第2章 見えないノイズ 4
斎藤嘉樹が退室し、学院長室には再び私とジジだけが残された。
先ほどの面談――というよりは、彼の意識への表層的なダイブと呼ぶべきか――で得られた情報は、断片的ではあるが、無視できないものだった。
彼の抱える過剰なまでの自己肯定感、選民意識、そして現実認識の歪み。
あれは、単なる思春期の揺らぎやSIDの初期不良では説明がつかない。
何者かが、彼の精神に意図的に干渉している可能性が高い。
私はソファに深く身を沈め、目を閉じた。
意識を集中させ、先ほどのダイブで記録した彼の深層ログの断片を再構築する。
ノイズが多い。
彼の思考パターンは、まるで嵐の中の海のように荒れ狂っている。
だが、そのノイズの奥に、微かに、しかし確実に存在する異質なパターン。
それは、外部から注入された、強制的な思考誘導プログラムの残滓のように見えた。
「どう思う、ジジ?」私は、思考で問いかけた。
『かなり危険な状態だね、雛子』ジジの声が、私の意識の中に直接響く。
彼は、私の足元で毛づくろいをするふりをしながら、冷静に分析を進めていた。
『彼の自己認識は、SIDによる能力拡張というよりは、外部からの暗示に近い形で肥大化している。
まるで、自分が特別な存在であると、誰かに囁かれ続けているかのようだ』
「誰に?」
『断定はできない。
だが、彼の価値観――特に、あの時代錯誤な男尊女卑的な思考や、血統へのこだわり。
あれは、この学院が標榜する「バンディズム」と奇妙に符合する』
バンディズム。
血族主義。
私もICAのデータベースでその概要は確認していた。
遺伝子や血脈を重視し、それを次世代に受け継ぐことを至上とする考え方。
21世紀初頭までは、世界各地の王侯貴族や一部の富裕層の間で根強く残っていた価値観だ。
だが、SIDが普及し、知識や経験、記憶さえもがデジタルデータとして継承可能になった現代においては、ほとんど意味を失ったはずの思想。
遺伝子情報よりも、獲得された知性や経験の方が、はるかに効率的に「進化」を促すことが証明されて久しい。
それなのに、この桜花学院では、未だにその古い思想が教育の根幹に据えられている。
なぜなのか。
単なる伝統墨守? それとも、何か別の目的が隠されている?
「バンディズムが、今回の事件とどう繋がるというの?」私はジジに問い返した。
「血筋を重んじるなら、斎藤くんのような、古い家柄の子を危険に晒すような真似はしないはずでしょう?」
『それは、バンディズムの「表」の顔だけを見た場合の話さ』ジジは、二本の尾をゆっくりと揺らしながら答えた。
『もし、彼らが血統だけでなく、「魂」や「意識」そのものの継承を考えているとしたら? SIDと、もしかしたら霊子技術を使って、優れた血統(と彼らが信じるもの)の精神を、若い、健康な肉体を持つ「器」に移し替えようとしているとしたら?』
「人格転移…」私は息を呑んだ。
それは、SID技術の黎明期から囁かれていた、禁断の可能性。
倫理的にも技術的にも、あまりにも多くの問題があり、公式にはタブーとされている研究分野だ。
だが、水面下で研究を続ける組織が存在するという噂は、ICA内部でも絶えない。
「まさか、この学院が、そのための…?」
『可能性の一つ、だよ。
斎藤くんのような「血統の良い」生徒は、転移される側、つまり「継承者」候補なのかもしれない。
そして、シャオ・ツーくんのような養子や、あるいは岡崎先生が気にしていた他の生徒たちは…「器」候補、ということになる』
「だとしたら、斎藤くんの精神を不安定にさせているのは何故? 継承者なら、むしろ安定させるべきでしょう?」
『そこが分からない。
もしかしたら、転移のための「下準備」として、彼の自我を意図的に揺さぶっているのかもしれない。
あるいは、計画に反対する勢力が、妨害工作を行っている可能性も…』
ジジの推測は、あくまで推測に過ぎない。
だが、背筋が寒くなるようなリアリティがあった。
もし、この学院が本当にそんな非人道的な実験場だとしたら、ジェンキンス先生の失踪も、生徒たちの異変も、すべてが繋がってくる。
「バンディズム以外にも、この時代には色々な思想があるわよね」私は、思考を切り替えるように言った。
「SIDの普及は、人々の価値観を多様化させた。
あるいは、先鋭化させた、と言うべきかしら」
『そうだね。
テクノロジーへの向き合い方で、人々は様々なグループに分かれていった。
バンディズムも、その一つと言えるかもしれない』
例えば、ネオ・フェデラリスト。
彼らは、SIDを含む現代技術の多くを否定し、アメリカ建国当時の、あるいはもっと極端な者は18世紀の価値観に回帰しようと主張していた。
彼らの思想は、2030年代のアメリカ内戦の一因ともなった。
今でも、アンプラグドの中には、彼らの思想に共鳴する者が少なくない。
あるいは、トランスヒューマニスト。
彼らは、SIDやその他のテクノロジーを用いて、人間という種の限界を超えようとする。
肉体の制約から解放され、意識をデジタル化し、ネットワーク上で永遠に生きることを目指す者たち。
彼らにとって、バンディズムのような血統主義は、唾棄すべき過去の遺物だろう。
そして、アンプラグドの中にも、様々な考え方がある。
ジェンキンス先生のように、人間的な繋がりやアナログな経験を重んじる者。
宗教的な理由からSIDを拒否する者。
あるいは、単に新しい技術についていけない、あるいは経済的な理由でアクセスできない者。
(グレッグは、どのタイプだったかしら…)
ふと、彼のことを思い出した。
木暮雅人。
彼は、SIDに対して、単なる恐怖や不信感だけではない、もっと複雑な感情を抱いていたように思う。
両親の死という個人的なトラウマ。
それに加えて、彼が研究していたバイオテクノロジーの知識。
彼は、SIDが生体にもたらす未知の影響を、誰よりも深く理解し、そして恐れていたのかもしれない。
『彼のこと、考えてるのかい?』ジジが、私の思考を読んだように言った。
「…別に」私は、すぐに否定した。
「ただ、アンプラグドの考え方も、色々あると思っただけよ」
『ふーん』ジジは、意味ありげに鼻を鳴らした。
『まあ、彼のような、確固たる信念を持つアンプラグドは、今では珍しい存在だけどね。
多くのアンプラグドは、単に時代に取り残されているだけか、あるいは、ネットワークの外で、独自の、閉じたコミュニティを形成していることが多い』
「閉じたコミュニティ…」
『そう。
例えば、「DISCONNECTORS」のような、反SIDネットワークを掲げる緩やかな連合体。
あるいは、もっと小規模な、特定の趣味や思想を共有するオンライン・オフラインのグループ。
彼らは、SIDが支配する主流社会とは別のルール、別の価値観で生きている。
中には、違法な電子ドラッグや、改造SID-OSを流通させているような、危険な集団も存在する』
「ガム…」
『その通り。
桜花学院で起きていることが、そういったアンダーグラウンドなコミュニティと繋がっている可能性も、考慮に入れるべきだろうね』
バンディズム、ネオ・フェデラリスト、トランスヒューマニスト、アンプラグド・コミュニティ…。
SIDが普及したこの世界は、決して均質化されたわけではない。
むしろ、テクノロジーとの関わり方を巡って、価値観はより細分化され、時には対立し、複雑なモザイク模様を描き出している。
(そして、その歪みが、今、この学院で噴出している…)
私は、改めて部屋を見回した。
古めかしい調度品、大量の紙の本。
それは、この学院が守ろうとしている「伝統」の象徴なのかもしれない。
だが、その伝統の影で、最新の、そして禁断のテクノロジーが蠢いている。
そのギャップ、その矛盾こそが、事件の核心に繋がる鍵なのかもしれない。
「次の生徒は、坂本直行くん、だったわね」私は、気持ちを切り替えるように言った。
「彼に関する情報を、もう一度整理してくれる?」
『了解。
坂本直行、14歳。
SID装着後の顕著な変化として、女装傾向の強化と、自己認識に関する発言の増加。
ファミリアはオランウータンの「ガンジャ」。
彼のログデータには、現実と仮想空間の境界に関する混乱、及び、強い変身願望を示唆するパターンが見られる。
また、他の生徒とのコミュニケーションにおいて、独自のジェンダー観を主張し、摩擦を生むケースも報告されている』
「変身願望…」それは、単なる自己表現欲求なのだろうか。
それとも、もっと根源的な、自己同一性への問いかけなのか。
彼もまた、SIDによって、自分という存在の輪郭が揺らいでいるのかもしれない。
コンコン、と控えめなノックの音がして、学院長室の扉が静かに開いた。
岡崎先生に促され、一人の少年が入ってくる。
小柄で、華奢な体つき。
着ているのは、桜花学院の男子制服ではなく、女子生徒用のセーラー服だった。
肩まで伸びた髪は柔らかそうで、大きな瞳には、不安と好奇心が入り混じったような、複雑な色が浮かんでいる。
彼が、坂本直行。
私は、ソファから立ち上がり、彼に向かって穏やかに微笑みかけた。
「坂本くん、はじめまして。
ICAの常楽院です。
少し、お話を聞かせてもらえますか?」




