婚約解消しないといけなくなっちゃったんだ、と王子様は言った 〜女神メイベル爆誕、愉快な仲間たちを添えて。逆行の末、幸せに暮らしました〜
「ねぇ。メイベル。君との婚約を解消しないといけなくなっちゃったんだ」
「……はい?」
目の前の貴人は、いつも通り麗しくも可憐な様子でニコニコとしている。
メイベルは「あら、わたくしったら耳掃除し忘れていたかしら」と思った。
耳垢が溜まりに溜まって、一時的に難聴だったり幻聴だったり、よくわからないけれど、まぁともかくそういった聞き間違いをもたらしたのではないかと。
そうね。帰ったらサラに耳掃除してもらいましょう。
サラとは『メイベルお嬢様の美しさは王国一! 命に変えてもお守り申す所存です隊』隊長を称する、ちょっとヤベェ感じのメイベルの侍女である。
耳掃除などサラにさせれば、ハンカチに包んだ耳垢を聖物だと宝箱に仕舞い込まれそうだ。
メイベルはやはり、耳掃除は自分でしようと思い直した。
そもそもサラは侍女と自称しているが、本当に侍女であるのか疑わしい人物である。
というのもサラは、メイベルが微笑みかければ、瞑目して胸の前に手を合わせ、「尊い……」と呟いて失神するし、メイベルが叱責すれば、ハッと刮目して口元に手を当て、「尊いパートツー……」と声を震わせて失神する。
基本的に大概において失神している。侍女としての仕事はしていない。
もしかしたら、限りなく透明に近いブルー並みに、限りなく低い可能性で、仕事をしているのかもしれない。だが少なくともメイベルには、サラが侍女としての役目を果たしているようには見えなかった。
でもいいの、とメイベルは思う。
だってサラがわたくしを褒めて褒めて、褒めまくってくれるから、殿下がわたくしとの婚約解消をしたいだなんて言い出しても、まったくちっとも傷つかないでいられるのだもの。
そう。わたくしはサラの言う通り、史上最高傑作の素晴らしい令嬢。この国の崇める女神様だって、わたくしを前にすれば、裸足で逃げ出すに違いなくてよ。
そんなわたくしの素晴らしさを理解できず、婚約解消などしようとする殿下は、ただのボンクラ。わたくしに相応しくないのだわ。
メイベルは自分にそう言い聞かせると、ズキリと痛む胸をそっと抑えた。
ちなみにメイベルが胸中繰り返した文句については、普段サラが鬱陶しいくらいにハァハァ言ったり、口角に泡をふき、ツバを飛ばしながらメイベルに訴えている内容の一部であり、その復唱である。リピートアフタミー、さんはいっ。
そんな調子で、毎朝毎夕欠かすことなくサラがメイベルを賛美する上、言葉を覚え始めて間もない幼児程度にしかサラの語彙力がなかったため、メイベルはサラから向けられる美辞麗句をほとんど覚えていた。
何も考えずともスルリと口をついて出るくらいに。
「ボンクラ殿下がなにをぬかしたところで、素敵レディ王国ナンバーワン(当社比)であるわたくしの素晴らしさは、欠片も失われないわ」
メイベルのつぶやきは完全なる無意識下でなされている。王子は頬杖をついてデレデレと垂れ下がっていきそうな頬を支えた。
目を細めて愛しくてたまらないというようにメイベルを見守る。王子の目じりは赤く潤んでいる。なんでだよ。
「うんうん、そうなんだ。メイベルほど素晴らしい女性なんて、この国にはいないだろう? 僕もそう思う。正直この国は、女神様ではなくメイベルを崇めるべきなんじゃないかって、神殿長にもそう言ったんだけどね」
メイベルとの婚約を解消しようとしている暗愚な王子は、心から嬉しいというような、やや恍惚とした様子で、白皙の頬を薔薇色に染めた。
「まぁ。そうでしたの」
至極当然の賛辞が王子の口から捧げられ、メイベルは微笑んだ。
「そうなんだ。僕がボンクラなのは事実だけど、メイベルに相応しくあれるよう、日々努力をしているよ」
「まぁ」
胸中にのみ仕舞っていたはずの王子への悪感情を王子に暴かれ、メイベルはウットリとした。
そこまでボンクラではないのかもしれないわ、と。
「わたくしの素晴らしさを理解できる殿方ならば、わたくしに相応しいわ」
メイベルの胸が浮き立った。
ちなみに上記のセリフもメイベルは無意識である。この子大丈夫かな。
「ありがとう、メイベル。君が僕を認めてくれて、とても嬉しいよ」
「まぁ」
だがそこで、王子は悲しそうに眉をひそめた。愛らしい少年の悲愴な表情に、メイベルの胸が傷んだ。
「しかし。それがいけなかったらしい。神殿長がメイベルとの婚約を白紙に戻すよう、父上に諫言したんだ」
「まぁ!」
無能で見る目のない神殿長こそ、民を導くべき神の徒である資格がまるでないとメイベルは憤った。
王子が深く頷く。
「メイベルの言う通りだ。メイベルが我が国の女神より優るという――いや比較するのも馬鹿らしいな。メイベルこそが唯一無二、至高の存在だという自明の理を解さない人物が神殿長だなんて。情けないにもほどがあるじゃないか?」
もしここに、サラがいたのなら。
『メイベル様命!』と気合の入った太字が記されたハチマキを頭に締め。赤べこのように激しく頷き。「同志よ!」と叫んで、王子と熱い抱擁を交わしたかもしれない。
そのあとすぐ「うげぇっ。男なんぞに触ってしまった。お嬢様ぁあああっ! 消毒してくださぁああああいっ! 癒やしてぇえええええっ!」とメイベルに抱きついてきただろうが。そしてそんなサラを王子が圧のかかった笑顔で、ベリッとメイベルから引き剥がしただろうが。
だがあいにく、サラはここにいなかった。
王子の婚約者のヤベェ侍女が、令嬢と共に王族私室に入ることを許可するほど、王子の侍従に護衛騎士は、ウスノロではなかったからだ。
サラは現在、王子の護衛騎士によって簀巻きにされて扉前で待機させられている。
室内で交わされる会話が聞こえないか、扉にぴったりと耳といい頬といい、張り付けてみたり。グルグルと狂犬病に罹った犬よろしくヨダレを垂らして唸ったりしながら。
「だから僕は言ったんだ。『あなたこそ身の程を知るといい』って。そうしたら」
「そうしましたら……?」
東洋から取り寄せた、白地に青の染付が美しく珍しい陶磁器。焼き菓子や軽食の載せられた三段プレート。バスケットに飾り立てられた花は、まるで花摘みに出掛けたときのように趣向が凝らされ、香りは茶会を遮らないよう控えめで、色合いは可憐なパステルカラー。
開放感あふれる庭園ではなく、豪華な王宮内とはいえ、室内なのが残念なところ。
だが、まだ年若い婚約者同士の茶会のため、初々しくみずみすしく。綺麗に飾り立てられたテーブル。
そこに王子が身を乗り出し、声をひそめる。メイベルもつられて身を乗り出し、ごくりとツバを飲み込んだ。
「メイベルが僕を誑かしたのだろうと。神殿長はメイベルの素晴らしさを認められない俗物であるばかりか、メイベルを……! メイベルのことを……!」
そこから先は言葉にならないのか、王子は悔しげにくちびるを噛んだ。
「あら、まぁ」
あまりにぎりぎりと噛みしめるので、王子のくちびるはプシャーっと勢いよく血が噴き出した。メイベルは手を伸ばし、ハンカチを押し当てた。
「いけませんわ。傷になってしまいます」
傷になってしまうもなにも、既に傷がついたからこそ血が噴き出しているのだが、そんな些末なことはどうでもいいようで、王子は感動を露わに目を潤ませた。
「メイベル……!」
王子が見上げれば、返り血を浴びたメイベルがニッコリと微笑んでいた。
返り血って。どうしたらそこまで血が噴き出るの。
「大丈夫っすよ! お嬢様を魔女呼ばわりしたインチキヒヒ爺はこのアタシが退治しておきましたんっ」
ばばーん! という派手な効果音を響かせ、入室したのはサラ。簀巻きになってたんじゃなかったっけ。
腰に手を立て威風堂々とした佇まいのサラ。その背後に覗く回廊。
そこには、瀕死の護衛騎士がピカピカの床に倒れ込み、ぷるぷると震わせた手を差し伸べていた。
「くっ……! 殿下……! お逃げください! 突破されました……っ!」
騎士の手がガクリと地に落ちる。チェインメイルがじゃらり、プレートメイルががちゃりと耳障りな音を立てた。
侍従は倒れた騎士の逞しい体躯を抱え上げ、「お前の死は無駄にしないぞ……!」とむせび泣く。
あんたら、王宮の廊下でごっこ遊びはやめなさい。
ほらごらん。王子の妹君が扉を開けて、自室からひょっこり顔を覗かせているじゃないの。
おや。王女だけではないな。国王夫妻まで覗き見に興じているような。
護衛騎士と侍従はすくっと立ち上がり、王子の私室へ入った。
バタンと閉じられた扉の向こう。「チッ。もうちょっと見ていたかったのに! ケチ!」という三重奏が聞こえた。
王子は「メイベル、少し待っていてくれる?」と微笑んで立ち上がる。それから扉を開けて、回廊へと顔を突き出した。
「見世物じゃねぇんだぞぉっ! ぅおるぅああああああっ!」
見事な巻き舌だった。
メイベルの前では天使もかくやという愛らしさ麗しさ清廉さを見せつける王子だが、このとき王子の形相はいったいどうなっていたのであろうか。
メイベルは王子の普段見せない男らしさに、ドキがムネムネするのを止められなかった。ちなみにこの国にクレヨンはない。
しかし見世物ではないのなら、先程の小芝居はいったいなんだったのか。
扉をぱたりと閉め、メイベルの前に戻ってくる王子。侍従が静かに椅子をひき、王子が座った。
「失礼したね」
王子がこてりと首を傾げる。あざとい。この変わり身。メイベルの胸がキュンとなる。
「それで、そこのお前。神殿長を無事始末したと?」
ぴしゃーっと辺り一面凍りついてしまいそうな、王子の冷たい声色。その問いかけにサラはフフンと鼻で笑った。
「ええ。腰抜け役立たずのフニャチン野郎に代わって、このアタシ。役に立つ侍女王国ナンバーワン(当社比)のアタシが、お嬢様の手足となって働いてきましたよ! お嬢様の手足! そうっ! お嬢様の美しくしなやかなお手にお御足……ハァハァ……」
「黙れ。誰がお前のような変態に、メイベルの手足など任せるものか」
えっ。そういう話だったっけ。
メイベルが眉をひそめ、サラに胡乱なまなざしを向ける。
「サラ。神殿長を退治したとはどういうことなのです?」
それそれ。
神殿長って、この国の女神を讃える神殿の、その長だからね。女神教において絶対の権力者であり、国王とで国内権力を二分する、相当な有力者なんだけどね。
サラはさらっと髪をかきあげ、勝利のVサインを目の前に突き出した。
「あのヒヒ爺、巫女やら神官見習いの少年たちやら、見境なく食い散らかしてましたからね。このアタシの魅惑的なダイナマイツバディで色仕掛けしてやりました!」
うっふん、と体をしならせるサラ。王子は口元を抑え、吐き気をこらえた。
メイベルが「殿下、お加減が悪いのですか」と心配そうに声をかける。王子は爽やかに笑った。
「ありがとう。メイベルの清廉さが、おぞましく邪悪な瘴気を払ってくれたようだ。メイベルこそ、まさしく女神と呼ぶにふさわしい」
「まぁ」
確かにわたくしは女神よね、とメイベルは頷いた。
嬉しそうに頬をゆるめるメイベルを、王子とサラが微笑ましく見守る。
ついでに護衛騎士と侍従も、メイベルの喜びに溢れたはにかみに、胸中キュンキュンしていた。だがそれを悟られたが最後、どす黒いオーラを背負った王子の暗黒微笑に苛まれることは明白。
二人は主達から少し離れたところで、無表情にすんっとすまし顔で控えていた。
「そんなわけでですねぇ~。神殿長にはハニートラップに引っかかってもらって、えげつない罪がばんばん暴かれちゃったって。そういうことですね」
サラはへらへらしながら神殿長退治の顛末を締めくくる。
「あっ。陛下には報告済みなんで、そのうち正式な沙汰が下されると思います」
「なんてこと。サラは毒牙にかかっていないの?」
毒牙にかかったのは神殿長だと思うけどな。
眉をひそめてサラを気遣うメイベルに、サラは鼻の下をのばした。デレデレに。
「お嬢様ぁあああああっ! 心配してくださるんですかぁああああっ! デヘヘヘ」
サラが激しい情動のままに、メイベルへと突進してくる。王子は立ち上がってサラの襟首をむんずと掴んだ。そして放る。
サラの体が放物線を描いて護衛騎士の手に落ちた。ナイスキャッチ!
護衛騎士の腕の中にすっぽり包まれるサラ。身じろぎする度に騎士のプレートアーマーが、がちょんがちょんと音を立てる。
「サラ、うるさい。動かないように」
「はいっ! お嬢様!」
素直に頷くサラに「いいこね」とメイベルが微笑み、サラが「でへへ」と脂下がった。
メイベルはすぐさま不安そうに尋ねなおす。
「それでどうなの? サラが傷ついていないといいのだけれど」
「大丈夫ですよぉおおおお。あんのうすぎたないヒヒ爺なんざ、指一本たりとも触らせておりませんっ! お嬢様の前に立つのに、あんなバッチィのに触るなんて、とんでもないことです! えんがちょです!」
「そう。よかった」
サラを抱え込む護衛騎士がホッとしたように表情をゆるめた。もちろんサラの身を案じたわけではない。
脂でギトギトの神殿長菌に感染しなくてよかったな、という安堵である。だってほら。鎧越しとはいえ、今密着してるしね。えんがちょ!
「でもそうでしたのね。神殿長が失墜してしまいましたのね。そうなりましたら、我が家はおしまいですわね」
なるほど。そういうわけで婚約解消なのか、とメイベルは納得する。
メイベルの家、プレナ家は神殿との繋がりが非常に強い家なのだ。なぜならプレナ家から歴代の神殿長を輩出しており、神官や巫女もまた同様である。
メイベルと王子との婚約が結ばれたのは、それがためだった。
王家と神殿と。二分していた権力をひとつにまとめちゃおっか! という。そういう利害の一致である。
「ヒヒ爺が豪遊するための資金援助はもちろん、少年少女の奉仕提供について、あのクソ旦那様も絡んでましたしねぇ」
「まあ。お父様ったら悪いことをなされていたのね」
おっとりと頬に手をあてるメイベルに、護衛騎士の腕から抜け出したサラがずずいと近寄る。王子が立ち上がった。
「一番の悪いことは、お嬢様を虐げたことですっ!」
「僕も同感だなぁ。だからね、家ごと取り潰してあげようと思って」
メイベルに近づくサラを片手で掴み上げると、ぽいっと投げ捨てる王子。
サラの体が放物線を描いて護衛騎士の手に落ちるセカンドタイム。ナイスキャッチ、セカンドタイム!
「家ごとですか?」
そしたらメイベルどうなっちゃうの?
危機感もなく、のんびりと問いかけるメイベルに王子はニコニコと答える。
「うん。そう。だからね、それで一度、メイベルとの婚約は解消しないとなぁって。婚約は家と家との契約だし、王族として断罪された家と縁づくことはできないからね。こういうとき、僕の身分だとか慣習だとか、本当に面倒で嫌になるよ。メイベル、ごめんね」
「いえ。それはいいのですけれど。わたくしへの刑罰は? もし可能ならば御慈悲を垂れてくださいまし。火刑やら磔刑、八つ裂き刑、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑ではなく、単純な絞首刑、もしくは斬首刑がようございますわ。晒し首に関しましては、陛下、そして殿下の御心のままに。死後どう扱われようと、痛くもかゆくもございませんから」
メイベルの目が爛々と光る。鼻息も荒い。
前のめり気味のメイベルによって、早口で紡ぎだされる残酷な刑罰の数々に、王子はドン引――いたりはしなかった。
「何を言っているんだい?」
ハハッこいつゥ~の要領で、王子はメイベルの頬をつついた。なんて微笑ましい光景。
「もとは神殿長の建白だったんだけどね。それにのっかろうかと思って。だからメイベル。プレナ家とメイベル・プレナの名はこの世から消えてなくなるけれど、メイベルはこれからもずっと僕と一緒だよ」
「神殿長の建白でございますか?」
両手を組み合わせて肘をつく王子は、組んだ両手の上にとろけるように甘い微笑みをのせた。メイベルはウットリと見惚れた。
恋人たちの甘い熱視線の交差。ハートが乱舞して、手をかざしたら焦げつきそうだ。アッチッチ。
しかしサラは果敢にも二人の間に顔をつっこんだ。熱くないらしい。
ちなみにサラを拘束していたはずの護衛騎士はソファーに寝転んでいる。
侍従とともにクッキーをつまんで、「おっ。このクッキーうまいな。オレンジピールの苦みが効いてる!」とか「俺はコッチのナッツの方が好きだなぁ。香ばしくって」とかなんとか。自由だな。
「神殿長はお嬢様とそこのドぐされ王子との婚約を白紙に戻し、代わってお嬢様のゲス妹をソイツの婚約者に仕立て上げようとかぬかしてたんです。奥様が亡くなったつい先日まで、存在すら知らされていなかった、あのドブネズミですよ」
メイベルの母親が亡くなって喪が明けるのも待たず、葬儀の翌日に父親が屋敷に招いたのは、愛人とその子供。
両親は典型的な政略結婚で、愛はなく、互いに愛人を抱えていた。
父親は婚姻前から関係のあった身分の低い女を愛人として囲い、愛人との間にはメイベルと一つと年の変わらない娘を儲けていた。
母親は父親とは異なり、一人を愛人として長く扱うのではなく、その相手は日ごとに替わると陰口を叩かれるほど。
肺結核によって亡くなったものの、梅毒に侵されていたのだなどと死した後も揶揄される始末。
そんな不埒な女の娘だと、メイベルもまた色眼鏡で見られてきた。
噂好きの社交界から。道徳を重んじる保守的な面々から。そして血を分けた父親からも。
それだから、正式な婚姻を為せない程に身分の低い愛人と、その娘。二人を父親が屋敷に入れても、非難の声は上がらなかった。
「いえ。アタシとしても、王子(クズ)と妹(クズ・パートツー)がまとまることには、おめでたいばっかりで、なんら異論はないんですけど」
「大ありだよ」
王子は露骨に表情を歪めた。めちゃくちゃ嫌そう。
メイベルの前では普段、天使のような顔を崩さない王子の、嫌悪と侮蔑の浮かんだ歪みきった顔つき。メイベルの胸はトゥンクと高鳴った。
あらやだ悪役っぽい殿下も素敵ね。あばたもえくぼである。
王子はメイベルにニッコリと微笑みかけ、表情を取り繕ったあと、顎に手を当て思案し始めた。
「メイベルの妹の、ええと、なんだっけな……アナキンだっけ……?」
いやいや。待って待って。メイベルの妹はアナベルであってアナキンじゃない。
なんなの、そのダークサイドに墜ちたジェダイ、後の暗黒卿みたいな名前。シュコーシュコーって息してそう。
「アイアムユアファーザー……?」
おそるおそる問いかけるメイベル。今の世代で元ネタ知ってる子っているのかな。
だがサラはチッチッチッと指を振った。
「いえ、アタシとしては『穴金』ですね。元ネタは『穴』に『金タマ』っていう――」
王子が慌ててサラの口をふさいだ。何を言い出すんだコイツ。
そもそも『アナベル』の名前が、どうやったら『穴金』になるんだ。
サラと王子が目を合わせる。王子の手がゆるんだその隙をついて、サラが王子から離れる。
王子の「待てこら!」という制止の声を振り切り、サラはメイベルの背後に回り、メイベルの両肩に手を載せた。
「だってホラ、『ベル→鐘→金』っていう。ねっ!」
ねっ! じゃない。
「コホン。まあアナキンの名前はいいとして」
だからアナキンじゃないって。
「そんなわけで、これまで存在を隠されていた妹君をメイベルの代わりにね。断罪しようかなって」
王子がニッコリ笑う。無邪気な顔して、言ってることがえげつない。
「だって彼女、メイベルの代わりになりたいって言うものだからさ。それなら望み通りメイベルの代わりに。重罪人の娘、メイベル・プレナになってもらおうってね」
うん。それね。アナベルがなりたがってた代わりって王子の婚約者のことであって、断罪対象者ってことじゃないよね。わかるわかる。
しかしメイベルは義憤にかられて抗議することもなく、すんなりと頷いた。
「そうでしたの。それでしたらわたくし、アナキンの名になるのかしら」
メイベルまでアナキンって言っちゃった。
「まさか!」
メイベルの問いかけに王子は飛び上がった。
メイベルが小首をかしげる。可愛い。王子はハートを撃ち抜かれた。ズキュン。もともと撃ち抜かれまくって穴だらけのハートだけれども。
特大の穴から鮮血が噴きあがる。また噴血かよ。
「あらあら大変。失血死してしまいますわ」
メイベルは返り血を顧みず、ドレスの裾を王子の胸中央に押し当てた。
胸中央からの出血って。王子の体、どうなってんの。
「ありがとう。メイベル。でも心配しないで。血がどれほど出ても、僕は死なないから」
なにそれ怖い。
「まあ。そうでしたの。便利ですわね」
「そうなんだ」
アハハ、ウフフ。笑い声がこだまする。護衛騎士も侍従も微笑ましく恋人たちの語らいを見守っている。
つっこんで。誰か。
「お嬢様! その悪魔の血なんぞにお手を触れれば、お嬢様が穢れてしまいます!」
おっ。サラがつっこんだな。いやでも、つっこんでほしいところそこじゃないなぁ。
「何を言ってるんだ」
王子はサラのつっこみにハハハと笑う。
怒らないんだー。王子寛大だなー。
「お前だって悪魔のくせに」
えっ。
「アハハ。そうでした!」
ええっ。
「まあ。サラも悪魔でしたのね」
……うん。
室内はまるで温室のようである。あっちこっちに花が咲いている。
王子の頭にもポン。メイベルの頭にもポン。サラの頭にもポン。護衛騎士と侍従の頭にもポン、ポン。
「うん。実は室内にいる全員、メイベルを除いてみんな、神殺しの悪魔になっちゃったんだよね。それでね。神殿長もいなくなったことだし。メイベルには新たな女神になってもらいたいと思うんだ」
王子はニコニコと平和に微笑んでいる。のほほんとしている。狂気的な微笑とはちょっと違う。言ってることは狂ってるけど。
「そうなんですの。わかりましたわ。わたくし、新女神として誠心誠意努めてまいりますわ」
メイベルがフンスと鼻息荒く決意を新たにする。メイベルは割れんばかりの拍手に包まれた。回廊を抜けて、王宮中の人間のスタンディングオベーションだった。
かくして女神メイベルが生まれた。
女神メイベルとその伴侶を筆頭とした眷属達。その愛の力によって、国は栄え民は幸せに暮らすのであった。
めでたし、めでたし。
――って、いやいやいやいや。
まって、まって、まって。
まだ帰らないで、ぷりーず。
というのには、ちゃんと理由がある。もちろんある。
この国の二大勢力。王家と神殿。
国王と神殿長によって、権力が二分されていたと前述したものの、実のところその比率は大いに偏りがあった。
天秤はどちらに傾いでいたのか。
賢明なる読者諸君のことだ。すでにおわかりのことだろう。
読者諸君とか言っちゃった。偉そう。めっちゃ偉そう。何様だ。
すみません。ちょっと調子に乗りました。許してくだせぇ。お願いします。土下座しますから。
うーん。足が痺れた。親指を重ね合わせてモゾモゾするといいって本当? 都市伝説? いやそれ土下座じゃなくて正座じゃん。
話を戻そう。
この国の最大権力。それは神殿長にあった。
女神教は国教であり、国外の大陸を統べていたわけではない。
だが聖職叙任権は国王にはなく、完全に神殿長が把持していた。
その上、ちょっとでも神殿に気に入らない政策を王家が取ろうものなら――ちなみに一応は中央集権化された絶対君主制である――「きみきみ、破門しちゃうよ?」と脅される。けっこう露骨。
そうなれば王は三回まわってワンと鳴くのである。屈辱。
そういえば悪友の地球人から、似たような話を聞いた。カノッサの屈辱。あんな感じになったらたまらない。
雪降る中、裸足で断食に祈祷って、それはもうツラたん。ツラみの極み。
そんなわけで、この国の王太子とメイベルの婚約は、神殿側が本格的な王家掌握に向けて、第一歩を踏み出したというわけだ。
これまでなぜ王家主軸とプレナ家主軸との婚姻関係が結ばれなかったか。
それはこの国が小国であったため、国内で争っている余裕はなかったからだ。
内部でゴチャゴチャしている隙に攻め込まれたら最悪である。王家掌握どころの話じゃない。国そのものがなくなっちゃうもんね。
ひいては女神教も解体され、国民はすべて改宗させられるだろう。
神殿関係者がどうなるかなんて、想像するだに恐ろしい。
邪教だの悪魔崇拝だの。迫害だの弾劾だの。
追放で済めばいいけど、火炙りにされちゃうかも。おそろしや。
なんたって女神教は、この国独自の宗教で、他国の人間はまったくもって全然信仰していない。
そんな状態でどうして神殿がそこまで権力を有していたのか。
うん。そこはスルーしてほしい。
国民のほとんどが狂信者だったんだよ。きっと。そんなかんじ。
そういった経緯で、神殿側は王家がせっせと他国との繋がりを結び、外交によって国を安定させていくのを生ぬるく見守っていた。
王家が力を持ちすぎないよう、ところどころで茶々を入れながら。うわぁ。すげぇ厭らしい。
そして悪魔が来りて笛を吹く。時は満ちた。
そういうことだった。
めちゃくちゃ政略的な婚約だった。
王家は承諾せざるをえなかった。やっぱり屈辱。
そんなの王子がメイベルに悪感情を持つのは当然じゃん?
だがしかし、王子はメイベルを気に入り、メイベルもまた王子を気に入った。
王子は少し気弱なお坊ちゃん。素直で穏やかな気質だった。
メイベルはちょっとばかりエキセントリックなお嬢ちゃん。素直で朗らかな気質だった。
幼い婚約者二人は、二人して逆境に負けない真っ直ぐさがあった。
よかったじゃん。平和だ。
そう。平和だったのだ。
アナキン・スカイウォーカー――じゃなかった。アナベル・プレナが現れるまでは。
「お姉様ばっかりズルいわ。私だって王子様と結婚したい!」
こうして役者は揃ったのである。
◇
さて。ここからは胸糞悪い断罪劇だ。
かっ飛ばしてゴールに辿り着きたい。最短でいくぜ。時短こそ現代の正義。イエァー!
ネットフリックスもアマゾンプライムも、倍速で見るのが流行り。コスパだね! イエァー!
というより詳細描写はね。ちょっとね。あまりに凄惨になりすぎちゃう。
絵面がグロい。オエッとなる。もらいゲロは苦しいのだ。
ところどころ拾いつつ。モザイクかけつつ。早送りでどうぞー。プレゼンティッドバイ元祖女神。
……ハイ。
元女神がお送りいたしております。
予め謝罪しておきます。大変申し訳ございませんでしたァッ!
◇
王子は女神の核に剣を突きつけた。
その背後には、守りを固めるように男が二人、女が一人並んでいる。
「女神よ、選べ」
露わとなった女神の核。目も眩むばかりの輝きは、あたり一帯を白く照らしてしていた。
当然王子も光を浴びていた。
ただ人の身であらば。薄まることなく、遮るものもなく、直接浴びれば。強烈な浄化の力によって、一瞬にして消え失せる光。
三人の人間はたまらず膝をついた。
だが王子は少しの揺らぎも見せず、泰然と構える女神を見据えていた。
「さて、何をだろうか。人の子よ」
女神は微笑を湛えたまま問い返した。
人の子と侮る王子に自身の消滅を仄めかされながらも、不遜な態度は崩れない。
王子は薄く笑った。
「おまえが虚勢をはろうがはるまいが、僕はひかない。もう二度と屈しない」
国を守るはずの女神は、神殿内部の腐敗を許したばかりか、侵入者が神殿の最たる聖域に足を踏み入れることを許した。
気がついてすらいなかった。
はいはい。
女神様、バカでちゅねー。
「選択肢を与えるのか? お優しいことだな」
核に剣を突きつけられた状態で、選べもなにもないじゃん。
このときの女神の心境。ズバリいじけていた。拗ねていた。
イジイジ指をこねくり回したい気持ちでした。
ハイ。スミマセン。今は反省してる。
「僕はどちらでも構わない。メイベルがいないのならば。この国の行く末など知ったことか」
王子、ちょっと見ないうちに、すっかりヤンデレに大変身されてましたァーッ! ラスボス感あるゥーッ!
まぁ。王子がね。やさぐれちゃうのもね。仕方ないっちゃ仕方ないのだ。
アナベル・プレナとその母親がプレナ家に迎え入れられてすぐ。
プレナ家当主と神殿長から、王家に請願があった。王子の婚約者をメイベルからアナベルへ交代したいと。
メイベルの血筋はアナベルに優るが、アナベルは聖女として覚醒した。
聖女。
聖女ね。んなもん授けた覚えは一切ない。だが神殿長はアナベルが聖なる力を発現したと宣誓したらしい。あのハゲめが。
ハゲの騙りに調子づいたアナベルは、「お姉様は魔女」発言かまして、それに便乗したプレナ家当主が「魔女メイベルが聖女アナベルの殺害を企てた」冤罪を主張し、ハゲ神殿長が「魔女は火炙りにすべし」と断罪した。
プレナ家の三バカ、許すまじ。
でもさ。
正直なところ、王子も王子だと思うわけ。
諾々と婚約者交代を受け入れた。
プレナ家面々はメイベルに説明なんてしてやらないよ。効果的にメイベルを絶望させたいアナベルちゃんなのです。
プレナ家当主はアナベル溺愛だし、神殿長は言うこと聞かないメイベルより、甘言に弱いアナベルを傀儡にしたい。
そうして王子は、メイベルに婚約の破棄をつきつけた。まるで王子自身の望みであるかのように。
信頼し愛していた王子からの一方的な婚約破棄。
メイベル、傷ついただろうなぁ。
「人の子よ。お主の眼前にも選択肢は掲げられていたはずだ。お主はそれを自身の意思によって選び取った」
オイラのせいだけじゃなかんべ。
まあ悔し紛れに当てこすったんだよね。今は猛省してる。ごめんなさい。アイムソーリーヒゲソーリー。
「僕は愚かだった。お前に指摘されるまでもない」
八つ当たりに当てこすってみたものの、王子は顔色一つ変えなかった。
うーんこの。
王子がメイベルとの婚約を解消し、アナベルとの婚約を了承したのは、神殿の力が強すぎたからだ。
神殿長とメイベルの父親であるプレナ家当主に、婚約者の交代を指示されれば、拒否することはできなかった。
王家の尊厳は、女神の威光の前では霞んでしまう。人の身では神に打ち克てない。
だがそれだけではない。
王子は愚かだった。
弱虫で、臆病で。疑うことを知らず、人の善意を過信し、思慮が浅く、楽観主義に過ぎ。
自己犠牲と諦めの早さを履き違えていた。
自分がメイベルを諦めれさえすれば。疎ましいアナベルを娶ることを了承すれば。そうすれば。
愛してやまないメイベルの幸福を、遠くから祈ること。メイベルの住まう国を豊かにせんと励むこと。
きっと叶えられるだろう。それだけで十分幸せだと。
だがしかし、メイベルは失われた。永遠に。
「僕は愚かだった。メイベルのいない世界に価値などない」
ふたたびヤンデレのテンプレ発言きたァーッ!
「だから、選べ。女神よ」
「答えを聞くまでもないだろうに」
「それはお前自身の発言を、お前自身が否定しているのと同じだ」
王子の突きつける切っ先が女神の核に触れる。瞬間、生じたのはバチバチと激しい閃光。
「『お主はそれを自身の意思によって選び取った』。お前はそう言った。そうだろう」
ハイッ! ここで元女神から、世のお父さん、お母さん方にワンポインツアドバイスゥー!
子育てお疲れ様。毎日頑張ってるよね。元女神知ってるよ! 頑張ってるゥ!
子供がお友達と楽しそうに遊んでたら、ちょっとくらいスマホ見てもいいよねっ。気団、鬼女まとめサイト見て、他人の不幸は蜜の味で溜飲下げるのも、あり寄りのあり。ありあり!
だって子供のすぐそばにいるし。危険がないよう見てるし気にかけてるし。
元女神もそう思うよ。うんうん。そんな四六時中ずっと神経逆立てていられないって。わかるわかる。
国の育成間違えた元女神の言うことには重みがないって? やだーあなたも言うじゃん、言うじゃん! どんだけぇ~。
ってことで。
元女神、思う。
スマホ見たっていいと思う。仲良さげなママ友グループに混じれず、ポツンとぼっち。いいじゃん、スマホ見たって。
ママ友同士で育児あるあるネタで盛り上がるのと、スマホチラ見してんの。おんなじ、おんなじ。たいして変わんないって。
だけどね。
だけどねぇええええええええええっ!
スマホかじりつきになっちゃうのは、ホントやめよ? マジでやめよ?
子供が「おとーさぁああああん! おかーさぁああん!」って呼んでるのに、スマホの画面から視線外さずに「ん-。なに?」ってウザったそうにするの、ホントやめよ……ッ!
「おとうさんとおかあさん。いっつもスマホ見てる」
この台詞が出たら、危険信号。気をつけてー。
以上、国の育成間違えた元女神のたわごとでした。しくじり先生に出演、でっきるっかなー。
◇
女神は選んだ。
「時を巻き戻そう」
「そうか。ならば核は破壊しないでやる」
剣の先がわずかに核から離れる。構えは崩さず、女神から視線をそらさず。すぐに射抜ける姿勢のまま。
女神は苦笑した。
「約束は違えぬ」
「それはなにより。だがそれを信ずるか否かは僕が決める」
好戦的な王子に女神は首を傾げた。
「いずれにせよ、時を戻せば核は砕け散る」
「……どういうことだ」
王子の眉間の皺が深く刻まれる。女神は答えず、瞑目した。
女神の身体を包む白い光。それに混じって放射状にのびていく七色の輝き。
すべてが光にのまれていく。
剣を構えてはいたものの、王子はもはや目を開けていることは叶わず、膝をついた。
女神の声がこだまする。
「お主にこの国を任せる」
「いらないよ。そんなもの」
咄嗟に反論したが、体を駆け巡り胎動する存在に、王子は気がつかないわけにいかなかった。
「何者かに譲渡しようと、分かち合おうと。それはお主の自由だ。愛しい我が子たち」
女神の気配は途絶えた。
◇
王子がパチパチと目をまたたくと、目の前にはツバを飛ばして顔を真っ赤にした神殿長がいた。
あれ、コイツとっくの昔に殺したよな?
ぐるりと見回すと、護衛騎士と侍従もまた、戸惑うような顔つきだった。
王子はゲンナリした。
あの性悪女神。この瞬間を巻き戻しの地点としたのは、意趣返しのつもりなのか。
選択の瞬間。王子がメイベルと共に歩む未来を諦め、アナベルを婚約者と受け入れた。その岐路。
王子は口を開いた。
「アナベルとの婚約? あなたがすればいいんじゃないかな? それほどまで賛辞するのであればね」
「世迷い言ですな。聖職者は婚姻できませぬ」
神殿長はねっとりとねぶるように言った。王子は笑い飛ばす。
「ハハハ。婚姻はしていないが、いとけない少年少女たちと、随分親しくしているそうじゃないか」
「なっ……!」
赤黒く染まったハゲ頭が言葉に詰まる。目はキョドキョドと泳ぐ。
途端に不審な動揺を見せる神殿長だったが、王子は興味なさげに手を振り払った。
「そんなことより、この国は、女神様ではなくメイベルを崇めるべきだ」
すでに女神は消滅しているしね。王子が微笑んで言い添えると、神殿長はポカンと間抜けに口を開けた。
王子はニコニコと見守っている。
「あなたこそ身の程を知るといい」
神殿長の脳に王子の言葉が届いたのだろう。伝達が遅い。
神殿長はふたたび激高した。
「魔女だ! 王子は魔女メイベルに誑かされたのだ!」
「その言葉。後悔するがいいよ」
切口上といい、氷のような眼差しといい。神殿長は戸惑った。
温和で優しく、決断力に欠け、当たらず障らず。事なかれ主義の御しやすい王太子。
それが神殿長の抱く王子の姿だった。
この会談前まで。いや、会談の始まって挨拶を交わした際ですら、王子はほとんど諦念を表情に浮かべていたではないか。
「あなたに熱烈な思慕を伝えたいと懇願している娘がいるのでね。惜しいことだが、彼女に役を譲ることにしたよ」
神殿長は退室を促された。王子の護衛騎士が腕を引き、回廊を引きずられていく。
「離せ! 無礼者が! 騎士風情がなんと心得る!」
頑強な騎士の手から抜け出そうと、神殿長はやみくもに腕を振った。だが護衛騎士は耳を傾けず、そのまま回廊を進んでいく。
そして城外の跳ね橋へと、神殿長は放り投げられた。
「存分に愉しんでくれ」
神殿長の消えた扉に向かって、王子は口の端を上げた。
「サラは喜ぶでしょうね」
王子に阿る侍従の声もまた弾んでいる。
侍従は眼鏡のブリッジを人差し指でずり上げた。眼鏡のガラスが光を受けてきらめいた。
「今頃、舌なめずりでもしているんじゃないかな」
「変態ですからね」
「違いない」
部屋に戻った護衛騎士が情けなそうに眉尻を下げた。
「その変態は私の妻となる女性ですので、どうぞ悪口は私のいないところでお願いいたします」
王子と侍従は声を上げて笑った。
「なんだ! 陰でなら悪口を叩いてもいいのか!」
「薄情な亭主だ」
護衛騎士は肩をすくめた。「事実ですから」と。
◇
女神は消滅したはすなのに、消滅後はいったい誰が語り部をしていたのか?
それはですね。
元女神デース!
ん? なんでまだお前がいるのかって? 諸悪の根源だろって?
やだなぁ、女神としては消滅したけど。
女神時代から女神業放棄するほど夢中でロムってた地球へ。転生しちゃいましたぁああああっ! ラッキー!
えへへ。女神時代の悪友だった地球人が、手招きしてくれたもので♡ 甘えちゃいました♡ てへっ。
そうして今。地球に住まう、ただ人として。彼等の物語を綴っているのである。
勝手に脚色すんなとか、プライバシーの侵害だとか。
そこは許してちょんまげ。反省はしている。
さて、悪者は退治され、王子様とお姫様は結ばれる。そんな長い長い物語。このあたりで締めくくることにしよう。
王子はメイベルと婚姻を結び、華燭の典にパレードは盛況のうち催された。初々しくも麗しい恋人たちの姿を一目見ようと、各地から人々が詰めかけた。
そんな民に、王子とメイベルは幸せいっぱいの笑みで応えた。
かつての王子の婚約者、プレナ家のメイベル・プレナは断罪された。
王子のとなり。妃として並ぶ者の名をメイベルという。プレナ家とは無関係の、旧女神より代わって地に降り立った、新たなる女神。
女神メイベルは歓迎された。
国民は知っている。
王子が心から愛し、心からの笑顔を浮かべるのは、幼き日から共に歩んだ女性だけであるということを。
だが国民は知っている。
腐敗しきった神殿を一掃し、新たに女神として立つメイベルこそが、この国を導いていくことを。
国は栄え、民は富み。
民は神殺しの悪魔と旧女神の対決、新女神の台頭。その神話を語り継いでいく。
歌やお伽話、そして芝居。人形劇に歌劇。
時代は神の治世から人の治世へと移りゆく。
時が移り変わろうとも、神話は残る。民は神を愛し、神は民を慈しむ。
時が移り変わろうとも、お伽噺は残る。王子様とお姫様は、愉快な仲間たちと一緒に、末永く幸せに暮らしました。
めでたし、めでたし。
前日譚に『カミツレの首飾り(https://ncode.syosetu.com/n4566hs/)』があります。
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