5.停戦協定
カーテンの隙間から漏れてくる光が眩しくて、私は目を覚ました。見慣れない部屋を寝起きの頭でぼんやりと見回しながら、そう言えば昨日結婚して新居に引っ越して来たんだった、と思い出す。自分の服やベッドや部屋の様子を確かめてみるが、昨夜から変わった所は特に無いように思えた。
(……と言う事は、やはりあの男、初夜をすっぽかしたって訳ね)
さっさと寝て良かった。来もしない新郎を律儀に起きて待っていたら、寝不足になっていた所だし下手をすれば風邪を引いていたかも知れない。
(誓いのキスをすれば倒れられ、初夜はすっぽかされ……。あの男がどれ程私を嫌っているか、よおぉーっく分かった!!)
今まで休日を無視して魔法研究三昧の生活を送っていた分、残業時間や休日出勤がどうのこうのだからこの際ゆっくり休んでくれと研究所の事務員に頼み込まれてしまい、結婚にかこつけて一週間程休暇を無理矢理取らされていたが、こうなったらそんな事は関係ない。いくら国王陛下の命令とは言え、向こうに歩み寄る気がこれっぽっちも無い結婚生活なんて送れるものか。この家でストレスしか感じずに過ごすなんて真っ平御免だ。研究所を実質的な住処にして、あの男とは表面上和解した振りでもすればそれで十分だ!!
怒りに任せて手早く着替え、部屋の扉を開けた所で、驚いた表情のメイドと鉢合わせした。
「お、奥様、おはようございます。今起こしに伺おうとした所で……」
「そうだったの。ごめんなさいね。目が覚めたものだから自分で着替えてしまったわ。朝食は頂けるかしら?」
「は、はい。食堂に準備はできております」
朝食を済ませたら馬車を出してもらって研究室に行こう。そうしたら殆どこの家に帰って来る事は無いだろう。王宮に近い一等地に新居を用意してくださった国王陛下や、この家の使用人達には悪いが、あの男と一緒の家に住めるだなんて最早微塵も思えない。
そう思いながら食堂の扉を開いた私は、ぎょっとして思わず足を止めた。既に配膳が終わったテーブルにモルガン総帥が着いている。そして向こうも同じく私を目にした途端、ぎょっとしたように目を見張った。
(居たのか)
咄嗟に舌打ちを堪える。まさかとは思うけれども、これからこの男と一緒に朝食を摂らなければならないのだろうか。朝っぱらから運が無い。いっそ食べずに出てしまおうか?
「お前、その格好……何でローブを着ているんだよ。まさかこれから仕事に行く気か? 俺達は挙式後休みをもらっていた筈だろう?」
「……式の準備のせいで研究が思うように進んでいないのよ」
モルガン総帥に咎められ、私は苦しいながらも事実を言い訳にする。
「……少なくとも今日は止めてくれ。お前と話がしたい」
モルガン総帥は意外にも真摯な態度で頼んできて、私は不貞腐れつつも取り敢えず食卓に着いた。
「それで? 話って何かしら?」
お互いに朝食を口にしながら私は尋ねる。
まあ十中八九、これからの仮面夫婦生活についてだろう。私としては外面だけ適当に和解したように振る舞えればそれで良い。今までと同様に魔法研究ができさえすれば、後はこの男が他の女性と仲良くしようと子供を作ろうとこの家に呼び寄せて一緒に暮らそうとどうでも良い。
あ、このパン美味しい。折角国王陛下が腕の良い料理人を雇ってくださったみたいだけど、今日くらいしか食べる機会が無いのはちょっと残念だな……。
「お前が俺を嫌っているのは分かっている。だけど、国王陛下のご命令があったからとは言え、俺達は式を挙げて夫婦になったんだ。今までの事はお互いに水に流して、これからは一からお前と新しい関係を作り直していきたい」
予想と違う答えが返ってきて、私はパンをちぎる手を止めて顔を上げた。モルガン総帥は真面目な表情で、真っ直ぐに私を見つめていた。
「意外ね。誓いのキスをしたら卒倒し、初夜をすっぽかす程私の事を嫌っている人の言葉とは思えないわ」
食事を再開しながら私が返すと、モルガン総帥は目に見えて狼狽え始めた。
「ち、違う! キスはその、あれだ、ほら、お前からされてしまって、俺にも色々と思う所があってだな! ってか、初夜をする気が無かったのはお前の方だろう!? 昨夜俺が寝室を訪れた時は、お前はもう既に寝ていたじゃないか!」
「え? あんた来ていたの? なら起こしてくれれば良かったじゃない」
「声を掛けて軽く揺さ振っても全然起きなかったし、式で色々と疲れていただろうから、そのまま寝させてやろうと思ったんだ」
「あら、それはどうも」
と言う事は、キスの件も初夜の件も、私の事が嫌いだからだった訳ではないのか。しかも初夜の件に至っては、思い込みでさっさと寝てしまった私の方が分が悪いのでは?
……いや、男心に関しては全く分からないし分かりたくも無いが、私の方からキスをされたのがどうやら相当ショックだったみたいだとは言え、ぶっ倒れるなんて紛らわしい事をしたこの男の方が悪い事にしようそうしよう。
「……俺はお前と結婚した以上、ギスギスした関係のままで表面だけを取り繕った仮面夫婦にはなりたくない。ちゃんとお前と向き合って、今よりも少しでも良い関係を築いていきたい。そして行く行くは……、できる事なら、お前と本当の夫婦と言える関係になりたいんだが」
何処か思い詰めたようなモルガン総帥の言葉に、私も真顔になる。
モルガン総帥に歩み寄る気が全く無いのであれば、私は仮面夫婦になる気満々だったが、彼が本気で私との関係の改善を希望するなら話は別だ。本当の意味で国王陛下の願望に応える為にも、私もきちんと彼と向き合い、歩み寄らなければならない事は明白である。ベネット公爵家とケリー公爵家の和解という最終目的の為にも、まずは私達が距離を縮めないと、この政略結婚の意味が無い。
「……分かったわ。取り敢えずは停戦しましょう。私達の関係を改善できるかどうかは分からないけれど、できる限りの努力はするわ」
私が答えると、モルガン総帥はほっとしたように表情を明るくした。
「そうか。じゃあ、これから宜しく頼むよ、エマ」
モルガン総帥は柔らかく微笑みながら、右手を差し出してきた。彼にこんなに優しく微笑まれたのは初めてで戸惑う。
そう言えばモルガン総帥は、意外と女性に人気があると言う噂を聞いた事がある。当初は出くわしたら必ず睨み付けてくる上に言い掛かりを付けてくるこの男の何処が良いのかと鼻で笑っていたものだが、こうして正面から微笑まれてみると、彼の人気の理由の一端が分かるような気がしてしまった。
「……こちらこそ宜しく、マーク」
慣れないなあと思いながらも、一応は夫婦になったのだからと、私は握手を交わしながら、彼のファーストネームを渋々と呼んだ。