を立った。

窓の外は相変わらずの雨。

時刻は午後六時を回ろうとしていた。

照明の白い光が、がらんとした部屋に反射している。

他の教師たちはもう寮に戻ったか、あるいは帰宅したのだろう。

こんな時間まで残っているのは、おそらく自分くらいのものだ。


(まったく、面倒なことになったわね…)

心の中で悪態をつきながら、彼女は廊下へと歩を進めた。

目的地は学院長室。

ウェルテルの解析結果とICAへの正式な調査依頼の承認を得るためだ。

本来なら、こんな用件は内線SID通信で一瞬で済むはずだった。

思考を飛ばせば、相手の状況が許す限り、即座に意思疎通が可能なのだ。

わざわざ足を運ぶ必要など、どこにもない。

それが、この時代の常識のはずだった。


だが、桜花学院は違う。

いや、この学院に限らず、いまだに「直接会って話す」という行為に、ある種の重みや儀礼的な意味合いを持たせる人々や組織は少なくなかった。

特に、この学院のように「伝統」や「格式」を重んじる場所では、その傾向が強い。

学院長のような立場の人間に、SID通信だけで重要な報告や承認を求めるのは、非礼にあたると考えられているフシがある。


(非効率的だわ…古臭いったらありゃしない)

岡崎は内心で毒づいた。

長い廊下を歩きながら、自分の足音がやけに大きく響くのを感じる。

磨き上げられた床板は、雨に濡れた外の景色を鈍く映していた。

SIDのおかげで、世界は確かに効率的になった。

情報の検索、知識の習得、他者とのコミュニケーション。

あらゆるプロセスが短縮され、最適化された。

だが、その効率化の波に乗れない、あるいは乗りたくない人々もいる。

ジェンキンス先生もそうだった。

彼は頑ななアンプラグドで、SIDを「魂のない技術」と呼び、敬遠していた。

その彼が、忽然と姿を消した。

そして、彼のクラスの生徒たちのSIDがおかしくなっている。

偶然にしては出来すぎている。


SIDが人間の精神に何らかの影響を与える可能性。

それは、SIDCOMもICAも公式には認めていない。

あくまでも「ごく稀な個体差による不適合」あるいは「使用者の精神的素因」の問題だとされている。

しかし、本当にそうだろうか。

脳という、いまだ人類が完全には解明できていない領域に、直接外部から情報を注入し、思考を読み取るデバイスだ。

予期せぬ副作用や、未知の相互作用が起きないと言い切れるのか。


岡崎自身、SIDを使い始めてから、自分の思考や感情が以前とは微妙に変化しているのを感じることがあった。

それは、便利さや効率性と引き換えに、何か大切なものを少しずつ削り取られているような感覚。

例えば、感動。

美しい音楽を聴いたり、素晴らしい芸術に触れたりしたときの、あの胸を打つような強い感情の波。

SIDを通じて得られる情報や体験は、確かに鮮明で、膨大だ。

古今東西のあらゆる音楽や美術作品に、瞬時にアクセスできる。

専門家の解説や批評も、思考するだけで手に入る。

だが、それはどこか「情報」としての感動であり、かつてアナログなレコードや、美術館の展示室で感じたような、身体の芯から震えるような生々しい感動とは質が違う気がする。


他者との共感もそうだ。

SIDを通じて、相手の感情の起伏をデータとして読み取ることはできる。

表情や声のトーンの変化も、AIが解析して「喜び」「悲しみ」「怒り」といったラベルを付けてくれる。

便利だ。

誤解も少ない。

だが、それは本当に「共感」なのだろうか。

相手の心の痛みを、自分の痛みとして感じる。

相手の喜びを、自分の喜びのように分かち合う。

そんな、不器用で、時に厄介で、しかし人間らしい感情の交わりが、希薄になっているのではないか。


(だから、直接会うことが大事、なのかしら…)

岡崎はふと思った。

SIDを通さない、生身の人間同士の対面。

視線を合わせ、声の響きを感じ、微細な表情の変化や、言葉にならない空気感を共有する。

そこには、デジタル情報だけでは伝わらない、何かがあるのかもしれない。

面倒だとは思う。

非効率だとも思う。

だが、もしかしたら、その面倒で非効率なプロセスの中にこそ、人間が人間であるための、大切な要素が隠されているのかもしれない。


学院長室の重厚な扉の前に立ち、岡崎は一度深呼吸をした。

扉には古い真鍮のノッカーが付いている。

もちろん、電子ロックも併設されているが、この学院では、訪問者はまずノッカーを鳴らすのが礼儀とされていた。

これもまた、古臭い慣習の一つだ。


コンコン、と控えめにノックする。

すぐに内側から、落ち着いた男性の声がした。


「どうぞ」

岡崎は扉を開け、一礼して室内に入った。

学院長室は、彼女が想像していた通り、時代錯誤なほどにクラシックな内装だった。

壁一面を覆う、天井まで届くような書棚には、革装丁の古い書物がぎっしりと並んでいる。

おそらく、そのほとんどは電子化されていない、物理的な「本」なのだろう。

重厚なマホガニーのデスク。

その向かいには、ヨーゼフ・ホフマンのデザインによるクープスソファが二脚、ゆったりと置かれている。

部屋全体が、燻された木と古い紙、そして微かな葉巻の香りに満たされていた。


デスクの向こうに、学院長が座っていた。

名を、山城やましろという。

年齢は70歳を少し超えたくらいだろうか。

しかし、その背筋は伸び、矍鑠かくしゃくとしている。

銀色の髪を整え、隙のないダークスーツに身を包んでいる。

その鋭い眼光は、長年、多くの人間を見てきた者のそれだった。

彼は、この桜花学院が象徴するバンディズム、血族と伝統を重んじる価値観を体現するような人物に見えた。


「岡崎先生、どうかされましたかな? このような時間に」

学院長の声は、穏やかだが、どこか探るような響きを含んでいた。


「申し訳ありません、学院長。

少々、緊急にご相談したいことがございまして」

岡崎は、促されるままにソファの一つに腰を下ろした。

深く沈み込むような座り心地が、かえって彼女を緊張させた。


「ジェンキンス先生の件、そして…生徒たちのSIDの不調についてです」

岡崎は、これまでの経緯、生徒たちの具体的な症状、ウェルテルによる解析結果、そして匿名メッセージのことなどを、順を追って、しかし簡潔に説明した。

話しているうちに、自分の声が少し震えていることに気づく。


学院長は、黙って岡崎の話を聞いていた。

表情はほとんど変わらない。

ただ、指先でデスクの縁を規則的に叩く微かな音が、彼の内面の動揺を示しているのかもしれない、と岡崎は思った。


「…それで、ICAに正式な調査と、生徒たちのSIDログの再解析を依頼したい、と。

その承認をいただきに参りました」

岡崎が言い終えると、しばしの沈黙が流れた。

学院長は、組んでいた指を解き、ゆっくりとデスクの上に置いた。


「なるほど…状況は理解しました」学院長の声は、先ほどよりもさらに低く、重々しくなっていた。

「ジェンキンス先生の失踪は、誠に遺憾なことです。

警察にも最大限の協力をしていますが、依然として手がかりはない。

そして、生徒たちのSIDの不調…これも看過できない問題ですな」

彼は、まるで他人事のように、淡々と事実を確認する。

その態度に、岡崎は微かな苛立ちを覚えた。

もう少し、心配そうな素振りを見せてもいいのではないか。


「匿名メッセージについては、気にされる必要はないでしょう」学院長は続けた。

「SIDが普及してからというもの、この手の根拠のない情報や、社会不安を煽るような言説は後を絶ちません。

広告がなくなった代わりに、人々は別の形で情報を消費し、そしてそれに踊らされている。

嘆かわしいことです」

「しかし、学院長。

生徒たちの症状は現実に起きています。

そして、ウェルテルの解析では、単なるバグやデータ汚染とは考えにくい、と…」

「AIの解析が常に正しいとは限りませんよ、岡崎先生」学院長は、静かに岡崎の言葉を遮った。

「AIは道具に過ぎない。

使う人間の意図や、あるいは予期せぬ要因によって、容易に誤った結論を導き出す。

SIDCOMもICAも、その限界を理解しているはずです」

「ですが…!」

「ICAへのログ提出と再解析の依頼は承認しましょう」学院長は、岡崎が反論する間を与えずに言った。

「原因究明は急務です。

生徒たちの安全と、学院の秩序を守るためにも、最善を尽くさねばなりません。

手続きは、私の方で進めておきましょう」

その言葉は、迅速かつ適切な対応のように聞こえた。

だが、岡崎の胸の内の疑念は、晴れるどころか、むしろ濃くなっていくのを感じた。

学院長は、何かを知っている。

あるいは、何かを隠そうとしているのではないか。

このSIDの不調は、本当に偶然なのか? ジェンキンス先生の失踪との関連は?

(この人も、バンディズムという古い殻に閉じこもって、新しい世界の現実から目を背けているだけなのかしら…? それとも…)

思考がまとまらない。

何かがおかしい。

だが、その「何か」の正体が見えない。

SIDで情報にアクセスすれば、答えが見つかるだろうか? いや、おそらく、この問題の答えは、ネットワークの海の中にはない。

もっと深く、人間の、あるいは…人間ではない何かの、暗い意志の中に隠されているような気がする。


岡崎が、さらに何かを問い質そうと口を開きかけた、その時だった。


ピコン、と軽い電子音が学院長室に響いた。

学院長のSIDに、優先度の高い通信が入ったことを示す合図だ。

学院長は、わずかに眉をひそめ、視線を宙に泳がせた。

おそらく、彼の視界には送信者の情報が表示されているのだろう。


次の瞬間、学院長の表情が微かに変化した。

驚き、とまどい、そして…ほんの少しの警戒心。


「…ICAから?」学院長は呟くように言った。

「こんな時間に、直接…?」

岡崎は息を呑んだ。

ICA。

まさか、こんなに早く動きがあるとは。


学院長が、岡崎に向き直る。

その目には、先ほどまでの余裕は消え、複雑な感情が浮かんでいた。


「岡崎先生。

どうやら、話は我々が考えていたよりも、少し…込み入っているようです」

そう言って、彼はデスクの上に置かれた通信端末のボタンを押した。

部屋の中央の空間に、ゆらりと光が集まり、徐々に人の形を成していく。


現れたのは、一人の若い女性のホログラムだった。

年の頃は30代半ばだろうか。

黒髪をシンプルにまとめ、シャープな黒いスーツに身を包んでいる。

その佇まいは、知的で、冷静沈着。

しかし、その大きな瞳の奥には、容易には窺い知れない深い光が宿っている。

そして、その隣には、ちょこんと座った黒猫の姿もあった。

二本の尻尾を持つ、奇妙な猫だ。


ホログラムの女性が、静かに口を開いた。

その声は、涼やかで、しかし有無を言わせぬ響きを持っていた。


「ICAの常楽院雛子と申します。

学院長、そして岡崎先生。

緊急の案件につき、SIDCOMのプロトコルを一部省略し、直接コンタクトさせていただきました。

ジェンキンス先生の件、そして生徒さんたちのSIDに関する異常について、いくつか、早急にお話を伺う必要があります」

彼女は、イタリアからの中継だと言っていたはずだ。

それがなぜ、今、ここに? 岡崎の思考が急速に回転する。

これは、単なる調査依頼の返答ではない。

何かが、始まろうとしている。


常楽院雛子と名乗った女性は、岡崎と学院長を交互に見据え、静かに続けた。


「事態は、あなた方が認識されている以上に、深刻かもしれません」

その言葉は、物語の始まりを告げるゴングのように、雨音の響く学院長室に、重く、そして不吉に響き渡った。




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