8.生活習慣
休暇中に頼んでいた仕事の引き継ぎや溜まっていた書類を片付けて騎士団棟を出ると、辺りはもうすっかり真っ暗になっていた。
(二十一時か……。この時間なら、流石にエマも終わっているかな?)
そう思いつつ魔法研究所の方向を見ると、まだ建物に明かりが点いている。少し迷ったが、エマがまだ居るのなら、一人で夜道を帰らせたくはない。……上手くすれば一緒に帰れないだろうか、とちょっとした希望的観測を抱きながら足を向ける。
近くまで来ると、丁度建物の中から人影が出て来た。エマの兄、アラスター・ベネット魔法研究所副所長だ。彼は俺に気付くと、怪訝な顔をした。
「……こんばんは、ベネット副所長。エマはもう帰りましたか?」
エマとは停戦したとは言え、ベネット公爵家とはずっとお互いに敵視し合ってきた間柄だ。向こうも俺を良くは思っていない筈だと、俺は緊張しながら声を掛ける。
「……いいえ、まだ研究所にいますよ。今夜は徹夜するつもりだと思いますが」
「徹夜!? いくら休み明けとは言え、そんなに仕事が立て込んでいるのですか?」
ギョッとして俺が尋ねると、ベネット副所長は首を横に振った。
「いつもの事ですよ。エマは一旦魔法研究を始めると、集中力が続く限りはずっと没頭し続けるので、二徹三徹は当たり前なんです。今は休暇明けで体調も良さそうですから、下手をすれば五徹くらいするんじゃないでしょうかね」
「ご、五徹!?」
ベネット副所長のあまりにも酷い説明に、俺は愕然とする。
「一度魔法研究を始めれば数日は平気で徹夜を続けて、集中力が切れればパタッと倒れて少なくとも丸一日は起きない。そして目が覚めたら食事を胃袋に詰め込めるだけ詰め込んで、また魔法研究を始める。これがエマの生活習慣なんですよ」
「……!?」
予想以上に滅茶苦茶なエマの生活習慣に、俺は言葉も出なかった。
エマが研究所に泊り込んだり徹夜したりしているという噂は小耳に挟んではいたが、ここまで酷いとは知らなかった。そんな習慣を続けていたら、何時か絶対に身体を壊すに決まっている。
騎士は健康な身体が第一だ、と言うケリー公爵家の家訓に従って、食事運動睡眠その他の体調管理を厳しく叩き込まれて育ってきた俺には、到底受け入れられるものではなかった。
「ベネット副所長、そんな生活を続けていたら、何時か身体を壊す事くらい分かりますよね!? 何故エマを止めないのですか!?」
苛立ちを思わずベネット副所長にぶつけると、彼は俺を睨み付けた。
「今まで何度も止めようとしてきたさ。それこそ子供の頃からね! だけどエマの集中力は凄いんだ。一旦何かにのめり込むと、俺達が声を掛けようが肩を叩こうが、並大抵の事では反応しない。それにこちらが下手をすればエマの手元を狂わせてしまって、エマが丸一日かけて進めていた実験が無駄になったり、緻密な作業の最後の仕上げをしくじって一からやり直しになったりと散々な結果になる。エマの努力を水の泡にしない為にも、どうしてもっていう時以外はエマの集中力が切れるまで放っておくしかないんだよ! ……丁度良い機会だから君も一緒に来ると良い。魔法研究に集中しているエマの気を削げるものならやってみてくれたまえ!」
ベネット副所長に案内され、俺は魔法研究所に足を踏み入れる。煌々と明かりが点いている部屋にはエマ一人だけが残っていて、机に向かって一心不乱に何かを書き付けていた。
「エマ、もう遅いから帰るぞ!」
ベネット副所長が声を掛けるが、エマはピクリとも反応しない。
「この通りだ。大声で話し掛けても気付かないし、下手に肩を揺さ振ったりしたら、エマの手元を狂わせて今している作業を台無しにする恐れがある。何か良い方法があるなら俺が教えてもらいたいね」
ベネット副所長に言われて、俺はエマに近付く。目の前に立っても、エマは俺に気付かない。机の上は細やかで美しい幾何学模様がびっしりと描かれた紙で埋め尽くされていて、俺は目を見張った。
(もしかして朝の会議が終わってから、ずっとこれを描いていたのか?)
エマが何をしているのかは良く分からないが、とんでもなく細かくて根気の要る作業をしている事だけは分かる。今エマが手掛けている紙も、七割方が幾何学模様で埋まっていた。真剣な表情で慎重にペンを運ぶエマを見ていると、確かに下手に中断させようとして、この作業を台無しにさせる訳にはいかない事は理解できる。
(それでも、このまま何日も徹夜なんてさせられない!)
俺はゆっくりと肺の奥深くまで息を吸い込んだ。エマが持つペンが紙を離れた一瞬を見計らって、腹の底から大声を出す。
「エマ!! 帰るぞ!!」
剣戟の音が鳴り響く騒がしい訓練場で部下達に号令を出す時のように、窓枠がビリビリと揺れる程の大声を張り上げれば、流石のエマも驚いたように顔を上げた。
「えっ……マーク?」
何とか俺に気付いてくれたエマに、ほっと胸を撫で下ろす。
「今日はもう遅い。続きは明日にして一緒に帰ろう」
「え? ああもう夜なのね。でも後ちょっとだけ、この一枚を描き終えてから……」
「駄目だ、エマ!」
驚いた様子で目を丸くしていたベネット副所長が、再び続きに取り掛かろうとしたエマのペンを持つ手を掴む。
「まだこれを描き終えるには時間がかかるだろう。折角モルガン総帥が迎えに来てくれたのに、待たせるのも気の毒だ。丁度中断できたんだから、今日はもうここまでにして、大人しく帰れ」
「ええ!? 嫌よお兄様! 後少しなんだから……!」
「お前の後少しは信用できない。それにこれを描き終えてもそのまますぐに次に取り掛かる事は目に見えている。さあもう今日は帰るんだ!」
「何するのよ! 返してお兄様!」
ペンを無理矢理取り上げられて半泣きになるエマを俺に押し付けながら部屋を追い出すと、ベネット副所長は手際良く明かりを消して部屋の戸締りを済ませてしまった。
「後ちょっとだったのにいぃぃぃ……!」
悔しがるエマを引き摺って馬車に放り込むと、ベネット副所長は俺の方に向き直った。
「モルガン総帥……今日はありがとうございました」
「あ、いいえ、俺の方こそ……ありがとうございました」
まだ少しぎこちないながらも挨拶を口にして、俺達はベネット副所長と別れた。
「エマ、もしかして朝の会議が終わってから、ずっとああして机に向かっていたのか?」
自宅に向かう馬車の中で、不貞腐れているエマに尋ねる。
「え? そうよ。あーあ、せめてあの一枚は仕上げたかったわ……」
「昼食は?」
「食べてない」
「夕食……」
「まだに決まっているでしょう」
悪びれも無く答えるエマに、俺は頭を抱える。
「お前……せめてちゃんと休憩は取れ!」
「仕方ないじゃない! ずっと机に向かって作業していて、あんたに声を掛けられて初めて気が付いたんだもの!」
「だからって、何日も食事も睡眠もとらずに作業していたら身体を壊すだろう! 集中力が切れて立ち上がった瞬間に目眩でも起こして倒れたらどうするんだ!? もしその拍子に運悪く頭を打ったりなんかしたら、そのまま死んでしまうかも知れないんだぞ!」
俺が声を荒らげると、エマはバツが悪そうに視線を彷徨わせた。
「だ……大丈夫よ! 頭から大量に出血したらしいけど、今もこうしてちゃんと元気に生きているもの!」
「経験済みかよ!? 余計性質悪いわ!!」
明らかに笑顔で誤魔化そうとしているエマに特大の雷を落として、俺は決意する。
(駄目だ。この女、俺が面倒を見ないと、確実に早死にする)
こんな調子でよくもまあ『自分の体調くらいきちんと管理できています!』などと国王陛下の前で大口を叩けたものだと、俺はすっかり呆れ返ってしまった。
ベネット副所長の苦労が偲ばれる。この妹に対しては過保護にならざるを得なかったのだと、俺は密かに彼に同情した。