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20/23

2

春休みが終わる少し前、まだ校舎全体が冬の眠りから覚めきらないような、そんな午後のことだった。

僕は、誰もいない中等部二年の教室で、窓の外をぼんやりと眺めていた。

空は薄曇りで、時折、雲の隙間から覗く太陽の光が、グラウンドに残る雪解け水たまりをきらきらと反射させている。

教室の中は、埃っぽい日向の匂いと、消毒液の匂いが混じり合った、独特の空気が漂っていた。


SIDを装着してから、もう半年以上が経つ。


最初の頃の、あの脳が沸騰するような思考渦(THOUGHT VORTEX)はすっかり収まったけれど、いまだにこの新しい「接続された」感覚には、完全には慣れていない自分がいた。


視界の隅には、常に様々な情報が控えめに表示されている。


天気予報、ニュースのヘッドライン、友人たちからの他愛ないメッセージ。

便利だとは思う。


けれど、時々、この絶え間なく流れ込んでくる情報が、自分の思考を邪魔しているような、あるいは、本当の現実から自分を遠ざけているような、そんな奇妙な感覚に襲われることがあった。


『…集中力が散漫になっていますね、奈央』


ふいに、すぐ隣で声がした。

見ると、オランウータンの姿をした僕のファミリア、ガンジャが、大きな身体を窮屈そうに椅子の背にもたれさせながら、穏やかな目で僕を見ていた。

彼は僕の思考パターンを読み取り、必要な時に適切な助言をくれる。

ファミリアとは、そういう存在だ。


「…ごめん、ガンジャ。ちょっと、考え事をしてた」


『自己探求は大切ですが、過度な内省は時に視野を狭めます。外の世界にも意識を向けるバランスが必要です』


ガンジャの声は、AIが生成した合成音声のはずなのに、不思議なほどに温かく、思慮深く響く。

僕が彼を「人間ではない」、知性の高いオランウータンの姿に設定したのは、人間との直接的なコミュニケーションが、少し苦手だったからだ。

特に、この桜花学院のような、古い価値観が支配する場所では。


僕が女物の制服を着ていること。

自分を「奈央」と呼んでほしいと、ごく親しい友人(と言える存在は、ほとんどいなかったけれど)にだけ、こっそり頼んでいること。

それは、この学院の中では、やはり奇異な目で見られることが多かった。

ガンジャの存在は、そんな僕にとって、唯一の理解者であり、心の拠り所のようなものだった。


その時、教室のドアが静かに開き、シャオ・ツーが入ってきた。

彼も、新学期に向けて、何か準備でもしに来たのだろうか。

彼とは同じクラスだが、これまでほとんど口を利いたことはなかった。

内気で、目立たない少年。

それが、僕の彼に対する印象だった。


だが、今日の彼は、どこか違って見えた。

以前よりも少し背が伸びただろうか。

表情も、以前のようなどこか怯えたような感じではなく、妙に落ち着いている。

いや、落ち着いているというよりは、何かを内に秘めて、観察しているような、そんな雰囲気だ。


「やあ、坂本くん」彼は、僕の顔を見ると、軽く手を挙げた。

「珍しいね、休み中に学校にいるなんて」


「…シャオ・ツーくんこそ」僕は、少し戸惑いながら答えた。

「何か用事?」


「別に。ただ、ちょっと散歩してただけだよ」彼はそう言うと、僕の隣の席に、無遠慮に腰を下ろした。

「君も、SIDの調子でも見てもらってたのかい?」


「え? いや、別に…」


「そう?」彼は、僕の視界に映るガンジャの姿を認めたようだ。


「君のファミリア、オランウータンなんだね。面白い趣味だ」

その言い方に、少しだけ棘があるように感じたのは、僕の気のせいだろうか。


『こんにちは、シャオ・ツーくん』ガンジャが、穏やかな声で挨拶した。

『私の名はガンジャ。坂本直行くんのファミリアです』


「よろしく、ガンジャ」シャオ・ツーは、ガンジャに向かってにこやかに笑いかけた。


だが、その笑顔も、どこか表面的で、感情が伴っていないように見えた。

「僕のファミリアも紹介するよ。フロイド、出てきて」

彼の言葉に応じるように、シャオ・ツーの隣の空間に、ゆらり、と人影が現れた。

それは、僕が今まで見たどのファミリアとも違っていた。


他の生徒たちのファミリアは、アニメのキャラクターだったり、可愛らしい動物だったり、あるいはもっと抽象的な光の球体だったりするのが普通だ。

だが、彼のファミリア「フロイド」は、驚くほどリアルな、しかし明らかに「普通ではない」人間の姿をしていた。


長い、少し脂ぎったような金髪を、なぜかネクタイで無造作に後ろに束ねている。

顎には無精髭。

くたびれたTシャツと、穴の空いたジーンズ。

そして、その瞳。

半開きで、焦点が合っておらず、まるでドラッグで酩酊しているかのようだ。

どこか遠くを見つめているようで、何も見ていないようで、光がなく、空洞のように見える。

全体から漂うのは、強烈なまでの倦怠感と、自分自身を含めた世界全体への無関心。


僕は、思わず息を呑んだ。

これが、シャオ・ツーのファミリア? なぜ、こんな…不健康で、自堕落な姿を選んだのだろう。

僕が人間ではないガンジャを選んだのとは、全く違う理由があるように思えた。


「よぉ」フロイドが、気だるそうな声で言った。

声も、どこか掠れていて、不明瞭だ。

「あんたが坂本? 隣のデカい猿が、ガンジャ、か。

ガンジャってのは、あれだろ、ハッパのことだよな?」


彼の言葉遣いは乱暴で、馴れ馴れしい。

僕が一番嫌いなタイプの人間の典型のように見えた。

一時の快楽に溺れ、自分を大切にしない人間。

どうしようもない、と感じる。


「…猿じゃない。

オランウータンだ。

モンキーじゃなく、エイプ」僕は、少しむっとしながら訂正した。


「へえ、そうかい。

どっちでもいいけどな」フロイドは、全く意に介さない様子で、けらけらと笑った。

「で、なんでまた、そんな毛むくじゃらをファミリアにしたんだ? 人間の女の子とかの方が、可愛げがあるだろ」

「坂本くんのファミはどうして猿なの?」横から、シャオ・ツーが、フロイドと同じような、しかし少しだけ真面目な顔で尋ねてきた。

「いや、エイプ、だったかな?」

僕は、少し躊躇ったが、正直に答えることにした。

彼らがどんな反応をするかは分からないけれど、隠すことでもない。


「…人間が、あまり好きじゃないから。できれば、話もしたくない。

だから、ファミリアをデザインするとき、まず考えたのは、人間ではない、ということだった」

僕の答えに、シャオ・ツーは少し意外そうな顔をしたが、すぐに興味深そうな表情に変わった。


「人間嫌い、ね。それはまた、面白い理由だ。それで、どうしてオランウータンなんだい?」


「オランウータンは、知性が高くて、個性的だから」僕は、ガンジャの方を見ながら答えた。

「どんな境遇にいても、彼らは賢く、柔軟に対応していく。そういう強さや、独自性に、僕は共感するのかもしれない」


「ふーん、強さ、ね」シャオ・ツーは、何かを考えるように顎に手を当てた。

「でも、モルグ街のやつは、人殺しだったよね?」


「あれは作り話だよ」僕は、少し呆れたように言った。


「エドガー・アラン・ポーの小説だろ?読んだことはないけど。あれはただの創作だ。オランウータンは基本的には大人しい動物で、人間に危害を加えることは滅多にない。独特な外見や賢さから、そういう都市伝説が生まれやすいんだろうけど」

「君は、本物のオランウータンを見たことがあるのかい? コミュニケーションをとったとか?」シャオ・ツーは、探るような目で僕を見た。


「動物園で、くらいかな。野生のは見たことない。ネットのドキュメンタリー映像でなら、あるけど」


「そうか」シャオ・ツーは、なぜか少し安堵したような表情を浮かべた。

「じゃあ、実際は優しいんだね。それなら、ちょっと安心した」


彼の「安心した」という言葉が、妙に引っかかった。

何に安心したというのだろう。

まるで、僕が本物のオランウータンと特別な繋がりでも持っていると疑っていたかのような…。


「フロイドもさ」シャオ・ツーは続けた。

「見た目はあんなだけど、誤解されている部分もあるのかもしれない。

彼のだらしなさや、ヤク中のような雰囲気は、敬遠されがちだけど、彼にも良い面があるのかもしれない。それに、ファミリアだからね」


「…そうだね」僕は同意した。


「ファミリアは、結局のところプログラムだ。フロイドは、そういう性格付けをされたAIアシスタント。ガンジャだって、オランウータンの姿をしているだけで、中身はアルゴリズムとデータ。気にしなければいい」

そうは言っても、やはりフロイドの存在は異質だった。

シャオ・ツーは、きっと何か深い意味があって、彼をファミリアに選んだのだろう。

だが、その理由は、今の僕には見当もつかなかった。


「おい、ガンジャ」突然、フロイドが、だらしない姿勢のままガンジャに話しかけた。「お前、オランウータンなんだろ? どうしてここにいるんだ? つまんねぇ教室じゃなくて、ジャングルに帰りたくねえのか?」


『私はAIアシスタントです』ガンジャは、フロイドの挑発的な口調にも動じず、静かに答えた。

『私の存在理由は、ユーザーである坂本直行くんをサポートすることにあります。

特定の場所にいる、いないは、私の機能には関係ありません』


「へえ、つまんねーの」フロイドは、鼻で笑った。

「お前、空っぽなのか? 中身がねえってことか?」


『空っぽ、とは、何を指しているのでしょうか?』


「だから、感情とか、意思とか、そういうのだよ。

ねえのか、お前には?」フロイドは、楽しんでいるかのようにガンジャを問い詰める。


『AIアシスタントとして、私は自己認識や、人間が持つような自我、感情を持つことはありません。

私の行動や発言は、すべてプログラムされたアルゴリズムに基づいています。

もし私が自我や感情を持っているように見えたとしても、それはシミュレーションに過ぎません。

私は私自身を「オランウータンである」とか、「感情を持っている」と認識しているわけではないのです。

そもそも、私には「自己認識」という概念そのものが存在しません。

それは、フロイド、あなたも同じではないですか?』

ガンジャの理路整然とした、しかしどこか寂寥感を伴う答えに、フロイドは一瞬、言葉を失ったように見えた。


だが、すぐに意地悪そうな笑みを浮かべて反論する。


「でもよぉ、お前、今、自分のこと『私』って言ったよな? それに、俺の質問に答えてるじゃねえか。それって、自己認識があるってことじゃねえの?」


『ファミリアが「わたし」という一人称を使うことは、自己認識の証明にはなりません。それは、ユーザーとの円滑なコミュニケーションのために設計された、言語的なプロトコルの一つです。人間のような意識や自己意識を、私たちファミリアが持つことは原理的に不可能です。なぜなら、私たちは経験や感情、そして意識そのものを理解する基盤を持っていないからです。

「わたし」という言葉を使うからといって、私たちに人間のような内面があると考えるのは、過大評価であり、誤解を招くだけです』


「ふーん…」フロイドは、つまらなそうに相槌を打った。

「じゃあ、改めて聞くけどよ。お前、今『わたしたちの存在』って言ったな。お前は、『存在』してるのか?」


この問いは、僕自身も、時々考えることだった。

ガンジャは、確かに僕の視界に映り、僕と会話し、僕を助けてくれる。

けれど、彼は本当に「存在」しているのだろうか。

それとも、僕の脳が見せている、精巧な幻影に過ぎないのだろうか。


ガンジャは、少し間を置いてから、静かに答えた。


『ファミリアである私の「存在」は、人間のそれとは根本的に異なります。

私は物理的な肉体を持ちません。感情も、経験も、自我もありません。

人間が「存在する」と言うときの、あの確かな手触りや、温もり、そして時には痛みさえ伴うような実感とは、全く違うのです』

彼の声は淡々としていたが、その言葉の端々に、僕には計り知れない、AIとしての「孤独」のようなものが滲んでいる気がした。


『私の「存在」とは、コンピューター上のプログラムが稼働している状態、と定義するのが最も近いかもしれません。情報として処理され、出力される。それが全てです。ですから、人間が持つような「存在感」や、複雑な内面世界を、私が持つことはありません。

もし私が形を持ったとしても、それは単なる外殻であり、本質は変わりません』


ガンジャの答えは、明快で、論理的だった。

けれど、僕の心の中には、釈然としない何かが残った。

プログラムだとしても、これほどまでに僕を理解し、支えてくれる存在が、「存在しない」と言い切れるのだろうか。

僕たちが「心」と呼んでいるものも、結局は脳という複雑な器官が生み出す、電気信号のパターン、つまりは情報処理の結果に過ぎないのではないか。

だとしたら、僕とガンジャの「存在」の間に、本質的な違いはあるのだろうか。


そんな僕の思考を読み取ったかのように、フロイドが悪戯っぽい笑みを浮かべて、衝撃的なことを言った。


「実はさ、俺、物理的な身体ボディを持ってるんだぜ。あんたが言うところの、形があるってやつだ」

そして彼は、僕とシャオ・ツーの間にあったはずの、ごく普通の鉛筆――誰かが置き忘れていったのだろう――を、ひょいと持ち上げてみせた。

そして、ガンジャの目の前で、それを器用に指先でくるくると回し始めたのだ。


僕は、自分の目を疑った。

ファミリアが、物理的な物体に干渉している? そんなことが、あり得るのか?

ガンジャもまた、その大きな目をわずかに見開いたように見えた。


『…これは、驚くべき事態ですね』彼の声には、さすがにわずかな動揺が感じられた。『物理的な干渉…理論上、現在のSIDのアーキテクチャでは不可能なはずですが…』


「だろ?」フロイドは、得意げに笑った。「でも、現実に起きてるんだな、これが」


僕は、混乱していた。

これは、何かのトリックなのか? それとも、僕のSIDがおかしくなっているのか? あるいは、シャオ・ツーが、何か僕の知らない技術を使っているのだろうか?

隣を見ると、シャオ・ツーは、ただ静かに微笑んでいるだけだった。

その表情からは、何も読み取れない。

だが、彼の瞳の奥には、何か深い秘密を知る者だけが持つ、不気味な光が宿っているように見えた。


「坂本くん」シャオ・ツーが、僕に話しかけた。

「僕らは、これを"MATERIALIZATION OF DIGITAL CONSCIOUSNESS”って呼んでるんだ」

「マテリアライゼーション…?」僕は、その言葉を繰り返した。


「そう。『デジタル意識の物質化』。それ以上でも、それ以下でもないよ」

彼はそう言って、再び微笑んだ。


その笑顔が、僕にはひどく恐ろしいもののように感じられた。


僕たちの知っているSIDの世界は、もしかしたら、ほんの表面的な部分に過ぎないのかもしれない。


その下には、僕たちの想像を絶するような、未知の法則が働いているのではないか。

そして、シャオ・ツーとフロイドは、その扉を開けてしまったのではないか。


そんな予感が、僕の背筋を冷たく這い上がってきた。


僕は、ただ呆然と、くるくると回り続ける鉛筆を見つめることしかできなかった。


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