44.大切なもの
何とか無事に王都の家に帰って来てからも悪阻が続き、暫くの間私はベッドから起き上がれない生活が続いていたけれども、最近は漸く悪阻も治まってきた。
「エマ、今日は起きていても大丈夫なのか?」
久々にベッドの住人から脱出して、ソファーでレモンの果実水を飲む私を見て、マークが声を掛けて来た。
「ええ。悪阻も大分治まってきたみたい。色々迷惑をかけてしまってごめんなさい。ありがとう、マーク」
マークがほっとしたように表情を緩ませて、私の隣に腰掛ける。
合同訓練中にまさかの体調不良で色々な人に迷惑を掛けてしまい、しかもその直後に妊娠が知れ渡ってしまって、非常に恥ずかしくて申し訳ない思いをする羽目になってしまったけれども、その全てに対応をしてくれたのはマークだ。キンバリー辺境伯家へのお礼やら、悪阻に苦しむ私を連れての王都への帰還の手配やら、魔法研究所への連絡やら、あれやこれやの手続きを全て私の代わりにしてくれた。当の私はと言うと、悪阻に苦しめられていたとは言え、手厚く介抱され、至れり尽くせりの待遇を受けるだけだった。マークが一緒に居てくれて、本当に助かった。
「迷惑だなんて思っていないさ。俺がしてあげられるのはそれくらいだからな。エマの代わりに悪阻になったり、出産の痛みを経験したりできる訳じゃないし」
心配そうに私の顔を覗き込んでくるマーク。ここ最近はずっとベッドにぐったりと横たわってばかりだったせいか、マークは相当心配性になってしまったような気がして、私は微苦笑を漏らした。だけど、以前久し振りに生理がきた時の対応と言い、今回悪阻に苦しんでいた時に、背中を擦ってくれたり自ら水を持って来てくれたり手ずから物を食べさせてくれたりと、色々気遣ってくれた事と言い、優しくて、思い遣りがあって、私よりも女性の体調に理解のある夫と結婚できて、本当に良かったな、と有り難く思う。
「マークのお蔭で本当に助かったわ。もうすぐ安定期に入るらしいから、もう心配要らないと思うわ。早く出勤できるようになって、魔法研究の遅れを取り戻さなくちゃ!」
もう大丈夫だとマークを安心させたかった気持ちもあるけれども、何よりも、折角キンバリー辺境伯領まで足を運んで、サラ様と相談して今後の研究の打ち合わせもできたと言うのに、あれ以来何も手を付けられていない魔法研究の続きを早くやりたくて仕方がなくて、意欲満々で口に出したら、マークに思い切り顔を顰められてしまった。
「エマ……、妊娠したんだから、暫く無理はしないでくれ。もうお前一人の身体じゃないんだからな」
「ええー……大丈夫よ、多分……。それに研究だっていよいよ大詰めなのに……」
マークの言っている事は正論だと分かってはいるのだが、暫く滞ってしまった魔法研究がしたくてしたくて、つい口を尖らせながら不満を言う。
「仕事をするなとは言わないが、無理は絶対に駄目だ。本当はずっと家に居て、安静にしていてもらいたいくらいなんだからな」
「……マークは過保護なんじゃないかって、時々思うわ」
「過保護でも何でも良い。兎に角無理はするな」
「分かったわよ……。無理はしないわ。……多分」
「多分って何だよ!?」
目を逸らして呟く私に、マークは額に手を当てて項垂れていたが、一瞬真顔になったかと思うと、顔を上げてニヤリと笑った。何となく嫌な予感がするのは、気のせいだろうか。
「エマ。この間の合同訓練の時、俺達は賭けをしたよな」
「え、ええ……。したわね」
私は口元を引き攣らせる。
どちらがより魔獣を倒せるか、そして負けた方は勝った方の言う事を何でも一つ聞く。だけどこの賭けは、私の体調不良……と言うか悪阻のせいで、有耶無耶のうちに無効になっていたと思っていたのだけど……。
「エマは悪阻で棄権……と言う事は、実質は俺の不戦勝って事だよな。俺は何でも一つエマに言う事を聞いてもらえる筈だよな」
「何よそれ!?」
そんな話聞いていない、そもそも私が妊娠したのは私だけの責任じゃない、と私が抗議する前に、マークは私にビシリと指を突き出した。
「妊娠中は絶対に無理はしない事! どうしても仕事をしたいなら、勤務時間は絶対に厳守しろ! 残業も早朝出勤も禁止! 体調に少しでも異変を感じたら、自己判断せずに必ず医者に報告相談! これが守れないなら家で絶対安静だ! アラスター義兄上にも協力してもらって、しっかり見張ってもらうからな!」
「そんなあぁ!?」
うぐぐ、と私は歯噛みする。勝負は無効だ、と言い張る事は可能だったし、実際そうしてやろうかとさえ思ったが、マークは私を心配して言ってくれているのだ。しかも一応は魔法研究も認めてくれている。
私だって、いくら魔法研究がしたいとは言え、流石にお腹の赤ちゃんに負担をかけてまでしたいとは思っていない。万が一にも、赤ちゃんの命に危険が及ぶような事態を引き起こす訳にはいかないのだ。
「……分かったわよ……。我慢するわよ。出産までは」
「ああ。是非そうしてくれ」
頬を膨らませながらも渋々受け入れた私に、マークはほっとしたように微笑む。
「その代わり、出産したら我慢した分も魔法研究に没頭するからね!」
「あ、ああ……程々で頼む……」
頬を引き攣らせるマークから、何とか言質はもぎ取った。
内心ではまだ納得がいかなかったものの、私は大人しくマークに丸め込まれてあげる事にした。
以前の私なら、魔法研究の為なら徹底的に反論するなりマークの目を盗んで研究するなり、何らかの手段を考えて無理矢理実行するくらいの事はしていたかも知れない。だけど、マークが私の事を大切に思ってくれている事が分かるから、お腹の赤ちゃんの事が大切だから、マークの言葉を優先するのだ。
……どうやら私は、人生の全てを捧げるつもりだった魔法研究と同じくらい……いやそれ以上に、大切なものができてしまったらしい。自分の変化に少々戸惑いを覚えるが、悪い気は全くしなかった。
「……人生って、本当に何が起こるか分からないものね」
「え? 何か言ったか?」
そっとお腹に手を当てて、私がぽつりと呟いた言葉は、マークの耳には届かなかったらしい。
「エマ、もう一度言ってくれ」
「嫌よ」
「何で」
「絶対嫌」
私の変化をもたらした最大の要因は、間違いなくマークだ。その本人に面と向かって詳細を語るなんて事は、たった今自分の主張を譲歩したばかりの私にとっては、何だか気に食わなかった。我ながら素直じゃないなと思いつつ、不思議そうな表情をしているマークから顔を背けて、私はコップの底に残っている僅かな果実水を勢い良く飲み干した。




