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無能な上司と”使える”部下

 有能な社員、というと、どういう人物を思い浮かべるだろうか。一般によく言われるのは、業務知識が豊富で、マネジメント力があり、コミュニケーション能力が高い、任された業務をきちんとこなせる、などだろうか。

 こうした”有能な社員”を、端的に形容した言葉が、多くの人々の間で口にされているのだが、何だかわかるだろうか。

 ”使える”という言葉だ。アイツは使える、などと、少々上から目線で言われることが多い。また、まったく使えないヤツ、などと否定的にも使用される。

 この様に、日本人にとっての優秀は人間というのは、多くの場合、目上の者に使われることが上手い人間、ということになる。そういうと、卑屈に過ぎるだろうか。

 アイツは使える、などという言葉を使うものは、大抵その相手に、仕事を丸投げにすることが多い。そうした仕事もこなしていくことで、一目置かれて出世したり、その環境に飽き足らず独立したり、当人にそんな気概が無いと、便利屋の如くこき使われてしまったりもする。


 どちらにしても、有能な人間というのは、その人自身が依頼に基づいて業務をこなす能力が高いことを言うことが多い。他人に指図して上手く仕事を回す人物が有能とされることもあるが、その場合でも、本人自身が単身で仕事をこなす能力が高いことが前提である。

 なかでも、理不尽とも思えるような上司の命でも、粉骨砕身、わが身を顧みずにこなして見せるような人物も現れたりする。いわゆる昭和の時代に言われた、”モーレツ社員”というやつである。

 こうしたモーレツ社員がその働きを認められて、昇格して部下を持ったらどうなるのだろうか。その人個人の能力は高いだろうが、部下を育てたり、適切な指示をだすような資質も備わっているかどうかは、その人次第、というか、あまり期待はできないだろう。

 そもそも、自分で仕事をこなす能力と、他人を指導したり指揮する能力は別物である。スポーツでよく、『名選手、必ずしも名監督ならず』ということが言われる所以だ。


 個人の能力は、その人自身の才能と努力で引き上げることが可能だろう。しかし、指揮したり、指導したりと言った人を動かすという能力は、単身では身につかない。当然、他者、集団の中で発揮されるものなので、そうした中で培われていくものだ。だが、そうした能力は、学校などでの教育現場ではほとんど行われていない。学級委員や生徒会、授業の中でのグループ活動はどうか。それらが指導者としての資質を高めるために有効であったかどうかは、学校生活を送ってきただろう諸氏には自明のことだろう。

 リーダーのための学校教育などは、私の知る限りでは公立の学校では特に行われてはいない。企業に於いては、幹部候補生などとして育成を行ったりしている企業もあるだろう。ただ、入社する前に、そうした資質を見分けられているかどうかは、私としては正直怪しいと思っている。


 とはいえ、ここでは、リーダー教育の是非を問おうとは考えていない。リーダーに相応しい人材とその教育が必要だということは広く認知されているはずだが、単に仕事ができる、上司の覚えがめでたい、等の理由だけで資質を問わずリーダーの椅子に座る(または座らされる)者がいるというミスマッチを問題として考えたい。

 リーダーの資質を持つ者など、もとよりそんなに多くは存在していない。単にカリスマ性があればいいというものではない。横暴なお山の大将では下が苦労するだけである。とはいっても洋の東西を問わず、こういうタイプがリーダーとなって会社を起業したりすることが多いようではあるが。


 先に言ったように、有能な社員が昇格して部下を持った場合、その社員にリーダーの資質が無いとどうなるか。大抵の場合は、その社員の部下が離反したり、業績が悪いなどの特段大きな問題を抱えていなければ、特に問題にされることもないだろう。部下の資質など気にせずに仕事を割り振ったり、丸投げしたりは珍しいことでもない。その場合、仕事が上手くいかないのは、部下の責任となることがほとんどである。仕事を投げた上司の側は、そういう仕事を自分はこなしてきたという認識があり、それぐらいはできるだろう、出来ないと困る、という意識を持つ者が多い。


 目上の者の命令は絶対、下された命令を遂行するのは責務である、という労働者が多くいる環境では、上に立つ者は、いかなる命令も下せるし、それがうまくいかない場合は、命令を受けて、実行した側の責任とされやすい。理不尽な命令であったとしても、引き受けた限りは受けた側の責任だ、という論理である。失敗した場合は、出来ないのなら引き受けなければ良かったのだ、とあくまで実行者に責を負わせようとしたりもする。そうした考えは、自分に降りかからない限りにおいて、部下同士、同僚の間でも共通認識であったりする。


 こうした上司の元で仕事をうまくこなしていくことができた者はどうなるのか。大抵はその上司と同じく、昇格して部下を持ったりするだろう。その時にリーダーの資質があるかどうか。まず、多くの場合、同じような上司が量産されていくことになるのではないだろうか。

 日本において仕事ができる人間、というものは、多くはこうした与えられた仕事をこなす能力に長けた、言い換えると人に使われる能力が高い人間であって、人を使うことが上手い人間ではない。人を使うことが上手い、マネジメント力のある人間が重要視されていないという意味ではなく、身近にいる優秀といわれる人物の多くはそういう人間、というだけである。


 ※こうした”有能な社員”をカリカチュアしたSF小説がある。『思い上がりの夏』(眉村卓・著:角川文庫)にある、『島から来た男』という一遍である。特殊能力とまで言えるほどに、”人に使われる”ことに秀でた人物が出世の末に迎える悲喜劇を描いた短編だが、この作品に描かれた内容は、多かれ少なかれ日本の企業で起こっている事かもしれない。インサイダー文学を標榜した眉村卓ならではの作品と言える。絶版となってしまっているが、機会があれば一読をお勧めする。


 ここまで労働者側を見てきたが、一社員としてみれば有能だったとしてもそこから上司の立場に立った途端に無能、とまでは言わずとも、有能とは言い難い人物に早変わりすることを見てきた。

 無能な上司、リーダーが多いと言われるのは、ひとえに、目上の者の命令は絶対、下された命令を遂行するのは、命令を受けた者の責務である、という不文律がまかり通っているからだろう。先に書いたように、上に立つ者は、いかなる命令も下せるし、それがうまくいかない場合は、命令を受けて、実行した側の責任とされやすくなり、理不尽な命令であったとしても、引き受けた限りは受けた側の責任だ、ということになる。

 こうして、無能で無責任なリーダーが誕生する。場合によっては、有能で無責任かもしれないし、無能でも責任感には溢れているかもしれない。それは、その人物の資質によるが、無能で無責任なリーダーが存在できるという、欠陥を抱えたシステムということなる。

 有能で責任感の強いリーダーが望ましいのは言うまでもないが、そういう人物がその地位に付くかどうかは、運任せでしかない。


 無能であってもリーダー、目上の者であれば許されてしまう構造は、教育の場で培われた倫理観だと言ってきたが、それがもっとも端的に現れているのは、体育会系の部活動だろう。

 伝統的に、学年が一つ違うだけで、身分が違うかのような扱いになっていて、上級生であれば、人間性に問題があっても、というかそういう人間ほど理不尽な行いを下級生に対して行うことが多いだろう。そして、それが許されてしまう。昨今では、こうしたことも虐めとして問題になることが多くなってはいるが、そうして未だにニュースとして扱われるということは、こうした構造が21世紀に入って四半世紀は経とうとしている現在でも変わらず残っているということだ。

 そして、この構造は、企業や政治、その他多くの場でも、学閥という形でそのまま持ち上がって、広く世間に浸透している。学閥、などと大仰な言い方をしなくとも、人間関係の濃厚な地方などでは、卒業した学校での上下関係がそのまま持ち込まれたかのような職場なども存在していることだろう。

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