“Happy Ending Roll”
“Forget me not”
「あの子」がノートに挟んだ遺書。
はじめに一つ断っておこう。これはまぎれもなく遺書なのだが、私にとっては創作である。
それが証拠に、財産分与などを指示するつもりは毛頭ない。というか、学生の身分で分けるほどの財産もない。それでも一応、持って行けない私物たち(もといガラクタ)は分別しておいたのでそれぞれごみの日に出して下さるようお願いしておく。
私がこれを書こうと思ったのは、死生観を語りたくなったからだ。理解して欲しくは無いのだが(同じ道をたどられても困る)、こういう人間もいるということを、頭の片隅に知ってもらえれば良いと思った。
中学生に上がり、初めて自殺と言うものを知った。ニュースなどで見るその言葉を、理解できたのがその頃だ。
私はそこに、ある種の理想を見た、と思う。人生をかける目標が、満足して「死ぬこと」になったほどだから。
はじめ、どういう心理なのかと思った。きっと筆舌に尽くしがたいことが様々あって、ほかの道が考えられなかったのだと思う。彼らはある種、自殺させられたのだとよく言う。
では、その人は哀れなのか?
私はこれが問いたい。確かに幸福な決断ではあるまい。私だって、なるべくなら選んで欲しくはない。だが、思い悩み、思考をかさねて選んだ道を、赤の他人に可哀想がられる筋合いがどこにあるだろう?誰よりも振り絞ったであろう勇気と決断を、誰も労ってはくれないのだろうか?
決断は、いつも苦悶とその後の爽快感を引き連れて来る。「吹っ切れて」から行動にうつすまで、あるいは脚が地を離れてふたたび引き戻されるまで、決断という大仕事を終えた彼らはきっと清々しかろう。たとえば卒業式の直前のように。どうせもう終わりだからいいや、と思って悩まない。それに近いものを想像した。
こればかりは飛び降りた人にしかわからない。飛び降りるまでにはいろいろなブレーキがあって、いまだ一線から遠い私は見下ろすだけでも足がすくんだ。生きていれば、本能だの感情だの人とのつながりだのなんだのと執着するものが本当にたくさんある。
想像してみて欲しい。仮に明日死ぬとしたら、心残りが山ほど出てこないだろうか。家族のこと、友人のこと、恋人、財産、叶えていない目標や夢。行きたかった場所、見たかった映画、食べたかったもの、云々。驚くほど雁字搦めだ。数えあげるだけで明日になってしまう。これらブレーキは、いくつ越えれば微笑んで死ねるだろうか。
死ぬことは良くないこと。生き続ける事は良いこと。中学生だからかそういう正論がよくわからなくて、認めてはいけないけれど、超えて行ってしまった人の選択や勇気やそういうものを受け入れることすらいけないのかと。それだけ戦った人をなぜさらに責めるのかと。自殺者は地獄に行くなんて吐く者は人じゃない。なぜ、死後の世界でさらに苦しめと望むのか。
仏教に絡めたつもりはないが、執着することがしんどいことには気づいていた。でも私は根が変に生真面目だから、成績とか人からの評価とか、どうでも良いことが怖くて捨てられなかった。息が苦しくて、自分でも気分の浮き沈みが把握もできなくて、体を壊した。胸につかえた何かを全部取り出して、捨ててしまえたらといつも思っていた。
私の得意な事や好きな事は何の役にも立たなくて、求められることは殆ど苦手だと知った。イメージを捨てて現実を見て、内向を止めて社交性を装い、人見知りをやめて愛想を振りまいた。感情に振り回される側の人間だと思っていたが、本当は人の気持ちが分からないことを知った。
そうするうちに擬態ができるようになって、それでも努力は足りなくて、ボロが出なくなるには何年かかるかもわからない。その場所にいるだけで、エネルギーを使い切ってしまう。頭が働かなくなる。覚えていられなくなる。やめた事は思ったよりも私の中心にあって、始めたのは一番苦手なこと。
少しずつ、少しずつ形が変わっていく。息が詰まっていく。
太宰治は、旅に出る理由を「苦しいから」と答えた。私もきっといつの日か、あるはずのない居場所を求めて旅に出る。答えの知れた旅に出る。残っているすずめの涙みたいな財産や買い漁った持ち物をみんな処分して、私は元の形に戻る。そうしたら完全にあぶれてしまうだろう。
忘れてしまった素顔をみとめ、空を仰いで私は飛ぶのだ。
冒頭、私は少し嘘をつきました。でももうお分かりでしょう。
私は自殺することが夢でした。
「生きたいけれど生きられない」、これほど苦しいことはない。どう足掻いても生きられないなら、生きたいと思うこと自体捨て去るしかないのです。
けれど、決してネガティブな意味ではありません。私は「殺される」のではない、死ぬのです。私が主語です。能動態です。一切の執着を捨てられた時が、人生最高の幸せだと思うから。絶望ではなく幸福の中で、その日一番好きな服を着て、一番好きな姿で、一番好きな飛び方で笑って死ぬこと。誰もいないところで世界に満足して、幸せだと笑って死ぬこと。それが人生の目標でした。
真剣に死のうとするやつは気違いだと言うのなら、それでも構いません。これが私の正気なのです。初めから私は狂っています。私は初めから、生き抜く気力のない、弱い、出来損ないの廃人です。初めから人間に失格しているのです。だから理解しないでください。これは危険な文章です。理解することに呪いがかかっている。あなたをきっと堕落させ、おかしな夢を見せてしまう。だからこれは戯れです。ユーモアを解さない人間の、ただの悪趣味な冗談なのです。嘲笑してください。こちらに来ないでください。死ぬことに憧れを抱くやつは、死に方までろくでもないのですから。
これを書いているときには、まだ執着が捨てられずにいますが、本当に私が死んだなら、それは悲劇ではなく、夢を叶えたということです。
ありがたいことに、選ばずに歩んできた道など私にはありません。選び、取った夢が叶ったことどうか祝福してください。
死後の世界なんて、なければいいと思っています。現世の苦しみが、彼方でも続くとしか思えないから。けれど、魂になったら、大切な人たちの守護霊になりたいとも思っています。彼らが悩んだとき静かにあらわれて、不思議な力でそっと背中を叩く。そんな幽霊になりたいと思います。
本当は、どうなのでしょう。私はこれから、どこへ行くのでしょうね。
私の書いた、この危険で未熟なエッセイがあなたの世界を少しだけ大きく広げ、わずかでも幸をもたらすことを願います。
“空が綺麗なので、飛び降りようと思います”
いつかそう言って、笑って地を蹴れる日まで。
「祈る」という状況が嫌いです。
無力感のあとから生まれるものだと思うから。
でも「祈る」という行為は好きです。
何もできないことが分かっていても、誰かのために何かせずにはおれないということだから。とても美しい精神の発露だと思います。
大人にならずに飛び降りてしまったあの子が、どうかこんな思いでいたように、未熟ながら祈っています。