静かな雨、変わりゆく都市
音もなく、灰色の雨がアスファルトを濡らしていた。
西暦2058年、秋。
都市の風景は、ここ十年で驚くほど静かになった。
それは単に自動車が内燃機関から電気モーターへと置き換わり、走行音がほとんど聞こえなくなったからというだけではない。
もっと根源的な、都市を満たす「情報」の質が変わったからだ。
かつて空を覆っていた巨大な広告看板――極彩色の映像を垂れ流し、喧噪を撒き散らしていたデジタルサイネージの類は、もうどこにも見当たらない。
代わりに個人の視界に直接流れ込む情報が、見えない川のように街を満たしている。
ネオンの洪水は過去のものとなり、今はパーソナライズされた光の粒子が、雨粒のように人々の網膜に降り注ぐ。
誰もが自分だけの情報繭に包まれ、街を歩いている。
エドワード・マイケル・ジェンキンスは、研究室の窓から、雨に煙る福岡の街並みを眺めていた。
89歳。
来年には学校が定めた90歳という、この長寿の時代にあってもなお一つの区切りとなる年齢を迎える。
教師として教壇に立ち続けて、もう60年以上になる。
その大半をアメリカで過ごし、人生の黄昏時を迎えたこの時期に、縁あって日本の、それも九州のこの地で教鞭を執ることになるとは、若い頃には想像もしていなかった。
彼が生まれた1969年は、人類が月に降り立った年であり、インターネットの原型が産声を上げた年でもあった。
それから約60年。
世界は、彼が子供の頃に夢想したどんなSFよりも、奇妙で、そして静かな場所になってしまった。
特にこの20年ほどの変化は凄まじかった。
SID――SYNAPTIC INTERFACE DEVICE。
思考を、意識を、直接ネットワークに接続する生体侵襲型ブレイン・マシン・インターフェース。
それが一般に普及し始めてから、世界は文字通り「解像度」を上げた。
人々は五感を超えた情報をリアルタイムで受け取り、共有する。
言語の壁は低くなり、知識の集積と伝達の速度は指数関数的に増大した。
もはやSIDなしで現代社会を生きることは、裸眼で顕微鏡の世界を覗こうとするようなものだ、と誰かが言った。
だが、ジェンキンスはその流れに乗らなかった。
彼はアンプラグド――SIDを装着していない少数派の一人だった。
理由はいくつかある。
一つは、単純な恐怖。
自らの脳に、外部の機械が、ナノマシンが侵入し、思考や記憶に直接アクセスするという概念そのものへの生理的な抵抗感。
食い物にカビが生えている様子をどうしても連想してしまうのだ。
もう一つは、教師としての矜持。
知識とは、情報とは、人間が自らの感覚と理性で咀嚼し、獲得していくものだという信念。
そして、もう一つ…心の奥底に仕舞い込んだ、個人的な、そして痛みを伴う理由。
今は亡き、かつての恋人、レオの記憶と分かちがたく結びついた理由だ。
窓の外の雨脚が強まった。
ガラスを叩く音が、静かな研究室に響く。
ジェンキンスは息をつき、古びた革張りの椅子に深く腰掛けた。
今日の放課後、一人の生徒と会う約束をしていた。
王梓、皆からは親しみを込めてシャオ・ツー(小梓)と呼ばれている少年。
桜花学院中等部の二年生だ。
桜花学院。
日本の新たな中心地となった福岡市郊外に位置する、全寮制の中等部と高等部からなる私立の学園組織だ。
創立は古く、20世紀初頭に遡る。
この学院が今も存続しているのは、ある特殊な層からの強い支持があるからだ。
彼らは自らを「バンディズム(血族主義者)」とは呼ばないまでも、血脈や家柄といった、前時代的とも言える価値観を重んじ、それを次世代に受け継がせることを至上命題としている。
SIDが普及し、知識や経験すらデジタルデータとして他者に「継承」できるようになったこの時代にあって、彼らの存在はアナクロニズムそのものだったが、富と権力を持つがゆえに、その主義を貫くことができた。
この学院では、生徒たちは14歳になるとSIDの装着を推奨される。
それまでに徹底した基礎教育――ジェンキンスのようなアンプラグドの教師が得意とする、ローテクだが人間的な知性を鍛える教育――を受けさせ、その上で最新のテクノロジーを与える。
それが学院の方針だった。
SIDの能力を最大限に引き出すには、強固な基礎知識と論理的思考力、そして精神的な成熟が必要だと考えられていたからだ。
ジェンキンス自身も、その点には同意していた。
AIは万能ではない。
使いこなす人間の知性が問われる。
その意味で、彼の仕事にはまだ価値があった。
シャオ・ツーは、そのSID装着のための試験に、なかなか合格できなかった生徒の一人だった。
中国系の裕福な家庭の養子である彼は、どこか掴みどころがなく、他の生徒たちとは少し違う雰囲気を纏っていた。
内気で、物静か。
だが、時折見せる瞳の奥には、年齢にそぐわない深い知性の光と、そして微かな影が宿っているようにジェンキンスには見えた。
その彼が、先日ようやく五回目の試験で合格し、SIDを装着したばかりだった。
そのシャオ・ツーが、昨日の授業の後、珍しく自分からジェンキンスに話しかけてきたのだ。
「先生、僕のファミリア、フロイドを紹介したいんです」
少しはにかんだような、それでいて誇らしげな響きを伴った声だった。
ファミリア――SIDユーザーに割り当てられる、パーソナルAIアシスタント。
ユーザーの好みに合わせて、その姿や性格を自由に設定できる。
シャオ・ツーが選んだのは「フロイド」という名前の、ある古い映画の登場人物だという。
「フロイドって、あの『トゥルー・ロマンス』のかい?」
ジェンキンスが尋ねると、シャオ・ツーは嬉しそうに頷いた。
1993年公開。
タランティーノ脚本、トニー・スコット監督。
ジェンキンスも若い頃に見た記憶がある。
ブラッド・ピットが演じた、ソファに寝そべってマリファナを吸い続ける、ほとんど台詞のない、しかし強烈な印象を残すキャラクター。
それをファミリアに選ぶとは、シャオ・ツーの感性はやはり少し変わっているのかもしれない、とジェンキンスは思った。
「ええ。
彼は素晴らしいし愛らしいんだけど、ちょっと馬鹿っぽいところもあるんです。
クラスの友達にはいないようなタイプだけど、ファミリアとしての能力はちゃんとあるから大丈夫なんです」
シャオ・ツーはそう言って笑った。
その笑顔は、年相応の無邪気さを含んでいた。
ファミリアは、ユーザーの精神的な相棒であり、世界の拡張でもある。
彼がフロイドという存在を通じて、どのように世界と接続していくのか、ジェンキンスは教師として、そして一人の人間として、純粋な興味を抱いたのだ。
それで、今日の放課後、研究室で会う約束をした。
ファミリアの姿を見るには、SIDネットワークに接続されたAR環境が必要だ。
アンプラグドのジェンキンスは、学院から支給されている非侵襲型のARグラスを使うしかない。
性能は劣るが、ファミリアの姿をぼんやりとでも捉えることはできるはずだった。
だが、約束の時間を一時間以上過ぎても、シャオ・ツーは現れなかった。
窓の外は、いつしか雨が小降りになり、灰色の雲の隙間から、弱々しい西日が差し込んでいる。
街のビル群が濡れたシルエットを夕空に浮かび上がらせていた。
「どうしたのだろうか…」
ジェンキンスは椅子から立ち上がり、部屋の中をゆっくりと歩いた。
壁には古い世界地図と、彼が趣味で飼っている熱帯魚の水槽が並んでいる。
色とりどりの魚たちが、静かに水中を舞っていた。
彼らを眺めていると、少しだけ心が落ち着く。
レオも魚が好きだったな、とふと思い出す。
彼が作った魚の彫刻は、今もジェンキンスのアパートに飾ってある。
その時だった。
不意に、研究室のドアが開いた。
音もなく。
まるで最初からそこにいたかのように、シャオ・ツーが立っていた。
いや、本当にシャオ・ツーだろうか? いつもの彼よりも少し背が高く見える。
表情も違う。
硬質で、感情が読み取れない。
そして、その隣。
ジェンキンスは息を呑んだ。
シャオ・ツーの隣に、もう一人、立っていた。
長身の、しかしどこかだらしのない雰囲気の男。
ブロンドの長髪を無造作に束ね、よれたTシャツと穴の空いたジーンズ。
間違いない。
それは映画で見たフロイドの姿そのものだった。
だが、ありえない。
ジェンキンスはアンプラグドだ。
ARグラスも掛けていない。
ファミリアの姿が見えるはずがないのだ。
幻覚か? しかし、その存在感はあまりにもリアルだった。
質量を感じる。
空間を確かに占めている。
フロイドと名乗るであろうその男は、ジェンキンスを値踏みするように見つめ、片方の口角を歪めて、にやりと笑った。
「こんなことがあるはずがない!」
ジェンキンスは思わず声に出していた。
自分の理性が、目の前の現実を拒絶している。
世界が、自分が知っている物理法則が、音を立てて崩れていくような感覚。
フロイドが、ゆっくりと一歩、ジェンキンスに近づいた。
その動きには、AR映像特有の軽やかさも、プログラムされた動作のぎこちなさもない。
まるで生身の人間のように、しかし人間ではない何かが、そこにいた。
「よう、爺さん。
シャオ・ツーがお世話になってるみたいだな」
声も、映画で聞いたそれとは違う。
もっと低く、響く声。
そして、その声は鼓膜を直接震わせている。
「あなたには見えているはずだ」
フロイドが囁いた。
その言葉は、音波としてではなく、直接ジェンキンスの意識に流れ込んできたかのようだった。
ジェンキンスは後ずさった。
背中が冷たい壁にぶつかる。
心臓が激しく波打ち、呼吸が浅くなる。
これはなんだ? SIDの電波が漏洩している? それとも、何か未知の現象が起きているのか?
「なぜ…なぜ君が見えるんだ? 私はアンプラグドだぞ!」
フロイドは肩をすくめた。
その仕草さえ、妙に生々しい。
「さあな。
俺にもよくわからん。
だが、あんたが特別だってことは確かだ。
シャオ・ツー、そうだろ?」
フロイドが隣の少年に視線を送る。
シャオ・ツーは無表情のまま、小さく頷いた。
その瞳は、もはやジェンキンスが知る少年のものではなかった。
冷たく、計算高く、そして何か恐ろしい決意を秘めた光を宿している。
「先生」シャオ・ツーが口を開いた。
「少し、協力していただきたいことがあるんです」
「協力…だと?」
次の瞬間、フロイドがジェンキンスに向かって両手を突き出した。
その指先から、黒い霧のような、あるいは青白いプラズマのような、名状しがたいエネルギーが放たれた。
ジェンキンスは身動きが取れなかった。
見えない力に体が縛り付けられている。
「これは特別なSIDなんですよ」
シャオ・ツーの声が、遠くなる意識の中で響いた。
黒い霧がジェンキンスの頭部を包み込む。
視界が、急速に変化していく。
今まで経験したことのない情報が、洪水のように脳内へ流れ込んでくる。
世界の解像度が、無限に上がっていくような感覚。
原子の振動、空間の歪み、時間の流れさえも、まるで掌で転がすように感じられる。
万能感。
そして、それと同時に襲ってくる、自己という存在が溶解していくような恐怖。
細胞が、微細に振動を始めている。
自分の身体が、指先から、足元から、ゆっくりと光の粒子となって霧散していくのがわかる。
「これは…もしかしたら…」
意識が途切れる寸前、ジェンキンスは思った。
「自分は、死につつあるのではないか?」
その問いへの答えを得る前に、エドワード・マイケル・ジェンキンスの姿は、研究室から完全に消え失せていた。
後に残されたのは、微かに揺れる熱帯魚の水槽と、床に落ちた一枚の古い楽譜だけだった。
窓の外では、雨が再び降り始めていた。