5.出発の朝
翌日、朝食を食べ終えて自分の部屋に戻ると、荷物を入れたトランクがなくなっていた。
慌てて探そうとすると、窓がうっすらと開いていることに気づく。
まさか……
窓から下を見下ろす。
私の衣服が、地面の上に散乱している。その傍らにはトランクが開いた状態であった。
「あ……」
そういえば部屋に戻る途中、数人のメイドがこそこそと話をしながら私を笑っていたと思い出す。
最後の最後で、こんな嫌がらせをされるなんて……
あと三十分ほどで、オラリア家からの迎えが来てしまう。
急いで外へ出て、服をトランクに詰め直していく。砂埃を払う余裕はない。
ドレスって綺麗に畳まないと嵩張るから、面倒臭いのに。
もういっそのこと、二、三着置いて行こうかな。
そんな考えが脳裏にちらついていると、視界の隅に誰かの手が入り込んだ。
その手はドレスを拾うと、パンパンと軽く叩いて砂を払ってから私に差し出した。
「これも君のものか?」
「はい。ありがとうござ……えっ」
「いや、このくらい構わない」
お礼を言いながら顔を上げると、黒髪の美丈夫と目が合った。
「ど……どうしてユリウス様がこんなところにいらっしゃるのですか」
「君を迎えに来たんだ」
大真面目な表情で返されて、呆気に取られる。
この人は、昨日自分が何を言ったのか忘れてしまったのだろうか。
「あなた……私には干渉しないと仰ったではありませんか」
「だがこれくらいは、最低限するものだろう」
「そうでしょうか……」
こんなこと、普通は使用人に任せるものだと思うのだが。
「それと、私を迎えに来る時間が少々早いかと」
「この家の庭園を散策してみたいと思い、早めに到着してな。そうしたら、こうして服を集めている君を見つけたのだが……何故こんなことになっているんだ?」
「……トランクを誤って窓から落としてしまいまして」
つい苦し紛れの嘘をついてしまう。
使用人から嫌がらせを受けているなんて、情けなくて知られたくなかったのだ。
「私の屋敷では、トランクを窓の近くに置かないように」
ユリウスは神妙な顔つきで言った。私の嘘を信じてくれたのか、それも嘘に合わせてくれただけなのかは分からない。
「アニス!」
服を全てトランクに詰め終えると、血相を変えた父が私たちへ駆け寄ってきた。
「お前オラリア公に自分の服を拾わせていたらしいな! 何という無礼な真似を……!」
使用人の誰かが父に告げ口したらしい。
これは徹底的に罵られる。
そう覚悟していると。
「ロートリアス男爵、彼女を責めないで欲しい。私は自ら進んで手伝っただけだ」
ユリウスが私を庇うように反論した。いや、実際そうなのだが。
「しかし……」
納得がいかない様子の父に、ユリウスは淡々とした口調で言う。
「これ以上、アニスへの理不尽な叱責はやめていただきたい。彼女はあなたの娘であると同時に、私の妻になる女性だ」
「オラリア公が、そのように仰るのであれば……。アニス、あちらの屋敷ではオラリア公にご迷惑をおかけしないよう心掛けるのだぞ!」
私が「はい」と即答すると、父は鼻で大きく息を吐いた。
ユリウスとともに馬車のキャビンへ乗り込む。
その座り心地のよさに驚くなか、馬車がゆっくりと動き出す。
少しずつ遠ざかっていく生家に、寂しさなどの感情は特に湧かなかった。
むしろかつてないほどの解放感があった。
だが今から行う交渉次第では、あそこに逆戻りしてしまう可能性が高い。
「ユリウス様、私から二つほど結婚する条件を提示させていただけないでしょうか」
「何だ?」
向かい側に座っていたユリウスにじっと見つめられ、緊張で掌に汗が滲む。
ええい、思ったよりも寛容な人っぽいのだ。きっと許してくれるだろう。
「まず一つ目。……私を使用人として、オラリア邸で働かせて欲しいのです」
私は人差し指を立てながら、そう要求した。