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第3章 ファミリアの囁き 5

桜花学院の職員室は、俺が想像していたよりも静かで、そして整然としていた。

最新の教育支援システムらしきコンソールが並ぶ一方で、部屋の隅には古めかしい書棚が置かれ、新旧が奇妙に同居している。

平日の午後だというのに、教師の姿はまばらだ。

SIDが普及したこの時代、教師の役割も大きく変わったのだろう。

生徒たちの学習進捗をモニターし、AIと連携して個別指導を行う。

そんな、管理者のような仕事が中心になっているのかもしれない。


奥のデスクでパソコンに向かっていた女性教師、岡崎ゆかり。

彼女が今回の依頼主だ。

事前に送られてきた写真よりも、少し疲れているように見えた。

俺の姿を認めると、一瞬、警戒の色を見せたが、すぐにそれを押し隠すように、丁寧な態度で応接室へと案内してくれた。

他の教師たちには、俺がここに来た目的は伏せられているのだろう。

彼女のぎこちない動きが、それを物語っていた。


応接室の革張りソファは、俺の身体を深く沈み込ませた。

向かいに座った岡崎先生は、テーブルに置いた旧式のタブレット端末に視線を落としている。

彼女もまた、俺と同じように、生体侵襲型のSIDを使っていないのかもしれない。

あるいは、使ってはいるが、俺のようなアンプラグドの人間と話すときには、あえて旧来のデバイスを使うようにしているのか。

どちらにせよ、彼女が何らかの壁を感じていることは確かだった。


「それで、木暮さん」彼女は、意を決したように顔を上げた。

「先日、お電話でお話しした件ですが…ジェンキンス先生のこと、そして、生徒たちの…奇妙な変化についてです」

俺は、彼女が話しやすいように、ゆっくりと頷いた。

「ええ。

詳しく伺えますか?」

彼女は、少し躊躇いがちに、しかし切実な口調で語り始めた。

ジェンキンス先生の突然の失踪。

そして、彼が担任していたクラスの生徒たちに現れた異変。

幻覚、思考の混乱、攻撃性の増大、現実感の喪失…。

それは、単なる思春期の不安定さや、学習上の問題として片付けられるものではない、と彼女は感じているようだった。


「警察にも相談はしているのですが、手がかりがなくて…。

先生はアンプラグドでしたから、デジタルな足跡がほとんど残っていないんです。

それで…あなたのような方に、何か別の角度から調べていただけないかと…」

彼女の声には、教師としての責任感と、生徒たちを案じる純粋な気持ちが滲んでいた。

少なくとも、彼女自身はこの奇妙な出来事に、誠実に向き合おうとしている。

それは好感が持てた。


「状況は理解しました」俺は、少し間を置いてから言った。

「岡崎先生、失礼ですが、この学院の…バンディズムという考え方について、先生ご自身はどうお考えですか?」

唐突な質問だったかもしれない。

だが、この学院の特殊な思想が、事件の背景にある可能性は捨てきれない。


彼女は、少し驚いたように目を瞬かせた。

「バンディズム、ですか…」彼女は言葉を選びながら答えた。

「正直に申しますと、私自身は、その考え方に全面的に賛同しているわけではありません。

血筋や家柄が、人間の価値を決めるものではないと思っています。

ですが、この学院には、それを深く信じているご家庭のお子さんも多く在籍しています。

教育者としては、その価値観を頭ごなしに否定するのではなく、多様な考え方の一つとして、理解しようと努めてはいますが…」

彼女の言葉には、嘘はないように思えた。

だが、どこか歯切れが悪い。

この学院の持つ閉鎖的な空気の中で、彼女もまた、自分の考えを自由に表明することに、ためらいを感じているのかもしれない。


「なるほど」俺は頷いた。

「では、生徒たちの間で噂になっているという『ガム』について、何かご存知のことは?」

「ガム…」彼女の表情が曇った。

「はい、噂は耳にしています。

SIDに作用する、違法なアプリか何かだと…。

ですが、具体的にどんなものなのか、誰が持ち込んでいるのか、全く分からなくて…。

もし、あれが生徒たちの不調の原因だとしたら…」

「可能性は高いでしょうね」俺は、ディアムから得た情報を、慎重に言葉を選びながら伝えた。

「電子ドラッグと呼ばれるものは、様々な種類があります。

例えば『フォトショップ』。

これは、現実認識を歪ませ、世界を美しく見せる効果があると言われています。

多幸感をもたらしますが、常用すれば精神が崩壊する危険な代物です」

彼女は息を呑んだ。

その反応から、彼女がこの情報に強い衝撃を受けていることが分かる。


「それから、『イラストレーター』。

これは、現実に幻覚を描き出す。

存在しないものが見えるようになる。

芸術家タイプが好むそうですが、これも現実逃避と依存性が問題です」

「幻覚…」岡崎先生が呟いた。

「斎藤くんが見ているという…周りのものが崩れ落ちる幻覚も、その…?」

「断定はできません。

ですが、電子ドラッグの中には、使用者の精神状態や潜在的な願望を反映した幻覚を引き起こすものもあると言われています。

もし、斎藤くんが、無意識のうちに現状からの脱却や、世界の変革を望んでいたとしたら…そういう幻覚を見る可能性も、ゼロではないかもしれません」

俺は、さらに続けた。

「そして、最近、新しいタイプのガムが出回っているという情報もあります。

通称『ペインター』。

これは、感情そのものを、まるで絵の具のように塗り替えてしまう効果があるとか。

喜びが悲しみに、憎しみが愛情に。

感情のコントロールを完全に奪う、非常に危険な代物です」

「感情を…塗り替える…?」彼女の顔が、さらに青ざめた。

「まさか…シャオ・ツーくんの、あの不安定な感情の起伏も…?」

「かもしれませんね」俺は静かに言った。

「これらのガムは、単なる快楽を得るためのものではなく、使用者の精神を深く侵食し、変容させてしまう力を持っているようです」

「信じられない…」彼女は、震える声で言った。

「なぜ、こんなものが…この学院で…」

「おそらく、裏で糸を引いている組織がいるのでしょう」俺は、核心に迫る質問を投げかけた。

「岡崎先生。

『エル・シルクロ・ケツァルコアトル』という名前に、心当たりは?」

彼女は、怪訝そうな顔で首を振った。

「ケツァルコアトル…? いいえ、聞いたことがありません。

それは?」

「メキシコを拠点とする、巨大な麻薬カルテルです。

最近、電子ドラッグの製造・販売にも手を広げているという噂があります」

「麻薬カルテルが…この学院と…?」彼女は、信じられない、という表情を浮かべた。

やはり、彼女はこの件の核心からは遠い場所にいるようだ。


「では、もう一つ。

『エリック・マルティネス・サントス』という少年の名前は?」

「エリック…? いいえ、存じ上げません。

生徒名簿にも、そのような名前は…」

「そうですか」俺は、少し肩をすくめた。

「まあ、無理もないでしょう。

おそらく、表には出てこない名前でしょうから」

岡崎先生は、混乱した様子で俺を見ていた。

「木暮さん…いったい、この学院で何が起きているのでしょうか? 教師の失踪、生徒たちの異変、そして麻薬カルテル…? 私には、もう何が何だか…」彼女の声には、切実な響きがこもっていた。

「本当のことを知りたいんです。

生徒たちを守るために、私にできることがあるなら、何でもしますから」

彼女の言葉に、俺は少しだけ心を動かされた。

彼女は、この学院の歪んだシステムの中で、それでも教師としての責任を果たそうとしている。

利用されているだけなのかもしれないが、少なくとも、彼女自身に悪意はないのだろう。


「分かりました」俺は言った。

「俺も、全力を尽くしましょう。

ただし、俺は俺のやり方で動きます。

情報は共有しますが、干渉はしないでいただきたい」

「はい、もちろんです」彼女は力強く頷いた。

「それで…ICAの方々とは、連携は…?」

「ICA?」俺は眉をひそめた。

「なぜ、ICAの名前が?」

「あ、いえ…」彼女は、少し慌てたように言った。

「昨日、ICAのエージェントの方が調査に来られまして…その、今回の件は、ICAも関心を寄せている、ということだけ、お伝えしておこうかと…」

ICAが動いている。

それは、ディアムも仄めかしていた。

だが、実際にエージェントが来ているとは。

しかも、昨日。

俺がICAから接触を受けたのは、今朝未明だ。

連中は、俺よりも先に動いていたということか。


(面倒なことになったな…)

ICAは、SIDCOMと表裏一体のような存在だ。

彼らが介入してきたということは、この事件が、単なる麻薬絡みのトラブルや、学院内の不祥事では済まない、もっと大きなスケールの問題である可能性が高い。

そして、ICAは、俺のようなアンプラグドの探偵を、あまり快く思っていないだろう。

彼らにとっては、俺の存在自体が、管理されたネットワーク社会における「ノイズ」なのかもしれない。


俺は、岡崎先生に、ICAのエージェントについて、もう少し詳しく尋ねようとした。

その時だった。

応接室のドアが、静かに開いた。


そして、そこに立っていたのは――

息が止まるかと思った。

常楽院雛子。

十年ぶり見る彼女は、記憶の中よりもずっと大人びて、そして、どこか近寄りがたいほどのオーラを纏っていた。

シャープな黒いスーツ。

無駄のない立ち姿。

そして、あの頃と変わらない、大きな、強い意志を秘めた瞳。


彼女は、隣にいた小柄な、女子用の制服を着た少年――坂本直行だろう――に、何か低い声で指示を与えている。

俺の存在には、全く気づいていないようだった。

視線すら合わない。


(雛子…!)

心臓が、激しく脈打つのを感じた。

なぜ、彼女がここに? ICAのエージェント? あの雛子が? 十年前、SIDを巡る価値観の違いから、激しくぶつかり合い、そして別れた彼女が。


声をかけるべきか? いや、待て。

彼女はICAだ。

そして俺は、裏社会の住人であるディアムから依頼を受け、違法な電子ドラッグや、麻薬カルテルの影を追っている。

俺たちの立場は、あまりにも違いすぎる。

今、彼女に接触すれば、俺の調査は妨害され、最悪の場合、俺自身がICAの監視対象になるかもしれない。


だが、それでも――。

彼女に伝えたいことがある。

警告したいことがある。

この学院は危険だ、と。


雛子は、少年に何かを言い渡すと、迷いのない足取りで廊下を歩き去っていった。

その後ろ姿を、俺はただ、見つめることしかできなかった。

彼女の隣には、いつの間にか、黒猫(ネコ型のココロイドだろうか?)が寄り添っている。

まるで、彼女を守る騎士のように。


俺は、深く息を吐き出し、乱れた呼吸を整えた。


(今は、まだだ…)

俺たちの道は、十年前に分かたれた。

そして、今、再び交差しようとしている。

だが、それは、友として、あるいはかつての恋人としてではない。

おそらくは、対立する立場で。


俺は、岡崎先生に向き直った。

彼女は、俺と雛子の間に流れた、一瞬の、しかし濃密な空気に気づいたのか、少し戸惑ったような表情をしていた。


「…失礼。

少し、考え事をしていました」俺は、努めて平静を装って言った。

「岡崎先生。

生徒たちの異変について、もう少し詳しく伺いたい。

特に、幻覚や感情の変化について、具体的に、いつ頃から、どのような形で現れたのか。

記録があれば、見せていただけますか?」

今は、感傷に浸っている場合ではない。

俺には、やるべきことがある。

この学院の闇を暴き、真実を突き止める。

それが、探偵としての俺の仕事だ。


俺は、岡崎先生がタブレットに示す生徒たちの記録に、意識を集中させた。


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