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目の前の光景が、どうしても信じられなかった。
教室の、くたびれた長机の上に転がっていたはずの鉛筆が、宙に浮いている。
それも、ただ浮かんでいるのではない。
まるで透明な、しかし器用な指先を持つ誰かに操られているかのように、くるくると軽やかに回転しているのだ。
見えない糸に吊られているのでも、磁力で引き寄せられているのでもない。
動きが、あまりにも…生きている。
ランダムで、予測不能で、時折ふっと力を失ったように床に落ちかけるかと思えば、次の瞬間には拾い上げられ、再び空中で踊り始める。
トリック? 手品? 誰かが、僕をからかっているのか?
僕は、ゆっくりと鉛筆に顔を近づけた。
もっとよく見れば、何か仕掛けが見つかるかもしれない。
細いワイヤー、あるいは指向性の反重力フィールドでも発生させているのか。
SIDを通じたAR表示なら、そういうトリック映像を作り出すことは可能だろう。
だが、僕はさっき、シャオ・ツーの言葉に従って、ARの共有モードを解除したはずだ。
僕の視界には、僕自身のファミリアであるガンジャ以外のAR像は映し出されない設定になっている。
なのに。
「うわっ!」
思わず声を上げて後ずさった。
鉛筆に焦点を合わせようとした僕の目の前に、ぬっと、あの男が現れたからだ。
フロイド。
シャオ・ツーのファミリア。
だらしなく、焦点の定まらない目をした、あの男。
(そんな馬鹿な!)
心臓が早鐘を打つ。
パニックになりそうな頭で、必死に状況を整理しようとする。
AR共有は切れている。
他人のファミリアが見えるはずがない。
それに、もしこれが何らかのバグや、あるいはシャオ・ツーによる強制的なAR投影だとしても、説明がつかないことがある。
影だ。
フロイドには、はっきりと影がある。
教室の窓から差し込む午後の光を受けて、彼の足元には、床の上に伸びる、実体のある影が落ちている。
ARレイヤーにオーバーレイされるだけの、薄っぺらいイメージではない。
彼は、確かに「そこ」に、「存在」している。
(まさか…鉛筆も、本物じゃないのか?)
僕の思考が、あらぬ方向へと飛躍する。
そうだ、あのくるくる回る鉛筆自体が、フロイドと同じように、極めてリアルに描写されたAR映像なのかもしれない。
だとしたら、触ろうとしても、するりと指が抜けるだけのはずだ。
僕は、震える手を抑えながら、フロイドに近づいた。
確かめなければならない。
この目の前で起きている異常な現象の正体を。
フロイドは、僕の意図を見透かしたかのように、薄笑いを浮かべて、ただ黙って立っている。
回していた鉛筆は、いつの間にか彼の指の間から消えていた。
僕は、ゆっくりと右手を伸ばす。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
指先に、全神経を集中させた。
触れた。
僕の人差し指と中指の先端が、同時に彼の右腕、肘のすぐ上のあたりに触れた。
そこに、確かに「何か」が存在する感触。
布地越しではない。
直接、肌に触れているような、奇妙な生暖かささえ感じる。
続けて、小指の先も触れる。
手のひら全体で、彼の二の腕の丸みを撫でる。
間違いない。
これは、ただの映像ではない。
確かな実体を持っている。
だが、その感触は、僕が知っている人間のそれとは、決定的に異なっていた。
(なんだ、これは…?)
ひんやりとしているようで、同時に微かな熱を持っている。
弾力があるようで、しかし確固たる形状を保っている。
まるで、冷たい煙に触れているような、それでいて確かな質量を感じさせる、矛盾した感覚。
そして、触れた瞬間から、指先がふわりと軽くなるような、妙な抵抗感が伝わってくる。
まるで、僕自身の生体エネルギーが、彼に吸い取られていくような…。
その抵抗感が、じわじわと強まっていく。
指先から腕へ、そして肩を通って、僕の頭の中心へと到達した瞬間――。
「あっ…!」
声にならない叫びとともに、僕は素早く手を引っ込めた。
頭の中に、直接、異質な何かが流れ込んできたような、強烈な違和感と不快感。
脳が、拒絶反応を起こしている。
呼吸が荒くなる。
目の前のフロイドは、相変わらず薄笑いを浮かべて、僕を見下ろしている。
僕の反応を楽しんでいるかのようだ。
確かなことは三つ。
一つ、フロイドは擬似的なAR表示のファミリアではない。
質量と実体を持つ、何らかの存在だ。
二つ、彼は人間ではない。
生命が持つ、あの温かみや躍動感が、決定的に欠けている。
三つ、彼は、危険だ。
窓の外で、雲が流れ、強い西日が教室に差し込んできた。
床に落ちるフロイドの影が、より一層濃くなる。
時計の針は、午後三時八分を指していた。
さっきシャオ・ツーが時間を言った時から、まだ数分しか経っていないはずなのに、まるで永遠のような時間が流れた気がした。
フロイドが、一歩、僕に近づいた。
そして、その冷たい、しかし確かな感触を持つ手を伸ばし、僕の頬にそっと触れた。
ひやりとした感覚と、同時に吸い取られるような感覚が再び襲ってくる。
「ところでさ」フロイドが、僕の目を覗き込みながら言った。
「君は、なんで女の子の格好をしてるんだい?」
僕は、びくりとして視線をそらした。
一番触れられたくない部分に、彼は容赦なく踏み込んできた。
「トランスジェンダーってやつ? 君の性自認とかいうのは、女性なのかな?」
返事ができない。
隣にいるシャオ・ツーの方を見ると、彼は黙って窓の外を眺めていた。
逆光で、彼の表情はよく見えない。
だが、彼がこの会話を主導していることは明らかだった。
「見た目も、かなり華奢だしね」シャオ・ツーの声が、静かに響いた。
「名前は、どう考えても男の子の名前だ。坂本直行。うん、力強い、いい名前じゃないか。それなのに、友達には自分のことを『奈央』って呼んでほしい、とか言ってるんだって? SIDを装着してから、何か、新しい自分に目覚めた、とかそういう感じかい?」
「…何が、聞きたいの?」僕は、ようやくそれだけを絞り出した。
声が、自分でも驚くほど震えていた。
シャオ・ツーもフロイドも、黙ったまま僕を見ている。
その視線が、痛い。
まるで、僕の内面の、一番柔らかな部分を、針で突き刺すかのようだ。
僕が、自分の性別に違和感を覚え始めたのは、いつだったか。
確か、十歳になる少し前。
初めて「イマーシウム」――旧世代のVR(仮想現実)をさらに進化させた、全感覚没入型の仮想空間――にアクセスした時だった。
母さんが持っていた、最新型のデバイス。
最初は、ただの好奇心だった。
あるいは、何も考えずに、デフォルト設定のアバターを選んだだけだったのかもしれない。
けれど、その仮想空間で、女性のアバターとして動き回り、他のユーザーと交流する中で、僕は奇妙な感覚にとらわれたのだ。
「女性の身体を持っている」という状態が、驚くほど自然で、しっくりくると感じられた。
何の違和感もない。
むしろ、これこそが本当の自分なのではないか、とさえ思った。
現実に戻ってきた時の衝撃は、大きかった。
鏡に映る、男の子としての自分の姿。
それが、まるで借り物のように感じられた。
「この身体は、本当の僕じゃない」
その思いは、日増しに強くなっていった。
それからしばらくして、僕は、男の子らしいとされる服装や持ち物に、全く興味を示さなくなった。
代わりに、女の子が着るような、柔らかい色合いの服や、可愛らしいデザインの小物を好むようになった。
両親は、幸いにも理解があった。
特に母さんは、「あなたがあなたらしくいられるのが一番よ」と言って、僕の選択を尊重してくれた。
父さんも、最初は少し戸惑っていたようだけれど、最終的には「お前の人生だ、好きにしなさい」と言ってくれた。
彼らは、僕のことを「なお」と呼ぶようになり、女の子向けの服や持ち物を買い与えてくれた。
この桜花学院に入学してからも、僕は自分のスタイルを隠そうとはしなかった。
女子用のセーラー服を着て授業に出る。
最初は奇異の目で見られたし、陰口を叩かれたこともあった。
けれど、この2058年の社会では、ジェンダーに対する考え方は、僕が子供の頃よりも、さらに流動的になっていた。
男らしさ、女らしさ、という固定観念は薄れ、性別は個性の一部として捉えられるようになっている。
少なくとも、建前上は。
気分によって服装を選ぶように、気分によって自分の「性」を選ぶ。
今日は男の子っぽく、明日は女の子っぽく。
そんな感覚が、特に若い世代の間では、ある程度受け入れられつつあった。
人を愛する形も、家族の形も多様化した。
伝統的な一夫一妻制にこだわる人間の方が、むしろ少数派になりつつある。
家族。
その概念も大きく変わった。
子供は、もはや親だけの所有物ではない。
2038年にアメリカで制定され、翌年には日本でも導入された「全国児童保護法」。
生まれてすぐの子供を、親元から離し、国家が養育する。
それが、標準的な子育ての形となった。
少子高齢化が進み、従来の家族モデルが崩壊しかけていた社会にとって、それは合理的な解決策の一つだったのかもしれない。
プラトンが紀元前に「国家」で描いた理想が、二千年以上の時を経て、皮肉な形で実現したとも言える。
もちろん、反発はあった。
特に、桜花学院のような、バンディズムを掲げる古い家柄の人間たちは、この制度を忌み嫌った。
彼らにとって、血の繋がりこそが、何よりも重要だったからだ。
だから、彼らは多額の寄付をし、独自の教育システムを維持し、自分たちの子供を(あるいは、将来、自分たちの「意識」を受け継がせるための「器」となる養子や孤児を)、この閉鎖的な学院に送り込む。
僕の両親は、そういった特権階級とは違う。
父は医者、母は情報技術者。
裕福ではあるけれど、この学院にいるような、国家の政策にさえ影響を与えかねないほどの富や権力を持っているわけではない。
それでも、彼らは僕をこの学院に入れた。
それは、僕が彼らの「本当の子供」であり、その血を受け継いでいるからだ、と信じていたからだろう。
だが、それでも、僕はやはり、この学院の中では浮いた存在だった。
僕の「個性」は、バンディズムという古い価値観の中では、異端でしかなかった。
だから、僕はいつも、どこかで孤独だった。
ガンジャだけが、僕の本当の理解者だった。
「…シャオ・ツーくんは、そのことについて、僕に何か言いたいのかい?」僕は、ようやく言葉を紡ぎ出した。
「僕が、この学院に馴染めていないことを、知っているのか? 僕の『何』を知りたいんだ?」
僕の問いかけに、シャオ・ツーは、ふっと息を吐いた。
そして、それまでの探るような表情から一転して、どこか寂しげな、それでいて強い決意を秘めたような目で、僕を見つめ返した。
「君に、知ってほしいことがあるんだ」彼の声は、低く、真剣だった。
「この学院の、本当の姿を。そして、僕たちが、これから何をしなければならないのかを」
彼は、まるで独り言のように、静かに語り始めた。
それは、僕がこれまで考えもしなかった、SID技術の深淵と、この学院に隠された、恐ろしい秘密についての話だった。
「…SIDにはね、まだ隠された、本当の力があるんだ。それは、ほとんどの人間には知らされていない。知る必要もない、とされている力だ。なぜなら、その力に目覚めることができるのは、本当にごく一部の、特別な資質を持った人間だけだからだよ」
彼は、自分のこめかみを指差した。
そこには、他の生徒たちと違う、旧式のSIDデバイスを装着していることを示す、微かな生体インターフェイスの痕跡があった。
そして、彼の場合は、どこか違う。
標準的なSIDCOM社製のものではないような、妙な違和感があった。
「SRNS…SID関連神経過敏症候群。君も聞いたことがあるだろう? SIDの稀な副作用で、精神に異常をきたす、とされている。だが、あれは副作用なんかじゃない。特別な資質を持つ人間が、SIDの本当の力――霊子と呼ばれる、未知のエネルギーに触れた時に起こる、覚醒の前兆なんだよ」
霊子? 聞いたこともない言葉だ。
僕は、眉をひそめた。
シャオ・ツーは、僕の反応などお構いなしに、続けた。
まるで、憑かれたように。
「この三十年、技術は爆発的に進化した。SID、核融合、量子コンピュータ、AI…。その中心にあるのは、SIDCOMだ。彼らは、ただ便利なデバイスを提供しているだけじゃない。彼らは、人類そのものを、次のステージへと進化させようとしているのかもしれない。直接脳を接続し、思考や意識を共有する。言葉さえ必要としないコミュニケーション。それは、確かに素晴らしい進歩だ。でも、その先に何があるのか、考えたことはあるかい?」
彼は、一歩、僕に近づいた。
その瞳は、熱を帯びている。
「進化の裏には、常に犠牲が伴う。そして、この学院は、そのための実験場なんだよ。バンディズムなんて、ただのカモフラージュだ。本当の目的は…」
彼は、そこで言葉を切った。
そして、僕の耳元で、囁くように言った。
「…僕たちの脳を、奪うことさ」
その言葉の意味を、僕はすぐには理解できなかった。
脳を奪う? どういうことだ?
「…理解できない、という顔をしているね」シャオ・ツーは、僕の心を読んだかのように言った。
「無理もない。これは、普通の人間には信じられない話だ。でも、僕は知ってしまったんだ。この夏、実家に帰った時にね…」
彼は、苦々しげに顔を歪めながら、自分の養父母との間に起きた出来事を語り始めた。
SIDを通じて彼らの意識に触れたこと。
彼らが自分を「器」としてしか見ていなかったこと。
そして、ファミリアであるフロイドが、「殺される前に殺せ」と囁いたこと。
僕は、戦慄した。
ファミリアが、殺人を唆す? ありえない。
SIDの倫理規定に、真っ向から反する行為だ。
「君のファミリアは…いや、君のSID-OSは、普通じゃないのか?」
「ああ、そうだ」シャオ・ツーは頷いた。
「僕たちの頭の中に入っているのは、SIDCOMの正規品じゃない。
ロシアで作られた、『スペクターマインド』というサードパーティー製のOSを、さらに改造したものらしい。フロイドが教えてくれた。規制も、倫理フィルターも、安全装置も、すべて取り払われた、剥き出しのシステムだ。だから、他人の意識に容易に干渉できるし、ファミリアも、平気でそういう『最適解』を提示してくる」
スペクターマインド。
聞いたことがある。
アンダーウェブで、ハッカーたちが使っているという、危険なOSだ。
それが、この学院の生徒たちに…?
「なぜ、そんなものが…?」
「それが、この学院の秘密の核心だよ」シャオ・ツーは、強い口調で言った。
「僕たち養子や孤児は、金持ちたちのための『白ロム』なんだ。彼らが、自分たちの意識や記憶を上書きするための、使い捨ての器。そして、君たちのような、血統の良い生徒は…彼らの次の『身体』になるための、候補者なのさ」
全身の血が、逆流するような感覚。
意識の上書き? 人格転移? そんな、SFの中だけの話だと思っていたことが、現実に行われようとしている?
「信じられない…」
「僕も、最初は信じられなかった」シャオ・ツーは、自嘲気味に笑った。
「でも、これは現実だ。そして、僕たちは、このままでは彼らの食い物にされるだけだ。だから、戦わなければならない。君にも、協力してほしいんだ」
「どうして、僕なんだ?」僕は、再び同じ質問を繰り返していた。
「言っただろう?」シャオ・ツーは、僕の目を真っ直ぐに見据えた。
「君には、特別な才能がある。霊子を、感じ取る力が。それは、僕や、おそらく他の何人かの生徒も持っている、稀有な資質だ。その力を、覚醒させる必要がある」
彼は、さらに一歩近づき、僕の肩に手を置いた。
「少し、力を貸すよ。君のSID-OSを、書き換える。怖がらなくていい。
痛みはない。ただ、キスをするだけでいいんだ」
そう言うと、彼は、有無を言わさず、僕の唇に、彼の唇を重ねてきた。
抵抗する間もなかった。
彼の唇から、まるで電気のような、しかしそれとは違う、未知のエネルギーが、僕の脳へと直接流れ込んでくる。
意識が、急速に変容していく。
世界が、ぐにゃりと歪む。
(なんだ、これは…僕の身体が…)
細胞が、内側から組み替えられていくような感覚。
指先が、首筋が、細く、華奢なものへと変わっていく。
鏡を見なくても分かる。
僕の肉体が、僕がずっと望んでいた「彼女」の姿へと、作り変えられていく。
同時に、シャオ・ツーの思考、感情、そして彼が持つ知識や決意が、奔流のように僕の中に流れ込んでくる。
霊子、重力子、意識のエンコード、物質化…。
理解不能なはずの情報が、まるで最初から知っていたかのように、僕の中で像を結んでいく。
(大丈夫、できる…意識を集中するんだ…)
誰の声なのか分からない声が、僕の中で響く。
シャオ・ツーの声? ガンジャの声? それとも、僕自身の、新しい声?
唇が、ゆっくりと離れる。
目の前に立つシャオ・ツーの顔が、驚きと、そして満足感が入り混じったような表情で、僕を見つめている。
僕は、自分の手を見た。
白く、細い指。
見慣れたはずの自分の手ではない。
だが、これこそが、本当の僕の手のような気がした。
鏡はない。
けれど、窓ガラスに映る自分の姿は、もう以前の「坂本直行」ではなかった。
そこにいたのは、セーラー服を着た、一人の「少女」だった。