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第3章 ファミリアの囁き 3

SIDを装着してから、三ヶ月が過ぎた。

季節は夏から秋へと移り変わり、桜花学院のキャンパスを彩っていた深い緑も、少しずつ赤や黄色に色づき始めている。

俺自身の内面もまた、この三ヶ月で劇的な変化を遂げた。

まるで、古い自分が脱皮して、新しい存在へと生まれ変わったかのようだ。


装着初期に俺を苦しめた情報無制限循環(INFORMATION INFINITE LOOP)や思考渦(THOUGHT VORTEX)は、もう過去のものとなっていた。

最初の二ヶ月間は、まさに情報の奔流との格闘だった。

意識を集中しようとしても、思考は際限なく拡散し、脳が焼き切れるような感覚に何度も襲われた。

ジュリアのナビゲーションと、そして何よりも俺自身の意志の力で、その嵐を乗り越えてきたのだ。

この一ヶ月に至っては、一度も思考渦の兆候すら現れていない。

俺は、SIDの力を完全に掌握しつつあった。


その証拠に、俺の思考制御トークン数は、既に6000を超えている。

ジュリアによれば、これはSID装着後三ヶ月の平均的なユーザーの三倍以上の数値だという。

彼女は「異常な速度での適応」だと警告めいた口調で言うが、俺にとっては当然の結果だった。

俺は、他の凡百の連中とは違う。

特別な血と、特別な才能を持っているのだから。


『嘉樹様、現在のトークン処理速度は安定していますが、依然として脳への負荷は高い状態です。

適度な休息と、情報摂取量の調整を推奨します』

ジュリアの声が、思考の片隅で響く。

彼女は相変わらず、俺の「進化」を理解せず、安全策ばかりを口にする。

だが、俺はもう彼女の助言を必要とはしていなかった。

俺自身の感覚が、俺が進むべき道を明確に示している。


SIDによる思考制御インタラクション――最近では「ニューロリンク(NEUROLINK)」と呼ばれることが多い――は、俺の知覚と能力を飛躍的に向上させた。

ニューロ(神経)とリンク(接続)が示す通り、俺の脳は、もはや単独の器官ではなく、広大なネットワークの一部として機能している。


授業の内容は、教科書を開くまでもなく、教師が話し始める前に、その概要から詳細なデータまで、すべて頭の中に流れ込んでくる。

複雑な数式も、難解な歴史的事実も、まるで最初から知っていたかのように理解できる。

テストの成績は、常に学年トップだ。

スポーツにおいても、身体能力そのものが向上したわけではないが、相手の動きを予測し、最適な反応を瞬時に計算できるようになったため、以前とは比較にならないパフォーマンスを発揮できるようになった。


まさに万能感。

世界が、俺の意のままになるような感覚。

これが、CEREBRUM EXCELSIORケレブラム・エクセルシオル――「より高次の脳」を持つ者の感覚なのだろうか。

いや、俺はもっと先へ行けるはずだ。

CEREBRI MAGNUSケレブリ・マグヌス――「偉大なる脳」へ。

そして、いつかはCEREBRI DIVINUSケレブリ・ディウィヌス――「神聖なる脳」の領域へ。


だが、この劇的な変化には、予期せぬ副作用もあった。

いや、副作用と呼ぶべきではないのかもしれない。

新しい能力を獲得したことによる、当然の帰結、と言うべきか。


俺は、本を読まなくなった。


以前は、それなりに読書が好きだった。

特に歴史小説やSF小説。

物語の世界に没頭し、登場人物の感情に共感したり、未知の世界に思いを馳せたりするのは、楽しい時間だった。

だが、今は違う。

本を開こうとすると、その内容が、結末まで含めて、一瞬で頭の中に流れ込んでくるのだ。

文字を追う必要も、ページをめくる必要もない。

まるで、既に何度も読み終えた本を、ただ再確認しているかのような感覚。

そこには、かつて感じたような、物語を読み進める喜びも、知的な発見の驚きも、もはや存在しなかった。


それは、本に限ったことではない。

音楽も、映画も、同じだった。

曲を聴こうとすれば、そのメロディ、ハーモニー、リズム、歌詞、すべてが再生される前に、完全な形で俺の意識の中に現れる。

映画を見ようとすれば、ストーリー、映像、台詞、演出、そのすべてが、再生ボタンを押す前に、俺の中で完結してしまう。


感動がない。

驚きがない。

期待感がない。


SID、特にニューロリンクは、知識や情報の獲得においては、驚異的な効率性をもたらした。

だが、その代償として、俺は、時間的なプロセスを経て体験する「楽しみ」や「感動」といったものを、失ってしまったのかもしれない。


なぜ、こうなってしまったのか。

ジュリアに尋ねてみたことがある。


『それは、ニューロリンクによる情報処理プロセスと、人間の脳の報酬系との相互作用によるものと考えられます』彼女は、いつものように冷静に、しかし詳細に説明してくれた。

『ニューロリンクは、ユーザーが求める情報を、思考とほぼ同時に、極めて効率的に提供します。

この「即時性」と「効率性」が、脳内の報酬系を強く刺激するのです。

ドーパミンなどの神経伝達物質が放出され、ユーザーは強い満足感や達成感を得ます』

『一方で、読書や音楽鑑賞、映画鑑賞といった従来の娯楽や知識獲得方法は、時間的なプロセスを必要とします。

物語を読み進めたり、曲を聴き通したり、映画を最後まで見たりする中で、徐々に感情が高まり、クライマックスでカタルシスを得る。

このプロセス自体が、報酬系を穏やかに、しかし持続的に刺激するのです』

『しかし、ニューロリンクによる強烈で即時的な報酬に慣れてしまうと、従来の、時間のかかるプロセスから得られる報酬が、相対的に弱く感じられるようになります。

脳が、より早く、より強い刺激を求めるようになる。

その結果、本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を見たりすることに対する興味や意欲が、自然と薄れていってしまうのです』

『さらに、ニューロリンクは、論理的な情報処理やパターン認識には非常に優れていますが、人間の感情や想像力といった、より複雑で曖昧な領域へのアクセスは限定的です。

物語の登場人物への共感、音楽が喚起する情景、映画が描く人間ドラマの深み。

そういったものは、ニューロリンクを通じて「情報」として理解することはできても、人間が本来持つ感情的な回路を通じて「体験」することは難しい。

そのため、感情的な充足感を伴う活動への興味も、次第に失われていく傾向があります』

ジュリアの説明は、論理的で、納得できるものだった。

だが、納得できたからといって、失われたものが戻ってくるわけではない。

俺は、知識や能力と引き換えに、人間らしい感情の機微や、文化的な豊かさを享受する能力を、手放してしまったのだろうか。


(いや、これもまた「進化」なのだ)

俺は、自分に言い聞かせた。

古い時代の、非効率な娯楽に固執する必要はない。

俺は、もっと高次の、知的な喜びを追求すればいいのだ。

情報の海を泳ぎ、知識の頂を目指す。

それこそが、新しい時代を生きる、選ばれた人間の姿なのだ。


だが、心のどこかで、小さな棘が刺さったままのような、微かな痛みが残っていることも、否定できなかった。

時折、無性に、ただぼんやりと空を眺めたり、意味もなく音楽を口ずさんだりしたくなることがある。

そんな時、俺は決まって、アンプラグドの連中のことを思い出す。


DISCONNECTORSディスコネクターズ

反SIDネットワークを掲げる、時代遅れのテロリスト集団。

彼らは、SIDを否定し、ネットワークから切断された、原始的な生活を理想としている。

馬鹿げた連中だ。

変化を恐れ、進歩に背を向ける、臆病者の集まり。

彼らがどれほど騒ごうと、歴史の歯車が逆戻りすることはない。


だが、彼らが守ろうとしているものの中に、俺が失ってしまった何かが、含まれているのかもしれない。

そんな考えが、時折、頭をよぎるのだ。

もちろん、すぐに打ち消す。

感傷に浸っている暇などない。

俺は、前へ進まなければならないのだから。


俺は、自室の窓から、夕暮れのキャンパスを見下ろした。

グラウンドでは、運動部の生徒たちが練習に励んでいる。

彼らの汗や、掛け声や、ぶつかり合う肉体の音。

それらは、俺にはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。


(俺は、どこへ向かっているのだろう…?)

その問いに、SIDはまだ明確な答えを与えてくれない。

俺自身の思考も、まだその答えを見つけ出せていない。

ただ、確かなことは、俺はもう、以前の俺ではいられない、ということだけだ。

良くも悪くも、俺はSIDと共に、未知の領域へと足を踏み入れてしまったのだ。


ジュリアが、そっと俺の隣に現れた。


『嘉樹様、少し休憩されてはいかがですか? ニューロリンクへの接続時間が、推奨値を超えています』

「…ああ、そうだな」

俺は、彼女の言葉に従い、SIDの思考制御機能を一時的にオフにした。

途端に、頭の中を駆け巡っていた情報の奔流が止み、静寂が訪れる。

だが、その静寂は、どこか空虚で、物足りない。


俺は、机の上に置きっぱなしになっていた、古いSF小説を手に取った。

アンプラグドだった頃に、何度も読み返した本だ。

表紙を開き、最初のページに目を落とす。

文字が、ゆっくりと、しかし確実に、意味を伴って俺の意識に入ってくる。


(…まだ、読めるじゃないか)

少しだけ、安堵した。

完全に失われたわけではなかったらしい。

だが、読み進めるうちに、やはり以前のような没入感は得られなかった。

物語の展開は、既に俺の頭の中にある。

登場人物の感情も、情報として「理解」はできるが、「共感」はできない。


俺は、ため息をつき、本を閉じた。

そして、再びSIDをオンにする。

情報の奔流が、心地よい刺激となって、俺の脳を満たしていく。


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