第3章 ファミリアの囁き 1
冷たいジェルがこめかみに塗られる感触で、俺は自分が今、人生の大きな岐路に立っていることを改めて実感した。
福岡桜花学院、医務室に併設されたSID施術室。
無機質な白い壁、天井から吊り下げられた最新鋭の医療機器、そして、白衣を着た技術者の、感情の読めない目。
すべてが、これから俺の身に起ころうとしている非日常的な出来事を際立たせているようだった。
SID――SYNAPTIC INTERFACE DEVICE。
思考を、意識を、ネットワークに接続する。
その施術を、俺は今日、受ける。
十四歳。
学院の規定ギリギリの年齢だ。
試験に五回も落ち続けた劣等感と、ようやく手に入れる新しい力への期待感がないまぜになって、心臓が妙に早鐘を打っていた。
「斎藤くん、リラックスして。
痛みは全くないからね」
技術者の、落ち着いた声が響く。
分かっている。
痛みがないことも、施術自体は三十分程度で終わることも。
頭に電極を埋め込むような旧世代のBMIとは違う。
最新のSIDは、生体親和性の高いナノマシンを鼻腔から吸入するだけだ。
ナノマシンが自己増殖しながら脳の新皮質に定着し、シナプスと直接接続を確立する。
安全で、確実な方法だと、説明は受けている。
それでも、恐怖がなかったと言えば嘘になる。
自分の脳という、最もプライベートで、最も聖域であるべき場所に、外部の機械が入り込むのだ。
思考が、感情が、記憶が、ネットワークを通じて他者と共有される可能性がある。
それは、俺がこれまで生きてきた世界のルールを、根底から覆すものだった。
(本当に、大丈夫なのか…?)
施術台に横たわりながら、俺は数日前の父との会話を思い出していた。
実家に一時帰省した際、父は俺に厳かに問いかけたのだ。
「嘉樹。
SIDを装着すること、本当に後悔しないか?」
父は、典型的なバンディズムの信奉者だ。
古い家柄を重んじ、血の繋がりこそが人間の価値を決めると信じている。
男は強く、女は淑やかに。
家名を継ぎ、一族の繁栄を守ることこそが、男の務めであると、俺は幼い頃から繰り返し聞かされて育った。
その父が、SIDのような最新技術に対して、複雑な感情を抱いていることは知っていた。
「後悔なんてしませんよ、父さん」俺は、努めて平静を装って答えた。
「これは、俺がさらに強くなるための、必要なステップです。
桜花学院の生徒として、SIDを使いこなせなければ、話になりません」
「強さ、か…」父は、苦々しげに呟いた。
「だがな、嘉樹。
真の強さとは、機械に頼るものではない。
己の精神を鍛え、血筋に受け継がれた力を磨くことにある。
SIDなどというものは、魂のない、空っぽの力ではないのか?」
「そんなことはありません」俺は反論した。
「SIDは、俺たちの能力を拡張するための道具です。
使い方次第で、より大きな力を得ることができる。
それに、父さんだって、会社の経営には最新のAIを使っているじゃないですか」
「それは、仕事の効率化のためだ。
魂の問題とは違う」父は、頑なだった。
「いいか、嘉樹。
お前は斎藤家の跡取りだ。
軽々しい選択は許されん。
SIDがお前の精神に、お前の血に、どのような影響を与えるか、誰にも分からんのだぞ」
父の言葉は、重く俺の心にのしかかった。
父の言うことも、一理あるのかもしれない。
SIDがもたらす変化は、未知数だ。
だが、俺はもう決めたのだ。
この学院で、そしてこの世界で、頂点に立つためには、SIDは必要不可欠な力なのだ。
俺は、父の期待に応えなければならない。
いや、父を超えなければならない。
そのためには、どんな力でも利用する覚悟があった。
「心配いりませんよ、父さん。
俺は、SIDに支配されるのではなく、SIDを支配してみせます。
斎藤家の名に恥じない、強い男になります」
そう言い切った時の、父の複雑な表情を、俺は今でもはっきりと覚えている。
安堵、不安、そして、ほんの少しの寂しさ。
「…そうか。
お前がそう決めたのなら、何も言うまい。
だが、忘れるな。
お前が拠り所とすべきは、常に己自身と、我々の血だ」
その言葉が、今、施術台の上で、妙にリアルに響いてくる。
「では、始めます。
ゆっくりと息を吸って…」
技術者の声に従い、俺は深く息を吸い込んだ。
鼻腔に、ひんやりとした、金属質のような匂いの気体が流れ込んでくる。
ナノマシンだ。
これが、俺の脳へと到達し、新しい世界への扉を開く。
数分後、最初の変化が訪れた。
鼻の奥に、冷たい水が流れ込んだような、しかし不快ではない、奇妙な感覚。
そして、意識の中に、直接響く声。
『――ようこそ、SIDCOMへ』
それは、人間の声ではなかった。
合成音声とも違う。
もっと純粋な、情報としての「声」。
どこから聞こえるのか、全く分からない。
鼓膜を震わせる音波ではない。
思考そのものに、直接語りかけてくるような感覚。
『初期設定を開始します。
まず、あなたのパーソナルAIアシスタント、ファミリアを設定してください』
ファミリア。
SIDユーザーの相棒であり、ナビゲーター。
俺は、この日のために、どんなファミリアにするか、ずっと考えていた。
『最初に、ファミリアの名前を音声で認識させてください。
後から変更も可能ですので、お気軽にどうぞ』
「お気軽に」と言われても、これは重要な選択だ。
ファミリアは、俺の分身であり、俺の理想を反映する存在でなければならない。
俺は、迷わず、その名前を口にした。
「ジュリア」
『ジュリア、ですね。
次に、性別を設定してください』
「女性」
『女性、ですね。
年齢は?』
「十三歳」
『十三歳、ですね。
人種は?』
「アジア人。
日本人七十五パーセント、イギリス人二十五パーセント」
『アジア人、日本人七十五パーセント、イギリス人二十五パーセント、ですね。
外見的特徴は?』
俺は、頭の中に思い描いていたイメージを、言葉にしていく。
「黒髪のショートヘア。
服装は、地味な和服。
そう、大正時代の女学生のような…袴姿がいい」
『黒髪ショートヘア、地味な和服(袴姿)、ですね。
性格・個性は?』
ここが肝心だ。
俺が理想とする女性像。
それは、父が語り、母が体現してきた、古き良き日本の女性の姿だ。
「知的で、冷静沈着。
それでいて、優しさに溢れている。
常に穏やかで、控えめ。
男を立て、影で支える。
そういう…大和撫子のような性格で」
『知的、冷静沈着、優しさ、穏やか、控えめ、男を立てる、影で支える…大和撫子、ですね。
使用言語と話し方は?』
「日本語と英語。
話し方は、明るく、丁寧。
英語には、少し日本語訛りがある感じで」
『日本語、英語。
明るく丁寧な話し方。
英語に日本語訛り、ですね。
表情については?』
「常に穏やかな微笑みを浮かべている。
俺が話すときは、興味深そうに、少しだけ上目遣いで耳を傾ける。
質問には、的確に、しかし出しゃばらずに答える」
『常に穏やかな微笑み。
上目遣いで傾聴。
的確かつ控えめな応答、ですね。
何か特徴的なアイテムはありますか?』
「ああ、そうだ。
メガネを掛けている。
フレームは、細身の銀色。
それから、頭には黒いリボンを飾っている」
『銀縁メガネ、黒いリボン、ですね。
…設定内容を確認しました。
ただし、一部、現代の倫理規範及びSIDCOMの利用規約に抵触する可能性のある表現が含まれています。
「男を立てる」「影で支える」「上目遣い」といった要素は、性別役割の固定化や、従属的な関係性を助長する可能性があるため、ファミリアの自律的思考アルゴリズムによって調整、あるいは解釈が変更される場合があります。
ご了承ください』
(なんだと…?)
俺は、思わず眉をひそめた。
倫理規範? 利用規約? ファミリアは、俺の理想を反映する存在ではないのか? なぜ、外部のルールに従わなければならない?
『ご了承いただけない場合、設定を修正する必要がありますが、いかがなさいますか?』
声は、淡々と問いかけてくる。
ここで反論しても仕方がないのかもしれない。
ファミリアの基本的な性格設定は、後からでも調整できると聞いている。
まずは、ジュリアを具現化させることが先決だ。
「…了承する」俺は、不本意ながらも答えた。
『ありがとうございます。
それでは、初期設定に基づき、ファミリアを生成します。
詳細なカスタマイズは、接続安定後、いつでも可能です』
一瞬の静寂。
そして、俺の意識の中に、新しい声が響いた。
それは、先ほどの無機質な声とは違う、温かく、そして少しだけ訛りのある、若い女性の声だった。
『はじめまして、斎藤嘉樹様。
わたくしが、あなたのファミリア、ジュリアです。
これから、どうぞよろしくお願いいたします』
俺の視界――まだ現実の施術室の天井が見えているはずの視界に、オーバーレイされるように、半透明の少女の姿が浮かび上がった。
黒髪のショートヘア、白いブラウスに、深い紫色の袴。
銀縁のメガネの奥の瞳は、穏やかな光を湛えている。
頭には、小さな黒いリボン。
…微妙に、思っていたのと違うな。
それが、俺のファミリア、ジュリアに対する、最初の正直な感想だった。
彼女の微笑みは穏やかだが、どこか自律的な意志の強さを感じさせる。
俺が望んだ「控えめさ」や「従順さ」とは、少し違う気がする。
これが、AIによる「調整」というやつか。
(まあ、いい。
これから、俺好みに「教育」していけばいいだけのことだ)
俺は、新たな力を手に入れたのだ。
そして、俺自身のファミリアも。
この力を使って、俺はもっと強くなる。
父の期待を超え、この学院の、いや、この世界の頂点に立つ。
そのための第一歩が、今、始まったのだ。
施術台から起き上がりながら、俺は心の中で、新たな決意を固めていた。
ジュリア、お前は俺の理想の女になるんだ。
俺が、そう育ててやる。
俺たちの新しい関係は、今、ここから始まるのだから。




