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シャオ・ツーの差し出した手は、図書室の薄暗がりの中で、まるで燐光を発するかのように白く見えた。

その細い指先が、私自身の未来を掴み取れとでも言うように、力強く、しかし有無を言わせぬ静けさでそこにある。

私は、一瞬、呼吸を忘れた。

この手を取るということは、私が今まで生きてきた、静かで、孤独で、そしてある意味では守られていた世界との決別を意味する。

それでも、私の心の奥底で、何かが強く彼に応えようとしていた。

それは、単なる好奇心や、現状への不満だけではない、もっと根源的な、魂の渇望のようなものだったのかもしれない。


床に落ちたままの『霊子物理学入門』が、まるで運命の書物のように私の視界の隅に映る。

霊子、意識、物質化…。

私の人生は、この本との出会い、そしてこの少年との遭遇によって、未知の領域へと舵を切ろうとしている。

私は、震える自分の手を伸ばし、彼の、驚くほど冷たい指先に触れた。

その瞬間、微かな電流のようなものが、私たちの間に流れたような気がした。


「…分かったわ」私の声は、自分でも意外なほど、しっかりと響いた。

腹の底から湧き上がる、静かな決意の音だった。


「あなたたちの目的が、本当にこの学院の、そして生徒たちの未来を守るためだというのなら、私にできる限りの協力をする。でも、言っておくけれど、私は誰かの言いなりになるつもりはない。

私自身の目で見て、私自身の頭で考えて、そして私自身の意志で行動する。それでいいのなら」


シャオ・ツーの表情が、ほんのわずかだが、和らいだように見えた。

彼の瞳の奥の、あの底知れない光が、一瞬だけ、人間的な温かみを帯びたように感じられたのは、私の願望が見せた幻影だろうか。


「もちろんだ」彼の声には、確信が込められていた。「僕たちは、誰かに従属するための集まりじゃない。それぞれが持つ力を合わせ、このどうしようもない状況に立ち向かうための、対等な仲間だ」

その言葉は、不思議なほど素直に、私の心に染み込んできた。

対等な仲間。

それは、私がずっと心のどこかで求めていた響きだったのかもしれない。

孤独な星として、知識という名の宇宙を一人で漂流し続けてきた私にとって、それは初めて感じる、確かな引力だった。

その時だった。

図書室の重厚な扉が、ギィ、と軋むような音を立ててゆっくりと開き始めた。

夕暮れのオレンジ色の光と共に、岡崎先生が心配そうな顔で顔を覗かせた。

彼女の視線は、まず私を捉え、そして一瞬、シャオ・ツーがいたはずの空間に向けられたが、そこにはもう、彼の姿も、あの不気味なファミリア、フロイドの気配もなかった。

彼らは、まるで最初からそこに存在しなかったかのように、音もなく消え去っていた。


後に残されたのは、私と、私の隣で心配そうにAR空間を漂う金色のウツボ、エイミー。

そして、私の手の中には、いつの間にか拾い上げていた『霊子物理学入門』。

そのずしりとした重みが、先ほどまでの出来事が決して夢ではなかったことを、私に告げていた。


「長岡さん、こんな時間にまで図書室にいたの? もう閉館時間よ。それに…常楽院さんが、あなたを探しているわ」

岡崎先生の声は、いつものように少しだけ甲高く、そして心配の色を隠しきれていない。

常楽院さん。ICAのエージェント。

彼女もまた、この学院の深い闇に足を踏み入れようとしているのだろうか。

私たちは、これから敵となるのか、それとも…。


「…すみません、先生。少し、読書に夢中になってしまって」私は、何事もなかったかのように平静を装って答えた。

私の内側で、新しい物語が、確かに動き出したのを感じながら。


――常楽院さんが、あなたを探しているわよ。


岡崎先生のその言葉が、まるで遠いエコーのように私の意識に響き、長岡静子の記憶ログへのインベイシブ・ダイブはそこで途切れた。

正確には、私が意図的に接続を遮断したのだ。

二週間ほど前の、図書室での出来事。

あの時、シャオ・ツーは長岡静子を「仲間」として引き入れた。

彼の言葉巧みな誘導、そして意識の同期という強引な手段。

それは、単なる勧誘というよりは、むしろ精神的な「侵略」に近い行為だったように思える。




常楽院雛子は、休憩室の窓辺に立ったまま、ゆっくりと目を開けた。


他者の記憶という海から急浮上した後の、いつもの軽い眩暈と、思考の残響が彼女を包む。

現実の、無機質な休憩室の風景が、長岡静子の見ていた薄暗い図書室のイメージと重なり、視界が安定するまでに数秒を要した。


これで、学院内でSID不調を訴えている主要な生徒たち――斎藤嘉樹、坂本直行、そして長岡静子――の意識への初期アクセスがすんだ。

そして、そのすべてに、あのシャオ・ツーという少年が、深く関わっていることが明らかになった。


彼のファミリアであるフロイドが見せた、物理的な干渉能力。

「デジタル意識の物質化」という、常識ではありえない現象。

そして、彼が他の生徒たちに対して行っている、意識の同期、あるいは記憶への介入とも思える行為。

それらは全て、通常のSIDの機能では説明がつかない。


『…どうやら、私たちの想像以上に、事態は深刻で、そして奇妙な方向へ進んでいるみたいだね、雛子』

私の思考を読み取ったかのように、ジジが足元で小さく呟いた。

彼の黒猫のアバターは、私の視界の中で心配そうに尻尾を揺らしている。

彼の金の瞳には、AIの論理的な処理能力を超えた、まるで人間のような深い憂慮の色が浮かんでいた。


「ええ」私は短く応じた。

彼の言葉に同意するしかなかった。

「あのシャオ・ツーという少年…彼はいったい何者なの? そして、あの異常なまでに強力な、そして危険な改造SID-OSを、どうやって手に入れたのかしら…」

長岡静子の記憶の中で、シャオ・ツーは自分の養父母を殺害したと告白していた。

その言葉が真実かどうかはまだ分からない。

だが、彼が普通の十四歳の少年ではないことだけは確かだ。

彼は、何らかの形で霊子の力に触れ、その影響下にあり、そして、その力を利用して、この桜花学院で何かを成し遂げようとしている。


「仲間集め」と彼は言った。


斎藤嘉樹、坂本直行、そして長岡静子。

彼らに共通するのは、SIDへの高い適応能力と、そして何よりも、彼らの精神が、シャオ・ツーの干渉を受け入れやすい、ある種の「揺らぎ」を抱えていたことだ。

シャオ・ツーは、その揺らぎを巧みに利用し、彼らを自分の計画に引きずり込もうとしている。


(彼の目的は、本当に「学院の本当の顔を暴き出す」ことだけなのかしら…?)


私は、シャオ・ツーの瞳の奥に潜む、あの冷たい光を思い出していた。

それは、単なる正義感や復讐心だけでは説明がつかない、もっと深く、複雑な何かを感じさせた。

彼自身もまた、何者かに利用されている駒の一つに過ぎないのかもしれない。

そして、その背後には、私が追っているICAの極秘プロジェクト「ジェネシス」の影がちらついている。


『雛子、次のターゲットはエリカ・ロドリゲスだね? 彼女もシャオ・ツーの「仲間候補」リストに入っていた。

彼女のSIDログは、他の生徒たちとは比較にならないほど複雑で、異常なパターンを示している。

七体ものファミリアを同時に使役しているという情報もある。

彼女へのダイブは、さらに慎重を期す必要があるだろう』ジジが、冷静に情報を整理し、私に伝えてくる。


サクラ・エリカ・ロドリゲス・有栖川。

メキシコからの養子。

常に霧の中にいるような、現実感の希薄な少女。

彼女もまた、この学院の闇に深く関わっているのだろうか。

あるいは、彼女こそが、この事件のもう一つの鍵を握る存在なのかもしれない。


私は、休憩室の窓から見える、夕闇に沈みゆく桜花学院の広大なキャンパスを見下ろした。

美しく整えられた庭園、歴史を感じさせる重厚な校舎。

その全てが、まるで巨大な虚構、巧妙に作られた舞台装置のように感じられた。

そして、その舞台の上で、生徒たちは、教師たちは、そして私もまた、見えない糸に引かれる操り人形のように、それぞれの役割を演じている。


コンコン、と控えめなノックの音がして、岡崎先生が緊張した面持ちで部屋に入ってきた。


「常楽院さん、サクラ・エリカ・ロドリゲス・有栖川さんをお連れしました。面談室の準備はできています」


「ありがとうございます、岡崎先生」私は、彼女に促されるまま、部屋を出た。


廊下を歩きながら、私は思考を巡らせる。

この学院には、深い、深い闇が潜んでいる。

それは、単なる個人的な悪意や、組織的な陰謀というだけではないのかもしれない。

SIDというテクノロジーが人間の意識を拡張し、接続した結果、生まれ出でてしまった、新たな「存在」、あるいは、古来から人間の無意識の奥底に潜んでいた、原始的な「何か」が、霊子という未知の力を触媒として、この現実世界に顕現しようとしているのかもしれない。


サクラ・エリカ・ロドリゲス・有栖川が待つ面談室の扉が、ゆっくりと開かれようとしていた。


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