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シャオ・ツーと名乗った少年――いや、もはや彼を単なる「少年」と呼んでいいのか、私には分からなかった――の手を、私は確かに取った。

床に座り込んだままの私を、彼は力強い、しかしどこか不自然なほどに軽い力で引き起こしてくれた。

彼の隣では、フロイドと名乗る、実体を持ったかのようなファミリアが、相変わらず薄気味悪い笑みを浮かべている。


「立てるかい?」シャオ・ツーの声は、先ほど私の意識に直接流れ込んできた、あの有無を言わせぬ響きとは違い、どこかぎこちなく、年相応の少年のそれに戻っているように聞こえた。

だが、彼の瞳の奥に宿る、底知れない深淵のようなものは、変わらない。


私は、まだ少し震える脚で立ち上がりながら、図書室の中を見回した。

書架も、テーブルも、窓から差し込む西日も、何も変わっていない。

先ほどの、私の記憶と他者の記憶が混濁し、世界が歪むような体験は、まるで悪夢だったかのようだ。

だが、額に滲む冷や汗と、未だに激しく波打つ心臓が、あれが現実だったのだと告げている。


「…あなたたちは、一体、何なの?」私は、かろうじて声を絞り出した。


「さっきのは…何だったの? SIDの暴走? それとも、何か新しい…ハッキング技術か何か?」


「言葉で説明するのは難しいな」シャオ・ツーは、少し困ったような顔をした。

「君が体験したのは、意識の同期、とでも言うべきものだ。僕の記憶の一部と、そして、もう一人の仲間…奈央の記憶の一部が、君の意識と混ざり合った。

乱暴なやり方だったことは謝る。でも、君に信じてもらうためには、あれが一番手っ取り早い方法だと思ったんだ」

奈央。


確か、さっき私の意識の中に見えた、あの栗色の髪の、華奢な…女の子? いや、中等部の制服を着ていたから、男子生徒のはずだ。

けれど、その姿は、どう見ても少女にしか見えなかった。

そして、彼女(彼?)のファミリアは、確かオランウータンの姿をしていた。


「信じる、って…何を?」


「この学院で、そして、もしかしたらSIDCOMやICAも関わっているかもしれない、恐ろしい計画が進行しているということ。そして、僕たちは、それを止めなければならないということだ」シャオ・ツーの瞳が、再びあの、鋭い光を帯びた。


「計画…?」私は、彼の言葉の断片を繋ぎ合わせようと試みた。

人格転移、器、霊子…。

どれもこれも、現実離れした、まるで質の悪いSF小説のような話ばかりだ。


「そんなこと…本当に信じろと?」


「信じられない、と思うのは当然だ」シャオ・ツーは頷いた。

「僕も、最初はそうだった。でも、事実は事実として受け止めるしかない。そして、行動しなければ、僕たちは皆、彼らの犠牲になるだけだ」


彼の言葉には、異様なまでの説得力があった。

それは、彼が体験した恐怖と怒り、そして絶望が、あまりにも生々しく私の意識の中に残響しているからかもしれない。

育ての親を、自らの手で…。

その記憶は、今も私の胸を締め付ける。


「静子、大丈夫?」


不意に、私の視界の隅で、金色のウツボが心配そうに私を見上げていた。

エイミーだ。

彼女は、私がシャオ・ツーに意識を同期させられている間、私の精神を守るために、必死に抵抗してくれていたのだろうか。

彼女のARアバターが、いつもより少しだけ、ぼやけて見えるような気がした。


「エイミー…ごめん、心配かけたわね」私は、思考で彼女に語りかけた。

「私は大丈夫。でも…少し、混乱している」


『彼の言っていることが、事実かどうかは、まだ分かりません』エイミーは、冷静に私に助言した。


『ですが、あなたのSIDログ、そして坂本直行くんと斎藤嘉樹くんのログにも、確かに不可解なノイズパターンが記録されています。

そして、シャオ・ツーくんのファミリア、フロイド。


彼の実体化現象は、現在のSIDの技術では説明不可能です。


彼らが、何らかの特異な状況下に置かれていることは、間違いありません』


「あなたにも、見えたの? フロイドが鉛筆を動かしたのを?」


『はい。私のスキャン機能では、彼がAR表示ではない、何らかの未知のエネルギー体として空間に干渉していることが確認されました。

そして、あなたの意識にダイブしてきた、あの『声』…。あれは、人間のものではありませんでした』


エイミーの言葉は、私の混乱をさらに深めた。

だが、同時に、シャオ・ツーの言葉を、完全に否定することもできなくなっていた。


「長岡さん」シャオ・ツーが、私の思考を中断するように言った。


「僕たちには、時間がない。学院長や、他の教師たちも、もう気づいているかもしれない。僕たちが、何かを探り始めたことに」


「…何をすればいいの?」私は、無意識のうちにそう尋ねていた。

もう、後戻りはできない。

あの強烈な意識の同期を体験してしまった以上、私はこの事件の当事者になってしまったのだ。

知ってしまった以上、知らなかった頃には戻れない。


「仲間が必要なんだ」シャオ・ツーの目が、私を真っ直ぐに捉えた。


「君のように、霊子を感じ、意識を同期させる力を持つ、特別な仲間が。そして、君の知識と、その冷静な判断力が、僕たちには必要なんだ」


私の知識? 冷静な判断力? それは、私がずっとコンプレックスに感じていた、知的な孤独と、感情の希薄さのことではないのか。

SIDによって、あらゆる知識は容易に手に入るようになった。

けれど、それは私の心を豊かにするどころか、むしろ現実世界との間に、見えない壁を作ってしまったような気がしていた。


情報が多すぎるのだ。

世界は、SIDを通じて、かつてないほど詳細に、鮮明に見えるようになった。

ニュースも、学術論文も、他人の感情のデータさえも、瞬時に手に入る。

けれど、その「解像度の上がった」世界は、私にとって、どこか白々しく、リアリティのないものに感じられた。


例えば、歴史の勉強。

SIDを使えば、ある出来事に関するあらゆる情報を、瞬時に引き出すことができる。

関連年表、人物相関図、当時の社会情勢、最新の研究成果。

完璧なデータが、目の前に提示される。

けれど、それは、かつて私が紙の本を読みながら、想像力を駆使し、行間を読み解き、自分なりの歴史像を構築していった、あの骨の折れる、しかし充実した学びの体験とは、全く異質なものだった。


感情もそうだ。

他人の喜びや悲しみが、パーセンテージやグラフで表示される。

便利だ。

誤解は減るだろう。

けれど、それは、相手の瞳の奥に揺らめく、言葉にならない感情の機微や、矛盾した心の動きを、本当に「理解」したことにはならないのではないか。

むしろ、分かったつもりになって、相手の複雑な内面から、目を背けているだけではないのか。


SIDは、私を孤独にしたのかもしれない。

知識は増えたが、共感する力は衰えた。

世界は広がったが、足元はふらついている。

そんな宙吊りのような状態で、私はずっと生きてきた。

それが、私の「力」だというのだろうか?


「…私が、役に立てるかどうかは分からないわ」私は、正直な気持ちを口にした。


「私は、ただの本好きの、少し変わった生徒なだけよ」


「そんなことはない」シャオ・ツーは、きっぱりと言った。

「君は、自分で思っている以上に、強い。そして、賢い。そうでなければ、あの意識の奔流に耐えられなかったはずだ。君の中には、まだ目覚めていない、大きな可能性がある。それを、僕たちが引き出す手伝いをさせてほしい」

彼の言葉は、熱を帯びていた。

それは、斎藤嘉樹が語っていたような、自己陶酔的な万能感とは違う、もっと切実で、どこか悲壮な響きを持っていた。


フロイドが、ニヤリと笑いながら口を挟んだ。


「ま、そういうこった。お嬢ちゃんも、俺たちと一緒なら、もっと面白い世界が見れるぜ? 退屈な本を読んでるよりは、ずっと刺激的だろ?」

その軽薄な口調に、私は少しだけ眉をひそめた。

だが、彼の言う「刺激的な世界」という言葉には、抗いがたい魅力があったのも事実だ。


私は、床に落ちていた『霊子物理学入門』を拾い上げた。

この本との出会いもまた、偶然ではなかったのかもしれない。

霊子、意識、物質化…。

私の知的好奇心が、否応なく掻き立てられる。


「…分かったわ」私は、深く息を吸い込み、決意を込めて言った。

「あなたたちに協力する。ただし、私自身の判断で行動させてもらう。そして、もしあなたたちが間違っていると判断したら、その時は…」


「その時は、僕たちを止めればいい」シャオ・ツーは、私の言葉を遮るように言った。


「僕たちは、同じ船に乗ったんだ。これから、何が起きるか分からない。でも、一人で立ち向かうよりは、ずっといいはずだ」

彼の言葉は、不思議なほど素直に、私の心に響いた。

そうだ、私はずっと孤独だった。

SIDがもたらす情報の海の中で、誰とも本当には繋がれずに、一人で漂流しているような感覚。

けれど、今、目の前にいる彼らもまた、それぞれの形で孤独を抱え、そして戦おうとしている。

その繋がりは、SIDを通じた希薄な共感ではなく、もっと生々しい、運命共同体のような絆なのかもしれない。


「エイミー」私は、ファミリアに思考で語りかけた。「あなたも、それでいい?」


『静子、あなたの選択を、私は尊重します』エイミーのウツボの姿が、私の視界で優雅に円を描いた。

『ですが、くれぐれも慎重に。彼らが関わっている事象は、私たちの理解をはるかに超えている可能性があります。あなた自身の安全を、常に第一に考えてください』


「ありがとう、エイミー」


私は、シャオ・ツーとフロイドに向き直った。

西日は完全に沈み、図書室の中は薄暗くなっている。

だが、私の心の中には、久しぶりに、確かな灯火が灯ったような気がした。

それは、知的な探求心であり、危険な状況へのスリルであり、そして、孤独ではなかった頃の、誰かと共に困難に立ち向かうという、遠い記憶の残滓なのかもしれない。


「それで、私たちは、これから何をすればいいの?」


私の問いかけに、シャオ・ツーは、にやりと笑った。

その笑顔は、もうあの得体の知れない冷たさではなく、同じ秘密を共有する、共犯者のそれだった。


「まずは、仲間集めだ。そして、この学院の、本当の顔を暴き出すのさ」


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