教育と儒教とプロテスタント
日本の教育については、江戸時代の寺子屋の頃には、一般市民にまで教育が行われていたことは確かである。内容は、読み書きそろばん、という言葉があるように、文字の読み書きに、算術という、今で言うところの算数、四書五経などの儒教などであったようだ。
算術などに関しては、町民などの子女でも今の中・高校レベルの数学に相当する内容のものを学んでいる者まで存在していたらしい。
とはいっても、昨今、江戸時代の識字率は、当時世界一であった、などというネット上の記事や、動画などが少なくない数で見られ、中には、江戸末期には識字率は一般庶民でも8割程に達していた、という話がまことしやかに語られているが、本当にそうだったのだろうか。
これは、寺子屋などの数から、当時の人口でおそらく8割くらいは通っていただろうから、寺子屋に通う限り、読み書きはできたはずだ、という推測に過ぎないようだ。
仮に、江戸という当時の大都市ではそうだったかもしれないとしても、地方の農村ではどうだっただろうか。寺子屋の存在しない農村部もあったことだろう。
明治期にある地方で識字率の調査が行われて、自分の名前が書ける者は65%ほどであったという。名前が書けるからと言って、それで文字の読み書きができる、というのは早計にすぎるだろう。それに、この調査は男子のみであったようで、女子はさらに低いことも分かっている。
21世紀現在でも、図書館・博物館、大学などの教育施設が多く集まっている都市と、そういうものが存在しない地方では、教育格差というものが存在する。江戸時代ともなれば、それは今よりも大きかったことは想像できる。
教育らしい教育が行われていなかった農村部だと、親や祖父母等から口伝でおそわる民間信仰がその役割を果たしていただろう。社寺は各農村にも存在していたので、仏教説話や、親孝行などに見られる儒教的な教えも伝えられてはいただろう。
江戸時代から、明治に至り、学校教育が、富国強兵というスローガンのもと重要視され、教育政策が進められていく。西洋の教育制度などを取り入れ、旧来の儒教に基づく教育を排除しようとする者と、道徳教育的な観点もあってそれを残そうとする者とで駆け引きもあったようだが、道徳教育については、『修身』として教えられていくことになる。
戦後に、『修身』は軍国主義教育とみなされて廃止されたが、その後、『道徳教育』として復活している。
日本人の一般的な道徳観念には、儒教の教えが強く影響しているが、一般には次のようなものになるだろう。
五常(五徳)
仁・義・礼・知・信
仁・・・他者への情、慈愛
義・・・正義や道徳的な行い
礼・・・社会的儀礼や行儀作法
智・・・知恵や理性、知性
信・・・信頼や誠実さ
五倫
親・義・別・序・信(義・親・別・序・信とも)
親・・・父と子の関係
義・・・君主と臣下の関係
別・・・夫婦には別々に役割がある
序・・・目上と目下、老人と若者の関係
信・・・友人・同輩、仲間同士の関係
ネット情報だと五常と五倫が同一などとするものもあって、少々混乱してしまうところもあるが、五常が個人の徳目とすれば、五倫は他者との関わりについての項目といえるだろうか。
余談だが、五常に、忠・孝・悌を足すと八徳となって、『南総里見八犬伝』の玉のネタとなる。私は子供のころにテレビの人形劇などを見ていたので、儒教の五常より先にこちらは知識として知っていた。
この他に、「和を以て貴しとなす」という、言葉にあるように、調和や秩序を重んじる思想もあるが、これは儒教が元にあるようである。多くの場合、”集団の”調和や秩序を重んじる、という解釈が多いだろう。和を乱す、ということは、忌避されるものであり、そういう人物は集団の中で否定される人物となる。
この五常と五倫は、現在でも、日本人の意識、倫理観を左右していて、学校・会社・一般世間で生活していく上での常識となっている。特に、五常の『義』『礼』は、様々なマナーなどと絡んで、事件・事故などが起こった際のニュースに対する人々の反応に強く表れている。
日本人の礼儀正しさや誠実さは、外国人旅行者が落し物が返ってくることに驚いているように、美徳として見られることが多い。
五常に五倫も、働く際の職場などでの倫理的な規範となる思想ではあるが、直接労働にかかわるような言及は無い。労働と言う、個人の生活と社会との関わりに密接に関わるものは、教育の場でも重要となるだろうから、『労働神事説』からくる、労働崇拝とでもいう考えは、学校教育とどう絡んでくるだろうか。
小学生のころに、将来どのような職業に就きたいか、というアンケートなり、作文なりを書かされた人は多いだろう。毎年のように、『小学生が将来なりたい職業ベスト10』等と言ったニュース記事を目にするくらい、どういう職業に就くか、ということは重要なこととされている。人としてどのような人物であるか、よりもどのような職業に就くかが重要とされているようだというのは、言い過ぎだろうか。
こうした労働観は、西洋から学校教育制度を輸入した際に、プロテスタント的な労働観、天職などという思想とは相性が良かったことだろう。
自分が就きたい、好きな職業に就いて、そこで活躍することが出来たりすると、天職に就いた、とか言われたり、特に好きな職業でなかったとしても、後々やりがいや生きがいをその仕事に感じたりすると、天職だった、などと言ったりもされる。
そうした『天職』に就くことは素晴らしいことであり、また、望んだ職に就けなかったり、そういった意識がもてなかったりしても、自分の意識を変えることにより、天職たり得る、という、宗教的な思想とも言える言及は、教育の現場でも良く語られるし、成人して働き始めた人が、職業に関する不平や不満を相談者に吐露した際に、よく返答として伝えられるものでもある。
こうしてみてくると、働くこと自体は素晴らしい、意義のあることであり、働くこと、働ける事自体が幸福であるとする考えまでに至ることもある。
教育の現場では、労働、仕事、職業は礼賛されるものであり、そこに暗い影など無いかのようだが、現実の世界ではどうだろうか。