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第2章 見えないノイズ 3

斎藤くんが学院長室の重い扉の向こうに消えていくのを、私は複雑な気持ちで見送った。

常楽院雛子と名乗ったICAのエージェント。

彼女は、あの涼やかな表情の下で、いったい何を考えているのだろう。

そして、自信に満ち溢れているように見えた斎藤くんは、彼女との面談で何を語り、何を感じるのだろうか。


生徒指導室に戻る気にもなれず、私は人気のない廊下の窓際に寄りかかった。

窓の外では、先ほどまで降り続いていた雨が上がり、雲の切れ間から弱い光が差し込んでいる。

濡れた中庭の木々が、夕暮れ前の静かな光の中で、しっとりと輝いていた。

美しい光景のはずなのに、私の心は少しも晴れなかった。


(ICA…インターワールド・コントロール・オーソリティ…)

その名前を、心の中で反芻する。

SIDCOMの下部組織で、SIDネットワークの安全管理を担当している、ということくらいしか、私は知らない。

一般には、ほとんど情報が公開されていない、謎めいた組織。

そんな組織が、なぜこの桜花学院の、一見、些細とも思える事件に、わざわざエージェントを派遣してきたのだろう。

ジェンキンス先生の失踪が、単なる行方不明ではないとでも言うのだろうか。

それとも、生徒たちのSIDの不調が、もっと大きな問題の前兆だとでも?

考えれば考えるほど、胸騒ぎが大きくなる。

面倒なことには首を突っ込みたくない、というのが私の本音だ。

けれど、教師として、生徒たちの身に起きている異変を、このまま見過ごすわけにはいかない。

それに、ジェンキンス先生のことも心配だ。

彼はアンプラグドで、時代遅れなところもあったけれど、生徒たちを思う気持ちは本物だった。

彼が、ただ黙って姿を消すなんて、どうしても考えられない。


「ウェルテル」

私は、自分のファミリアを呼び出した。

視界の隅に、彼の落ち着いたアバター――ゲーテの描いた青年とは似ても似つかない、知的な中年男性風の姿――が、ふわりと現れる。


「はい、岡崎先生。

何かご懸念でも?」ウェルテルの声は、いつも通り、冷静で分析的だ。

それが、今の私には少しだけ救いになる。


「ICAについて、もう少し詳しく知りたいの。

公開されている情報で構わないから、概要を教えてくれる?」

『承知いたしました。

ICA、インターワールド・コントロール・オーソリティについてですね。

公式に公開されている情報は限定的ですが、概要をまとめます』

ウェルテルの声と共に、私の視界に半透明の情報パネルが展開された。


ICA (INTERWORLD CONTROL AUTHORITY) 概要

設立: 2040年

母体: 国際暗黒物質応用科学研究所(IIASDM)、グラン・サッソ国立研究所、及びSIDCOM(旧SIDニューラリンク社)の一部門が統合。


本部所在地: 非公開(一説にはイタリア、グラン・サッソの地下施設、あるいはスイス・ジュネーブの国際機関地区とも言われているが、確証はない)

目的: SIDネットワーク及びインターワールド(SIDによって接続された意識空間の総称)の安定性維持、セキュリティ確保、関連技術の倫理的・法的問題への対応、及び「霊子」技術に関する研究とその管理。


組織構造: 不明(SIDCOMとは独立した指揮系統を持つとされるが、実質的な関係性は不透明)

活動内容: SIDネットワーク上の異常監視、サイバー攻撃や不正アクセスへの対処、違法な電子ドラッグや不正アプリケーションの取締り、SID関連の国際的な規格・規制の策定支援、そして…(以下、アクセスレベル制限により表示不可)

「…やっぱり、よく分からない組織ね」私はパネルを眺めながら呟いた。

「本部所在地も非公開、組織構造も不明。

活動内容も、最後の部分はアクセス制限がかかってる。

まるで諜報機関みたいだわ」

『ICAは、その性質上、高度な機密保持が求められる組織です。

SIDネットワークは、今や全世界の経済、社会、そして個人の意識そのものに深く関わっています。

その根幹を揺るがしかねない事態に対処するためには、ある程度の秘密主義は必要不可欠なのかもしれません』ウェルテルは淡々と述べた。


「霊子技術の研究と管理、ね…」私は、パネルの中のその一文に目を留めた。

「霊子…常楽院さんも、その言葉を口にしていたわ。

いったい何なのかしら?」

『霊子(QUANON、あるいはGHOSTONとも)は、2038年にIIASDMの研究チームによって理論的に存在が予測された、新しい素粒子、あるいはエネルギー形態とされています。

その性質については、ほとんど情報が公開されていません。

一説には、意識や情報と物質を媒介する役割を持つとか、あるいは平行世界への干渉を可能にする、などといった憶測が流れていますが、科学的なコンセンサスは得られていません。

ICAがその研究と管理を行っているということは、霊子がSID技術の根幹に関わる、極めて重要な、そして潜在的に危険な要素である可能性を示唆しています』

「平行世界…」私は、その言葉に軽い眩暈を覚えた。

SFの話ではないか。

そんなものが、現実の問題としてICAのような組織によって扱われているというのだろうか。


「じゃあ、SIDCOMの方はどうなの? 彼らは、単なるデバイスメーカーであり、ネットワークサービスの提供企業、というわけではないの?」

『SIDCOMの成り立ちも、単純ではありません。

元々は、2017年にイーロン・マスクらが設立したニューラリンク社が母体の一つです。

彼らはBMI技術のパイオニアでした。

そして、2026年に台湾の技術者マイケル・ウォンが開発した思考入力デバイス『S.I.D.』…これが、現在のSIDの直接の原型となります。

ニューラリンク社はこの技術とウォン氏を招聘し、急速に開発を進めました』

ウェルテルは、さらに情報を展開していく。


SIDCOM 沿革と理念

前身: NEURALINK社(2017年設立)、SCRIBBLE INPUT DEVICE (S.I.D.) 開発チーム(2026年技術発表)

統合: 2027年、NEURALINK社がS.I.D.技術を買収・統合し、「SID NEURALINK」設立。


発展: 量子コンピューター、重力波観測技術、AI技術の急速な発展と融合(2020年代後半~2030年代)。


SIDCOM設立: 2040年、IIASDM、グラン・サッソ研との統合を経て、現在のSIDCOMとなる。

同時にICAも設立。


企業理念(公式): 「接続による人類の進化と調和(CONNECTING HUMANITY FOR EVOLUTION AND HARMONY)」。

人間の知的能力とコミュニケーション能力を拡張し、より良い社会を実現することを目指す。


創業者・主要人物: イーロン・マスク(初期設立者、現在は経営には関与せず)、マイケル・ウォン(S.I.D.開発者、初代CTO、故人?)、カイル・マクガフィン(現CEO、元NEURALINK技術者)、山城(現ICA局長、元IIASDM理事?)、その他多数。


「マイケル・ウォン…故人?」私はその記述に気づいた。

「彼はどうなったの?」

『公式には、2045年に研究中の事故で死亡したと発表されています。

しかし、その死については様々な憶測があり、真相は不明です』

「…そう」何かが引っかかる。

SIDの開発者、マイケル・ウォン。

彼の死もまた、何か大きな謎の一部なのかもしれない。


『SIDCOMは、表向きは人類の進歩と調和を掲げる巨大テクノロジー企業です。

そのサービスは社会に不可欠なものとなり、莫大な利益と影響力を持っています。

しかし、その成り立ちにはIIASDMのような基礎科学研究機関が深く関与しており、単なる営利企業とは言い切れない側面も持っています。

ICAとの関係性も含め、その真の目的や活動内容は、依然として多くの謎に包まれています』

ウェルテルの説明を聞きながら、私は改めて事の重大さを認識していた。

SID、SIDCOM、ICA、そして霊子。

これらはすべて、複雑に絡み合っている。

そして、その中心に、この桜花学院があるのかもしれない。


(いったい、この学院で何が行われようとしているの…?)

もし、生徒たちのSIDの不調が、単なる故障ではなく、ICAやSIDCOM、あるいはそれ以外の何者かによる意図的な干渉だとしたら? ジェンキンス先生の失踪も、その計画の一部? 考えたくはないが、可能性として排除することはできない。


「ウェルテル、もし…もし、生徒たちのSIDが、外部から不正に操作されているとしたら、どんなことが起こりうる?」

『理論的には、様々な可能性があります。

軽微なものであれば、パフォーマンスの低下や、誤情報の表示。

深刻なものであれば、感情の増幅や抑制、記憶の改竄、価値観の強制的な書き換え、そして最悪の場合、精神の崩壊や、外部からの完全なコントロールも…』

「…コントロール」その言葉の響きに、私はぞっとした。

もし、そんなことが可能だとしたら、それはもはや個人の尊厳を踏みにじる、許されざる行為だ。


『ただし、岡崎先生。

SIDには多重のセキュリティプロテクションが施されています。

特に、他者の意識への直接的な侵襲や、本人の同意なき操作は、技術的にも倫理的にも極めて困難であり、厳しく制限されています。

ICAの存在意義の一つも、まさにそこにあります』

「でも、不可能ではない、ということでしょう?」

『…ゼロ、とは言い切れません。

特に、未認可のOSや、違法なアプリケーション、あるいは…未知の技術である霊子が関与している場合は』

やはり、霊子。

それが鍵なのかもしれない。

だが、私には何もできない。

ICAのエージェントである常楽院雛子に任せるしかないのだろうか。


その時、学院長室の扉が静かに開き、常楽院さんと、そして斎藤くんが出てきた。

斎藤くんの表情は…読めない。

先ほどまでの挑戦的な光は消え、どこか呆然としているようにも、あるいは、何か新しい確信を得たようにも見える。


「岡崎先生」常楽院さんが私に声をかけた。

「斎藤くんとの面談は終わりました。

いくつか確認できましたが、やはり、より詳細な調査が必要です。

次は、坂本直行くんをお願いできますか?」

彼女の口調は、相変わらず冷静だった。

だが、その瞳の奥に、先ほどはなかったはずの、微かな光が宿っているように見えた。

彼女は、斎藤くんとの対話、あるいは彼の意識へのダイブを通じて、何か重要な手がかりを掴んだのかもしれない。


「…はい、すぐに連れてきます」

私は頷き、再び廊下へと歩き出した。

斎藤くんが、私とすれ違う。

彼の視線は虚空を彷徨い、私の存在に気づいていないかのようだった。

彼のSIDの中で、いったい何が起きたのだろう。


(見えないノイズ…それは、私たちの意識の、すぐ隣にあるのかもしれないわね)

そんなことを考えながら、私は坂本くんのいる教室へと向かった。


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