9.栄養のある食事
「美肌のためには十分な栄養が必要となります。というわけで、毎日三食。しっかりと召し上がってください」
「……これはすべて、私の分ですか?」
テーブルに並べられた料理の数々を見て戸惑う私に、マリーは「はい」とはっきりとした口調で言い切った。
牛の頬肉と根菜のデミグラスソース煮込み。
新鮮な葉野菜と果物を使ったサラダ。
人参を摩り下ろして作ったポタージュ。
数種類のジャムが添えられた丸いパンが数個。
デザートは桃のシャーベットだった。
どれもこれも、街のレストランでは大金を支払わなければ食べられないような料理ばかり。
牛肉にナイフを沈めてみれば、その身は驚くほどに柔らかい。一体どれだけ煮込んだのだろう。
口に含むと、ソースの濃厚かつ複雑な味わいと牛肉の旨みが舌の上に広がった。
「お、美味しい……こんなに美味しい牛肉は初めて食べました」
感動のあまり、涙が零れそうになる。
もちろん、サラダやポタージュも美味しい。
ジャムはブルーベリー、林檎、そして青ピーマンの三種類。
焼きたてでふんわり柔らかいパンに、それぞれ味も食感も異なるジャムを載せて食べていく。
シャーベットも甘さが控えめで食べやすく、あっという間に完食してしまった。
「アニス様は普通の女性に比べて、少々痩せていらっしゃいます。なので体重も徐々に増やしていきましょう。これに関しては、肌云々以前の問題です」
自分の健康のことなんて、今まで気にしたこともなかった。
「このままだと、いつか倒れてしまいますよ」
マリーがふう、と大きな溜め息をつく。
心配しているような、呆れているような表情の彼女を見て、私は申し訳ない気持ちになった。
「初日からこんなにご迷惑をおかけしてしまい、何とお詫びを申し上げたらいいのか……」
「形だけの関係と言えども、ユリウス様と結婚なさるのです。この程度のことはさせていただきます」
「……ありがとうございます」
そう言って食後の紅茶を飲んでいると、黒髪の男が広間にやって来た。
そして私の顔を見詰めてから口を開く。
「顔色が随分とよくなったな。目の下のクマも、いくらか薄くなった気がする」
「入浴とマッサージで血行がよくなったおかげでしょう。この調子でいけば、彼女本来の美しさも取り戻せるかと」
マリーが腰に両手を当てて誇らしげに言う。
……本来の美しさとは?
その言葉に首を傾げていると、ユリウスはいつの間にか姿を消していた。
まあ私がどんな見た目になろうが、彼には関係のないことだ。
翌日私はマリーが起こしに来るまで、ずっと眠り続けていた。
いつもだったら、とっくに目を覚ましている時間なのに。
「す、すみません、寝坊をしてしまいました!」
「いえ。睡眠をたっぷり摂るのはよいことですので」
ユリウスもマリーも思い切り甘やかしてくる。
嬉しいやら、恥ずかしいやら。
それはさておき、オラリア邸で迎えた初めての朝。
どのドレスを着ようか考えていると、マリーに「こちらをどうぞ」と畳んだ衣服を差し出された。
黒のロングワンピースに、白いエプロン。それからキャップと髪留めだった。
「使用人としてこの屋敷で働きたいとのことでしたので、ご用意いたしました」
「ありがとうございます、マリーさん」
「ですが、一つだけ気を付けていただきたいことがございます。あなたがアニス様であると、使用人たちに気づかれないようになさってください。自分の妻を使用人として働かせているという話が広がれば、ユリウス様の評判に関わります」
「はい。肝に銘じておきます」
それは昨日、馬車の中でユリウスからも説明を受けていたのだ。
……ん? だけどマリーには今の時点で身バレしているのでは?
そんな私の疑問を見透かしたように、彼女は自分を指差しながら言った。
「私はこの屋敷のメイド長です」
そういうことでしたか。