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黄昏のはじまり

雨はまだ降り続いていた。

福岡桜花学院の職員室の窓を叩く雨音は、どこか単調で、心を落ち着かせると言うよりは、むしろ気怠さを誘う響きを持っていた。

岡崎ゆかりは、自席の古びたデスクの前で、溜息とも欠伸ともつかない息を吐いた。

時刻は午後五時半を回ったところ。

生徒たちはとうに寮へ戻り、広大なキャンパスはしんと静まり返っている。

残っているのは、彼女を含めた数人の教師だけだろう。


ジェンキンス先生が姿を消して、もう二週間が経つ。

警察の捜査は続いているが、これといった手がかりはないらしい。

まるで神隠しだ、と同僚の一人が言っていた。

その言葉が妙に耳に残っている。

89歳の老教師が、何の痕跡も残さずに消える。

そんなことが現代の、あらゆる行動がデジタルな足跡トレースとして記録されるはずの社会で起こり得るのだろうか。

岡崎は、生徒たちの動揺を抑えるのに少し疲れを感じていた。

そして、正直に言えば、面倒くさい、とも思っていた。


彼女自身、SIDを装着してもう十年以上になる。

今となっては、装着していない生活など考えられない。

朝起きてニュースをチェックするのも、授業の準備をするのも、遠く離れた友人と会話するのも、すべてSIDを通じて行われる。

脳に直接流れ込む情報、思考とほぼ同時に展開される知識。

それは確かに便利で、効率的だ。

世界の解像度が上がった、と誰もが言う。

だが、その上がった解像度の世界は、本当に豊かになったのだろうか。

時折、そんな疑問が胸をよぎる。


特に最近、担当しているクラスの生徒たちのSIDの調子が妙なのだ。

思考渦(Thought Vortex)に陥りやすくなっている子、ファミリアが奇妙な言動を繰り返す子、そして、ジェンキンス先生が消えた日を境に、まるで別人のように攻撃的になったシャオ・ツー。

彼の変化は特に気にかかる。

養子である彼の複雑な家庭環境も関係しているのかもしれないが、それだけではない、何か外部からの影響、悪意ある干渉のようなものを感じずにはいられない。


(あー、もう、なんで私がこんな…)

岡崎は頭を振って、煩わしい考えを追い払おうとした。

彼女は基本的に面倒くさがり屋だった。

教師という仕事を選んだのも、安定していて、そこそこ尊敬される職業だから、という理由が大きい。

生徒たちの成長を見るのは喜ばしいが、必要以上に深入りするのは御免だった。


その時、SIDの視界の隅に、プライベートチャンネルからの着信通知が表示された。

差出人は「匿名」。

件名は「Re: 広告経済の終焉について」。


(またスパムか…)

最近、この手の匿名メッセージが増えている。

内容は様々だ。

陰謀論、新興宗教の勧誘、違法な電子ドラッグの宣伝。

SIDCOMのフィルターも完璧ではない。

岡崎は普段なら即座に削除するのだが、その日はなぜか、指が止まった。

「広告経済の終焉」。

その言葉に、漠然とした、しかし無視できない引っ掛かりを覚えたのだ。


広告。

かつては街の風景の一部であり、テレビやネットを支配していた情報。

それがSIDの普及と共に急速にその形を変え、今や古典的な意味での「広告」は消滅しかけている。

企業やサービスの情報は、個人の思考や嗜好、生活パターンを読み取ったAIによって、最適化された形で、必要な時に必要なだけ、SIDを通じて直接脳に届けられる。

街頭の巨大ディスプレイも、雑誌の広告ページも、もう過去の遺物だ。

それは効率的で、無駄がない。

だが、時々、その「最適化されすぎた」情報に息苦しさを感じることもある。

予期せぬ出会いや、偶然の発見といったものが、この滑らかな情報の流れの中では起こりにくい。


好奇心、というよりは、単なる気まぐれだったのかもしれない。

岡崎は、思考コマンドでその匿名メッセージを開いた。

それは、特定のクローズドなネットワークで行われているらしい、専門家たちによる議論のログへのアクセスリンクだった。

おそらく違法な経路で流出したものだろう。

少し躊躇したが、彼女はリンクを辿った。


視界が切り替わる。

現実の職員室の風景の上に、半透明の仮想会議室の映像がオーバーレイされる。

中央には円卓があり、十数人のアバターが席についている。

アバターは皆、顔や姿を隠すための標準的なマスキング処理が施されており、個性をうかがい知ることはできない。

ただ、その声色や話し方には、それぞれの分野で長年キャリアを積んできたであろう、知性と経験の深みが滲み出ていた。


『――つまりだ、諸君。

我々が慣れ親しんだ「広告」という概念そのものが、もはや前時代の遺物になりつつあるということだよ』

低い、落ち着いた男性の声が響いた。

かつて大手広告代理店で戦略プランナーを務めていた人物らしい。


『テレビCM? 新聞広告? 笑わせる。

もう誰も見向きもしない。

ターゲット? デモグラフィック? そんな大雑把な括りは意味をなさない。

SIDが普及して、個人の嗜好は原子レベルまで分解されたんだ。

興味、関心、価値観、感情の起伏、無意識の欲望。

その全てがリアルタイムで解析され、最適化された情報プロモーションが個人に直接届けられる。

もはやマス(大衆)などという概念は存在しない。

あるのは無数のアトムだけだ』

別の、やや甲高い女性の声が応じる。

おそらくブランドコンサルタントか、マーケティングの研究者だろう。


『問題は、その先だ。

超パーソナル化された情報が、人を豊かにするのか、それとも見えない壁の中に閉じ込めるのか…という点よ。

エコーチェンバー? 情報繭インフォメーション・コクーン? そんな生易しいものじゃないわ。

SIDが提供するのは、ユーザーが最も心地よいと感じ、最も受け入れやすい情報だけ。

異論や不快な情報、思考を促すようなノイズは徹底的に排除される。

これは、緩やかな、しかし確実な精神の隔離じゃないかしら?』

『しかし、それはユーザーが望んだ結果でもあるだろう?』初老の男性の声。

元メディア企業の役員だろうか。

『効率的な情報摂取。

ストレスのない快適な環境。

SIDCOMが提供するユートピアは、まさに現代人が求めていたものだ。

広告も、その快適さを最大化するための一要素に過ぎなくなった』

『ユートピア、ですか…』皮肉っぽい響きを帯びた若い男性の声が割って入る。

『快適さの代償として、私たちは何を失っているのか。

批判的思考能力? 多様な価値観に触れる機会? それとも、もっと根源的な…偶然性とか、非効率性の中にこそ存在する人間らしさ、みたいなものじゃないのか? 広告が死んだ、というのは正確ではない。

広告は死んだのではなく、私たちの意識そのものに寄生する形で進化したんだ。

見えない広告、意識されないプロモーション。

それこそが最も恐ろしい』

岡崎は、彼らの議論を聞きながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

彼らが語っているのは、専門家としての分析や未来予測だけではない。

それは、SIDが普及したこの社会に生きる誰もが、心のどこかで感じているであろう漠然とした不安、違和感そのものだった。


生徒たちのSIDの不調。

ジェンキンス先生の失踪。

それらが、この「見えない広告」「意識されないプロモーション」と何か関係があるのではないか? 考えすぎだろうか。

だが、SIDというシステムが、人間の意識の深い部分にまで影響を及ぼしうるものであることは、彼女自身も実感している。


議論はさらに白熱していく。


『プラットフォーマーの責任はどうなる? SIDCOMは事実上、世界中の人間の思考データへのアクセス権を独占している。

彼らがその気になれば、世論操作どころか、個人の価値観や記憶の改変すら可能になるのではないか?』

『法規制は追いついていない。

というより、追いつくことが不可能なのかもしれない。

テクノロジーの進化速度が、立法プロセスを遥かに凌駕しているからだ。

我々は、自律的な倫理規定や、AI自身によるガバナンスに期待するしかないのか…』

『AIによるガバナンス、ね。

それこそ究極のブラックボックスじゃないか。

誰がAIのアルゴリズムを設計し、誰がその目的を設定する? 人類は、自らが作り出した知性に支配される未来を選ぶというのか?』

岡崎は、もう十分だ、と感じた。

これ以上聞いていると、自分の精神まで蝕まれそうだ。

彼女は思考コマンドで、仮想会議室へのアクセスを切断した。

職員室の、見慣れた、しかし今はどこか異質に感じられる風景が視界に戻ってくる。

窓の外は、いつの間にか日が落ち、街の灯りが雨に滲んでいた。


(面倒くさい…本当に、面倒くさいことになった…)

彼女は深いため息をついた。

だが、教師として、この事態から目を背けるわけにはいかない。

生徒たちの異変は、単なる技術的な不具合ではないのかもしれない。

もっと大きな、根深い問題が潜んでいる可能性がある。


彼女は、自分のファミリアである「ウェルテル」を呼び出した。

落ち着いた男性の声を持つ、知的なAIアシスタント。

ゲーテの描いた、若き日の悩み多き青年とは似ても似つかないが、その分析能力と冷静さは頼りになる。


「ウェルテル、さっきの匿名メッセージのログ、解析できる?」

『解析は可能です、岡崎先生。

しかし、アクセス元は高度に匿名化されており、発信源の特定は困難を極めるでしょう。

議論の内容自体は、現在、情報セキュリティやメディア論、社会学の分野で交わされている一般的な懸念事項の範疇を超えるものではありません。

ですが…』

ウェルテルの声が、ほんの少しだけ間を置いた。

それは、彼が何か通常とは異なるパターンを検出した時の癖だった。


「ですが、何?」岡崎は促した。


『議論の参加者のアバターマスキング、音声変調のパターンに、いくつか不自然な点が見られます。

通常の匿名化プロトコルとは異なる、意図的な情報隠蔽、あるいは…偽装の可能性も考えられます』

「偽装…?」

『はい。

あたかも外部の専門家による議論のように見せかけながら、実際には特定の意図を持った少数の人物、あるいは複数のAIによって生成された情報である可能性です。

その目的は不明ですが、特定の情報や懸念を拡散させるための、高度な情報操作の一環であるとも考えられます』

「情報操作…」岡崎は呟いた。

誰が、何のために?

『断定はできません。

しかし、最近の学院内でのSIDの不調、及びジェンキンス先生の失踪と、この匿名メッセージの出現タイミングが近接している点は、偶然として片付けるには少々気になります』

「まさか…」

『もう一点。

議論の中で、プラットフォーマーの責任、特にSIDCOMのデータ独占について言及されていました。

SIDCOMの内部事情に詳しい者、あるいは、ICA…インターワールド・コントロール・オーソリティのような、SIDネットワーク全体を監視する立場にある組織が関与している可能性も、ゼロではありません』

岡崎の胸騒ぎは、確信に近いものへと変わっていった。

これは、単なる偶然や技術的な問題ではない。

何者かが、意図的に何かを引き起こそうとしている。

そして、その波紋は、この桜花学院にも及んでいる。


「ウェルテル、ジェンキンス先生の最終ログ、もう一度詳しく調べてくれる? それから、生徒たちのSIDの異常ログも、ICAに正式に提出して、再解析を依頼して」

『承知しました。

ただし、ICAへの情報提供は、学院長の承認が必要です』

「わかってる。

すぐに話を通すわ」

面倒だ、と心の中で悪態をつきながらも、岡崎の目には教師としての責任感が宿っていた。

この不可解な事件の真相を突き止めなければならない。

生徒たちを守るために。

そして、もしかしたら、この変わり果てた世界で失われつつある、何か大切なものを取り戻すために。


雨は、まだ降り続いていた。

都市の静かな黄昏は、これから訪れるであろう嵐の前の静けさなのかもしれない。

岡崎は、重い腰を上げ、学院長室へと向かった。



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