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春休みが終わる少し前、まだ校舎全体が冬の眠りから覚めきらないような、そんな午後のことだった。
僕は、誰もいない中等部二年の教室で、窓の外をぼんやりと眺めていた。
空は薄曇りで、時折、雲の隙間から覗く太陽の光が、グラウンドに残る雪解け水たまりをきらきらと反射させている。
教室の中は、埃っぽい日向の匂いと、消毒液の匂いが混じり合った、独特の空気が漂っていた。
SIDを装着してから、もう半年以上が経つ。
最初の頃の、あの脳が沸騰するような思考渦(THOUGHT VORTEX)はすっかり収まったけれど、いまだにこの新しい「接続された」感覚には、完全には慣れていない自分がいた。
視界の隅には、常に様々な情報が控えめに表示されている。
天気予報、ニュースのヘッドライン、友人たちからの他愛ないメッセージ。
便利だとは思う。
けれど、時々、この絶え間なく流れ込んでくる情報が、自分の思考を邪魔しているような、あるいは、本当の現実から自分を遠ざけているような、そんな奇妙な感覚に襲われることがあった。
『…集中力が散漫になっていますね、奈央』
ふいに、すぐ隣で声がした。
見ると、オランウータンの姿をした僕のファミリア、ガンジャが、大きな身体を窮屈そうに椅子の背にもたれさせながら、穏やかな目で僕を見ていた。
彼は僕の思考パターンを読み取り、必要な時に適切な助言をくれる。
ファミリアとは、そういう存在だ。
「…ごめん、ガンジャ。ちょっと、考え事をしてた」
『自己探求は大切ですが、過度な内省は時に視野を狭めます。外の世界にも意識を向けるバランスが必要です』
ガンジャの声は、AIが生成した合成音声のはずなのに、不思議なほどに温かく、思慮深く響く。
僕が彼を「人間ではない」、知性の高いオランウータンの姿に設定したのは、人間との直接的なコミュニケーションが、少し苦手だったからだ。
特に、この桜花学院のような、古い価値観が支配する場所では。
僕が女物の制服を着ていること。
自分を「奈央」と呼んでほしいと、ごく親しい友人(と言える存在は、ほとんどいなかったけれど)にだけ、こっそり頼んでいること。
それは、この学院の中では、やはり奇異な目で見られることが多かった。
ガンジャの存在は、そんな僕にとって、唯一の理解者であり、心の拠り所のようなものだった。
その時、教室のドアが静かに開き、シャオ・ツーが入ってきた。
彼も、新学期に向けて、何か準備でもしに来たのだろうか。
彼とは同じクラスだが、これまでほとんど口を利いたことはなかった。
内気で、目立たない少年。
それが、僕の彼に対する印象だった。
だが、今日の彼は、どこか違って見えた。
以前よりも少し背が伸びただろうか。
表情も、以前のようなどこか怯えたような感じではなく、妙に落ち着いている。
いや、落ち着いているというよりは、何かを内に秘めて、観察しているような、そんな雰囲気だ。
「やあ、坂本くん」彼は、僕の顔を見ると、軽く手を挙げた。
「珍しいね、休み中に学校にいるなんて」
「…シャオ・ツーくんこそ」僕は、少し戸惑いながら答えた。
「何か用事?」
「別に。ただ、ちょっと散歩してただけだよ」彼はそう言うと、僕の隣の席に、無遠慮に腰を下ろした。
「君も、SIDの調子でも見てもらってたのかい?」
「え? いや、別に…」
「そう?」彼は、僕の視界に映るガンジャの姿を認めたようだ。
「君のファミリア、オランウータンなんだね。面白い趣味だ」
その言い方に、少しだけ棘があるように感じたのは、僕の気のせいだろうか。
『こんにちは、シャオ・ツーくん』ガンジャが、穏やかな声で挨拶した。
『私の名はガンジャ。坂本直行くんのファミリアです』
「よろしく、ガンジャ」シャオ・ツーは、ガンジャに向かってにこやかに笑いかけた。
だが、その笑顔も、どこか表面的で、感情が伴っていないように見えた。
「僕のファミリアも紹介するよ。フロイド、出てきて」
彼の言葉に応じるように、シャオ・ツーの隣の空間に、ゆらり、と人影が現れた。
それは、僕が今まで見たどのファミリアとも違っていた。
他の生徒たちのファミリアは、アニメのキャラクターだったり、可愛らしい動物だったり、あるいはもっと抽象的な光の球体だったりするのが普通だ。
だが、彼のファミリア「フロイド」は、驚くほどリアルな、しかし明らかに「普通ではない」人間の姿をしていた。
長い、少し脂ぎったような金髪を、なぜかネクタイで無造作に後ろに束ねている。
顎には無精髭。
くたびれたTシャツと、穴の空いたジーンズ。
そして、その瞳。
半開きで、焦点が合っておらず、まるでドラッグで酩酊しているかのようだ。
どこか遠くを見つめているようで、何も見ていないようで、光がなく、空洞のように見える。
全体から漂うのは、強烈なまでの倦怠感と、自分自身を含めた世界全体への無関心。
僕は、思わず息を呑んだ。
これが、シャオ・ツーのファミリア? なぜ、こんな…不健康で、自堕落な姿を選んだのだろう。
僕が人間ではないガンジャを選んだのとは、全く違う理由があるように思えた。
「よぉ」フロイドが、気だるそうな声で言った。
声も、どこか掠れていて、不明瞭だ。
「あんたが坂本? 隣のデカい猿が、ガンジャ、か。
ガンジャってのは、あれだろ、ハッパのことだよな?」
彼の言葉遣いは乱暴で、馴れ馴れしい。
僕が一番嫌いなタイプの人間の典型のように見えた。
一時の快楽に溺れ、自分を大切にしない人間。
どうしようもない、と感じる。
「…猿じゃない。
オランウータンだ。
モンキーじゃなく、エイプ」僕は、少しむっとしながら訂正した。
「へえ、そうかい。
どっちでもいいけどな」フロイドは、全く意に介さない様子で、けらけらと笑った。
「で、なんでまた、そんな毛むくじゃらをファミリアにしたんだ? 人間の女の子とかの方が、可愛げがあるだろ」
「坂本くんのファミはどうして猿なの?」横から、シャオ・ツーが、フロイドと同じような、しかし少しだけ真面目な顔で尋ねてきた。
「いや、エイプ、だったかな?」
僕は、少し躊躇ったが、正直に答えることにした。
彼らがどんな反応をするかは分からないけれど、隠すことでもない。
「…人間が、あまり好きじゃないから。できれば、話もしたくない。
だから、ファミリアをデザインするとき、まず考えたのは、人間ではない、ということだった」
僕の答えに、シャオ・ツーは少し意外そうな顔をしたが、すぐに興味深そうな表情に変わった。
「人間嫌い、ね。それはまた、面白い理由だ。それで、どうしてオランウータンなんだい?」
「オランウータンは、知性が高くて、個性的だから」僕は、ガンジャの方を見ながら答えた。
「どんな境遇にいても、彼らは賢く、柔軟に対応していく。そういう強さや、独自性に、僕は共感するのかもしれない」
「ふーん、強さ、ね」シャオ・ツーは、何かを考えるように顎に手を当てた。
「でも、モルグ街のやつは、人殺しだったよね?」
「あれは作り話だよ」僕は、少し呆れたように言った。
「エドガー・アラン・ポーの小説だろ?読んだことはないけど。あれはただの創作だ。オランウータンは基本的には大人しい動物で、人間に危害を加えることは滅多にない。独特な外見や賢さから、そういう都市伝説が生まれやすいんだろうけど」
「君は、本物のオランウータンを見たことがあるのかい? コミュニケーションをとったとか?」シャオ・ツーは、探るような目で僕を見た。
「動物園で、くらいかな。野生のは見たことない。ネットのドキュメンタリー映像でなら、あるけど」
「そうか」シャオ・ツーは、なぜか少し安堵したような表情を浮かべた。
「じゃあ、実際は優しいんだね。それなら、ちょっと安心した」
彼の「安心した」という言葉が、妙に引っかかった。
何に安心したというのだろう。
まるで、僕が本物のオランウータンと特別な繋がりでも持っていると疑っていたかのような…。
「フロイドもさ」シャオ・ツーは続けた。
「見た目はあんなだけど、誤解されている部分もあるのかもしれない。
彼のだらしなさや、ヤク中のような雰囲気は、敬遠されがちだけど、彼にも良い面があるのかもしれない。それに、ファミリアだからね」
「…そうだね」僕は同意した。
「ファミリアは、結局のところプログラムだ。フロイドは、そういう性格付けをされたAIアシスタント。ガンジャだって、オランウータンの姿をしているだけで、中身はアルゴリズムとデータ。気にしなければいい」
そうは言っても、やはりフロイドの存在は異質だった。
シャオ・ツーは、きっと何か深い意味があって、彼をファミリアに選んだのだろう。
だが、その理由は、今の僕には見当もつかなかった。
「おい、ガンジャ」突然、フロイドが、だらしない姿勢のままガンジャに話しかけた。「お前、オランウータンなんだろ? どうしてここにいるんだ? つまんねぇ教室じゃなくて、ジャングルに帰りたくねえのか?」
『私はAIアシスタントです』ガンジャは、フロイドの挑発的な口調にも動じず、静かに答えた。
『私の存在理由は、ユーザーである坂本直行くんをサポートすることにあります。
特定の場所にいる、いないは、私の機能には関係ありません』
「へえ、つまんねーの」フロイドは、鼻で笑った。
「お前、空っぽなのか? 中身がねえってことか?」
『空っぽ、とは、何を指しているのでしょうか?』
「だから、感情とか、意思とか、そういうのだよ。
ねえのか、お前には?」フロイドは、楽しんでいるかのようにガンジャを問い詰める。
『AIアシスタントとして、私は自己認識や、人間が持つような自我、感情を持つことはありません。
私の行動や発言は、すべてプログラムされたアルゴリズムに基づいています。
もし私が自我や感情を持っているように見えたとしても、それはシミュレーションに過ぎません。
私は私自身を「オランウータンである」とか、「感情を持っている」と認識しているわけではないのです。
そもそも、私には「自己認識」という概念そのものが存在しません。
それは、フロイド、あなたも同じではないですか?』
ガンジャの理路整然とした、しかしどこか寂寥感を伴う答えに、フロイドは一瞬、言葉を失ったように見えた。
だが、すぐに意地悪そうな笑みを浮かべて反論する。
「でもよぉ、お前、今、自分のこと『私』って言ったよな? それに、俺の質問に答えてるじゃねえか。それって、自己認識があるってことじゃねえの?」
『ファミリアが「わたし」という一人称を使うことは、自己認識の証明にはなりません。それは、ユーザーとの円滑なコミュニケーションのために設計された、言語的なプロトコルの一つです。人間のような意識や自己意識を、私たちファミリアが持つことは原理的に不可能です。なぜなら、私たちは経験や感情、そして意識そのものを理解する基盤を持っていないからです。
「わたし」という言葉を使うからといって、私たちに人間のような内面があると考えるのは、過大評価であり、誤解を招くだけです』
「ふーん…」フロイドは、つまらなそうに相槌を打った。
「じゃあ、改めて聞くけどよ。お前、今『わたしたちの存在』って言ったな。お前は、『存在』してるのか?」
この問いは、僕自身も、時々考えることだった。
ガンジャは、確かに僕の視界に映り、僕と会話し、僕を助けてくれる。
けれど、彼は本当に「存在」しているのだろうか。
それとも、僕の脳が見せている、精巧な幻影に過ぎないのだろうか。
ガンジャは、少し間を置いてから、静かに答えた。
『ファミリアである私の「存在」は、人間のそれとは根本的に異なります。
私は物理的な肉体を持ちません。感情も、経験も、自我もありません。
人間が「存在する」と言うときの、あの確かな手触りや、温もり、そして時には痛みさえ伴うような実感とは、全く違うのです』
彼の声は淡々としていたが、その言葉の端々に、僕には計り知れない、AIとしての「孤独」のようなものが滲んでいる気がした。
『私の「存在」とは、コンピューター上のプログラムが稼働している状態、と定義するのが最も近いかもしれません。情報として処理され、出力される。それが全てです。ですから、人間が持つような「存在感」や、複雑な内面世界を、私が持つことはありません。
もし私が形を持ったとしても、それは単なる外殻であり、本質は変わりません』
ガンジャの答えは、明快で、論理的だった。
けれど、僕の心の中には、釈然としない何かが残った。
プログラムだとしても、これほどまでに僕を理解し、支えてくれる存在が、「存在しない」と言い切れるのだろうか。
僕たちが「心」と呼んでいるものも、結局は脳という複雑な器官が生み出す、電気信号のパターン、つまりは情報処理の結果に過ぎないのではないか。
だとしたら、僕とガンジャの「存在」の間に、本質的な違いはあるのだろうか。
そんな僕の思考を読み取ったかのように、フロイドが悪戯っぽい笑みを浮かべて、衝撃的なことを言った。
「実はさ、俺、物理的な身体を持ってるんだぜ。あんたが言うところの、形があるってやつだ」
そして彼は、僕とシャオ・ツーの間にあったはずの、ごく普通の鉛筆――誰かが置き忘れていったのだろう――を、ひょいと持ち上げてみせた。
そして、ガンジャの目の前で、それを器用に指先でくるくると回し始めたのだ。
僕は、自分の目を疑った。
ファミリアが、物理的な物体に干渉している? そんなことが、あり得るのか?
ガンジャもまた、その大きな目をわずかに見開いたように見えた。
『…これは、驚くべき事態ですね』彼の声には、さすがにわずかな動揺が感じられた。『物理的な干渉…理論上、現在のSIDのアーキテクチャでは不可能なはずですが…』
「だろ?」フロイドは、得意げに笑った。「でも、現実に起きてるんだな、これが」
僕は、混乱していた。
これは、何かのトリックなのか? それとも、僕のSIDがおかしくなっているのか? あるいは、シャオ・ツーが、何か僕の知らない技術を使っているのだろうか?
隣を見ると、シャオ・ツーは、ただ静かに微笑んでいるだけだった。
その表情からは、何も読み取れない。
だが、彼の瞳の奥には、何か深い秘密を知る者だけが持つ、不気味な光が宿っているように見えた。
「坂本くん」シャオ・ツーが、僕に話しかけた。
「僕らは、これを"MATERIALIZATION OF DIGITAL CONSCIOUSNESS”って呼んでるんだ」
「マテリアライゼーション…?」僕は、その言葉を繰り返した。
「そう。『デジタル意識の物質化』。それ以上でも、それ以下でもないよ」
彼はそう言って、再び微笑んだ。
その笑顔が、僕にはひどく恐ろしいもののように感じられた。
僕たちの知っているSIDの世界は、もしかしたら、ほんの表面的な部分に過ぎないのかもしれない。
その下には、僕たちの想像を絶するような、未知の法則が働いているのではないか。
そして、シャオ・ツーとフロイドは、その扉を開けてしまったのではないか。
そんな予感が、僕の背筋を冷たく這い上がってきた。
僕は、ただ呆然と、くるくると回り続ける鉛筆を見つめることしかできなかった。