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坂本直行の意識の深層は、予想外の静謐さに満ちていた。


斎藤嘉樹の精神の奥底にあった、あの攻撃的で異質な「ノイズ」の気配は、ここには微塵も感じられない。


ただ、どこまでも広がる、鏡のように静かな水面。


それは、ある種の自己防衛機制が働いているのか、それとも、彼の精神構造そのものが、外部からの干渉を受け流すような、特殊な性質を持っているのだろうか。



『雛子、さらに深度を上げるか? アビスの境界だ。これ以上は未知の領域になる』ジジの声が、思考の片隅で冷静に警告を発する。


黒猫のファミリアは、常に私の精神のナビゲーターとして、危険な領域への進入には慎重だ。


だが、私は決意を固めた。

岡崎先生が言っていた。

「坂本くんが、急に変わった」。

その「変化」が起きたとされる時期、彼の精神に何が起こったのか。


それを突き止めなければ、この学院で起きている一連の事件の核心には迫れない。

そして、あの静謐すぎる無意識の領域。

あれは、自然な状態ではない。

まるで、分厚い氷が湖の表面を覆い隠しているかのように、何か重要なものが、その下に隠されている気がするのだ。


「もう少しだけ、潜るわ、ジジ。彼の『変化』が起きた時期…半年前くらいの記憶領域に、慎重にアクセスしてみて」


『了解した。だが、無理は禁物だ。対象の精神抵抗値、バイタルは安定しているが、油断するな。こちらでも常時監視を続ける』


私は、意識の舵を、彼の記憶が保存されている領域へと向けた。


SIDは、人間の記憶を完璧にデジタルデータとして記録・保存するわけではない。

それは、むしろ、経験や感情と結びついた、膨大な神経パターンのネットワークだ。

ダイブによって、そのネットワークの一部を刺激し、過去の経験を「再体験」する形でアクセスする。


それは、他人の夢の中に入り込むような、あるいは、他人の人生の一場面を、その当人の視点と感情で追体験するような、極めて繊細で、プライベートな行為だ。


目指すのは、半年前。

彼が、より「女性的」な姿へと変化し始めたとされる時期の記憶。

彼のファミリアであるガンジャとの関係、あるいは他の生徒との交流の中で、何が彼のアイデンティティを揺さぶり、変化を促したのか。


記憶の層を、慎重に遡っていく。

現在の意識から、数週間前、数ヶ月前へ。

時間の流れを逆行するように、彼の経験の断片が、私の意識の中に流れ込んでは消えていく。

授業の風景、寮での生活、友人との他愛ない会話、そして、鏡に映る自分自身の姿を見つめる、彼の複雑な眼差し…。


(あった…このあたりね)


半年前、春先。

季節が冬から春へと移り変わる頃の記憶。

まだ、彼の服装は男子用の制服が主だ。

だが、その仕草や言葉遣いに、既に微かな変化の兆しが見える。

鏡の前で、女子用の制服を当ててみたり、長い髪を気にするような素振りを見せたり。

ガンジャとの対話の中で、「性別とは何か」「自分はどうありたいのか」といった、哲学的な問いかけを繰り返している。


『この時期、彼のジェンダーに対する関心が急速に高まっている。だが、トリガーとなった明確な出来事は、まだ見当たらないな』ジジが分析結果を報告する。


そうだ。

何かが足りない。

彼の内面的な葛藤は見て取れる。

だが、岡崎先生が言うような「急激な変化」を引き起こすほどの、決定的な出来事の記憶が、見当たらないのだ。

まるで、その部分だけが、意図的に欠落しているかのように。


私は、さらに特定の時間軸――彼が、特に大きく変わったとされる、春休み明け直後の数日間――に焦点を絞り、記憶の探索を続けた。

だが、奇妙なことに、その時期の記憶だけが、まるで厚い霧に覆われているかのように、霞んで判然としない。

アクセスしようとすると、強い抵抗感がある。

これは、彼自身の無意識のブロックなのか? それとも…。


『雛子、注意しろ。記憶領域の一部に、不自然な改竄、あるいは…上書きされた痕跡がある』ジジの声に、緊張が走った。

『これは、単なる記憶の欠落や抑圧ではない。何者かが、彼の記憶に直接介入した可能性が高い』


記憶の上書き。

SIDの技術倫理において、最も重い禁忌の一つだ。

他人の記憶を、本人の同意なく書き換える。

それは、その人間の人格そのものを書き換えるに等しい行為。

そんなことが、本当に可能なのか? そして、誰が、何のために?

私は、その霧がかった記憶領域の「壁」に、慎重に意識の触手を伸ばした。

壁の向こうに、何か重要な真実が隠されている。

それを、こじ開けなければならない。


触れた瞬間、ビリッ、と鋭い静電気のような衝撃が、私の精神を貫いた。


(!?)


これは、ただの抵抗ではない。

明確な「拒絶」。

そして、その拒絶には、意思が宿っている。

坂本直行本人のものではない、別の誰かの、冷たく、強い意志。


『――邪魔を、しないで』


声が、私の頭の中に直接響いた。

それは、男の声でも女の声でもない、年齢も性別も判別できない、奇妙に平坦で、しかし有無を言わせぬ響きを持った声だった。


『ここは、あなたの立ち入るべき領域ではない。引き返しなさい。さもなくば、あなた自身の精神も、保証はしない』


警告。

いや、脅迫だ。

私のインベイシブ・ダイブを、誰かが感知し、そして妨害しようとしている。

一体、誰が? 学院の教師? 外部の組織? それとも…この坂本直行の精神の奥底に潜む、未知の存在?


『雛子! 精神汚染の危険がある! 即時離脱を推奨する!』ジジの警告が、緊急アラートのように私の意識に鳴り響く。


分かっている。

これ以上深入りするのは危険だ。

だが、ここで引き下がれば、真相は闇の中だ。

私は、ギリギリのところで踏みとどまり、相手の意識に問いかけた。


「あなたは、誰? 何故、彼の記憶を隠蔽するの?」


返答はない。

ただ、拒絶の意志が、冷たい圧力となって、私の意識を押し返してくる。

まるで、分厚い氷の壁が、目の前に立ちはだかるようだ。

その壁の向こう側で、何かが蠢いている気配がする。


(…今は、引くしかないか)


悔しいが、無理をすれば、私も、そして坂本直行も、危険に晒すことになる。

私は、ゆっくりと、しかし確実に、彼の意識から離脱を開始した。

浮上していく感覚の中で、最後に一度だけ、あの霧がかった記憶領域の壁を振り返る。


壁は、相変わらず厚く、冷たく、私の侵入を拒んでいた。

だが、その表面に、一瞬だけ、亀裂のようなものが走ったように見えた。

そして、その亀裂の奥から、微かに、しかし強烈な「恐怖」の感情が漏れ出してくるのを、私は感じ取った。

それは、坂本直行自身の、心の叫びなのかもしれない。


意識が、完全に現実の休憩室へと戻ってくる。

目の前には、椅子に座ったまま、ぐったりと目を閉じている坂本直行の姿があった。

彼の顔は青白く、額には冷や汗が滲んでいる。

ダイブによる精神的負荷は、想像以上に大きかったようだ。


「…坂本くん、大丈夫?」私が声をかけると、彼はゆっくりと目を開けた。

その瞳には、深い疲労と、そして説明のつかない恐怖の色が浮かんでいた。


「…今のは…何だったんですか…?」彼の声は、か細く震えていた。

「頭の中に…誰かが…」


彼は、ダイブ中に私が経験した「拒絶」の感覚を、彼自身もまた、朧げながら感じ取っていたのかもしれない。


「少し、あなたのSIDにノイズが混入していたようです」私は、事実の一部だけを告げた。


「原因はまだ特定できませんが、精神的な負荷が大きいようです。今日はここまでにしましょう。ゆっくり休んでください」


彼は、まだ何か言いたげだったが、力なく頷くと、岡崎先生に付き添われて部屋を出て行った。

彼が去った後、私は深い溜息をついた。


『雛子、大丈夫か?』ジジが、心配そうに私を見上げた。


「ええ、なんとかね」私は答えた。「でも、確信したわ。彼の記憶は、何者かによって意図的に改竄されている。そして、その犯人は、今も彼の精神の奥底に潜んでいる」


『あの拒絶の意志…強力だった。通常の精神干渉プログラムではない。もっと根源的な、意識そのものに近い何か…あるいは、複数の意識が融合したような…』


「霊子…」私は呟いた。

「霊子が関わっているのかもしれない。意識を操作し、記憶を上書きする。

そんなことが、本当に可能なのか…」


『可能だとしたら、それはSID技術の根幹を揺るがす、恐るべき事態だ。

そして、あの謎の声…「邪魔をしないで」と言った存在。あれはいったい…』


分からないことだらけだ。

だが、一つだけ確かなことがある。

この学院には、深い闇が潜んでいる。

そして、その闇は、生徒たちの精神を蝕み、静かに広がっている。


私は、次の面談相手のリストを確認した。

長岡静子。

読書好きで、孤高を好む少女。

彼女もまた、SID社会に違和感を抱いているという。

彼女の意識の中にも、何か手がかりが隠されているかもしれない。


あるいは、彼女自身もまた、見えないノイズに蝕まれているのだろうか。


窓の外を見ると、空は完全に夕闇に包まれ、中庭にはもう生徒たちの姿はなかった。

静寂が、学院全体を支配している。


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