43.エマの涙
エマをしっかりと腕に抱き、極力揺れないように森の中を疾走する。途中でエマの身体から力が抜け、ぐったりと動かなくなってしまった。
「おい、エマ、しっかりしろ!!」
呼び掛けても反応しないエマに、俺は青褪める。
(どうしてこんな事になってしまったんだ! 今朝はあんなに元気で、今度は絶対に負けないから、って俺と張り合っていたのに!!)
焦りながら、一刻も早くエマを救護班に診てもらわなければ、と急いだ。もうすぐ森を出る、という所で、駆け付けて来てくれた救護班と合流する。
「テッドさん! お願いします、エマを診てください!!」
顔見知りの国境警備軍救護班班長、テッドさんに縋り付く。テッドさんはその場ですぐにエマを診てくれたのだが。
「……取り敢えず、命には別状が無さそうです。ですが、ここでは落ち着いて診察ができませんので、取り急ぎ森を出ましょう」
「分かりました」
再びエマを抱き上げ、救護班と一緒に森を出て、仮設テントにエマを運び込む。本当はそのままエマに付き添っていたかったけれども、騎士団総帥としてキンバリー辺境伯と共に合同訓練を取り纏める立場である俺は、一旦救護班にエマを託すしかなかった。
「モルガン総帥! 何があったのですか?」
緊急事態を知らせる赤い煙を見て、他の隊も続々と森から出て来た。その中に居たキンバリー辺境伯に、真っ先に事情を話す。
「分かりました、モルガン総帥。後は任せていただいて構いませんから、モルガン所長に付いていてあげてください」
「すみません、本当にありがとうございます」
キンバリー辺境伯のお言葉に有り難く甘えさせてもらう事にして、俺は救護班のテントに向かった。テッドさんの診察を受けるエマは、力無く横たわっていたが、目は開けていて、俺は心底胸を撫で下ろした。
「エマ、気が付いたんだな……!」
「マーク……。ええ。心配かけてしまってごめんなさい」
意識を取り戻したとは言え、エマの顔色は悪く、ぐったりとしている。俺は心配でならなかった。
「テッドさん、エマは何処が悪いんですか……!?」
食い付くように尋ねた俺に、テッドさんは柔らかく微笑んだ。
「驚かれたでしょうが、心配は要りませんよ。恐らく悪阻が始まったのだと思います」
「「……悪阻??」」
俺とエマは目を点にして口を揃え、そしてお互いに顔を見合わせた。
「えっ……悪阻って……」
恐る恐るエマが尋ねる。
「おめでとうございます。妊娠されていますよ」
「妊娠……」
エマはぽかんとした表情のまま、恐る恐る自身のお腹に両手を当てた。俺も手を伸ばし、エマの手の上に重ねる。
「エマ、やったな! ありがとう……!!」
俺がエマの頭を撫でながら感極まってお礼を口にすると、エマの目からぽろりと涙が零れ落ちた。
「エマ!? どうしたんだ!?」
ぽろぽろと涙を零し始めたエマに、まさか妊娠が嬉しくなかったのか、と俺は慌てる。
「よ……良かった……良かったぁ……」
俺は戸惑いながらも、しゃくり上げながら泣き始めたエマの涙を指で拭った。
病気では無いと安心したからだろうか。それとも……。
以前、エマは妊娠できるのか、不安がっていた時期があった。俺はエマが居ればそれだけで幸せだからと、あまり気にしないように言っていたが、それだけではエマの重荷は取り除けなかったのかも知れない。あれからはエマも気にした様子は無く、いつも通りに振る舞っていたが、内心では思い詰めていたのだろうか。そうだとしたら、エマの悩みに気付いてやれていなかったのだと反省した。
「あ……、マーク、合同訓練は、今どうなっているの?」
暫く泣いていたものの、ハッと気付いたように尋ねてきたエマの言葉に、俺は我に返る。
「エマが急に原因不明で体調を崩してしまったから、森に異変が起こっている最悪の可能性を考えて、訓練は一旦中断して全員戻って来ている筈だ。体調不良は悪阻のせいで問題無かったのだから、訓練自体は続行できるって知らせに行かないと!」
「ええ!? 私のせいで訓練が中断してしまっていたの!? マーク、私は大丈夫だから、早く皆の所に戻って!」
「わ、分かった!」
顔を赤くした涙目のエマに急かされ、俺は慌ただしくテントを出て、皆と合流し、キンバリー辺境伯にエマの容体を説明した。
「そうでしたか! おめでとうございます!」
「ありがとうございます。まさか悪阻だとは思わず、お騒がせしてしまって申し訳ありませんでした」
「お気になさらず。緊急時の退却訓練にもなりましたから。そんな事よりも、奥様を大事にしてあげてください」
「ありがとうございます!」
俺達夫婦のせいで皆を振り回してしまった上に、あっと言う間に全員にエマの妊娠の情報が知れ渡ってしまって気恥ずかしかったが、皆温かく受け入れてくれた。
合同訓練はキンバリー辺境伯の指揮の下、そのまま続行してもらい、俺は救護班の人達と共に、キンバリー辺境伯邸にエマを運び込んだ。合同訓練の間は、キンバリー辺境伯邸でエマを看ていた方が安心だろう、と言う有り難いキンバリー辺境伯のお言葉に、恐縮ながら甘えさせていただく事にしたのだ。お子様もまだ生まれて間もないのだからと、一時は遠慮しようと思ったものの、エマを一人で王都に帰したり、国境警備軍の砦で救護班に交代で面倒を看てもらったりするよりは、キンバリー辺境伯夫人の事もあって慣れている人達に看てもらった方がずっと安心できる選択肢だったので、結局お願いする事にしてしまった。
しかも合同訓練の間中、訓練が終わると、キンバリー辺境伯の配慮で、俺までキンバリー辺境伯邸に滞在させていただける事になったのだ。本当にキンバリー辺境伯には頭が上がらない。落ち着いたら、キンバリー辺境伯家の方々に、十分にお礼をしないと。
「まさか妊娠しているとは思わなかったわ……」
エマの様子を見に行くと、俺に気付いたエマが、バツが悪そうにベッドの上でぽつりと漏らした。
「自分が妊娠しているって、分からなかったのか? その、生理が遅れているとか……」
「遅れるどころかこない時もあって、生理不順が治っていなかったから、全然分からなかったわ」
「……」
「ごめん、そんな目で見ないで。こんな大事になってしまって、流石にちゃんと反省しているから」
エマをじとりと見遣ったら、エマは顔を赤くしてシーツを頭から被ってしまった。
まあ、今回の事で、一番恥ずかしい思いをしたのはエマだろうから、俺もそれ以上は何も言わなかった。
後で聞いた話だが、エマは恐縮しながらも、キンバリー辺境伯夫人と過ごせる時間が増えて、内心では少々喜んでいたらしい。とは言え、キンバリー辺境伯夫人もお子様の事で忙しく、エマも流石に体調も優れず殆どの時間をベッドで過ごしていたので、あまり満足に話ができなかったようだが。
こんな時まで魔法研究の事を考えるとは、エマらしいと言うか何と言うか……。
そしてその後、合同訓練も無事に終わり、お世話になったキンバリー辺境伯家の方々にお礼を言って、俺達はキンバリー辺境伯領を後にした。エマの悪阻も少し治まった事もあって、無事一緒に家に帰る事ができ、俺は胸を撫で下ろしたのだった。




