41.夏の到来
「エマ、帰るぞ!!」
その声にハッとして顔を上げると、マークが目の前に立っていた。
「え、もうこんな時間なの? ごめん、後もうちょっとだけ……」
「エマ、その作業は明日でも良いだろう。最近残業が続いているんだから、疲れが溜まっている筈だ。今日はもう帰れ」
「ええー……。大丈夫なのに……」
お兄様にペンを取り上げられてしまい、私は溜息をつきながらも、渋々と席を立って机の上を片付けた。
「今描いていた模様、今までのものとは何だか違っていなかったか?」
廊下を並んで歩きながら、マークが尋ねてくる。
「ええそうなの! 良く分かったわね! 漸くネーロ国の古代文字の内容が分かってきたからヴェルメリオ国の文字に置き換えて魔法を発動できないか検証を始めた所なのよ!」
高価で希少な魔石に代わって、魔法効果を発動できる紙で、誰でも魔法を手軽に扱えるように、という私の魔法研究も、いよいよ大詰めだ。もうすぐ年に一度の国境警備軍との合同訓練が行われる。それまでに、ヴェルメリオ国の文字での検証をある程度行って、不明点を洗い出して、サラ様に相談できるようにしたいのだ。
そんな訳で、少し無理を言って早朝出勤と残業を重ねる日々が続いている。本音を言ってしまえば、合同訓練まで毎日徹夜で研究所に泊まり込みたいくらいなのだが。
「今の所上手くいっていないんだけど失敗作と元々の物と見比べながら何処が悪かったのか分析していたら細かな言い回しの違いが原因だって分かってきたからちょっとずつ単語を変えていったら段々上手くいくようになってきたのよ次こそは成功しそうな気がするから明日も早めに出勤して仕事したいんだけど良いかしら!?」
「……お前の体調次第だな」
「体調なら問題無いわ!」
「薄っすら疲れが滲み出ている顔で言われても説得力が無い」
「何でよ!?」
マークの指摘に不貞腐れていたが、研究所の外に出た途端、じわりとした熱気に襲われ、一瞬くらりと目眩がしてしまった。
「エマ!? 大丈夫か!?」
ふらついた私にマークが気付き、咄嗟に支えてくれた。
「……ええ、大丈夫。ここの所急激に暑くなったから、身体が付いていってないだけだと思う」
夏も近付き、最近やたらと暑くなったせいだろう。幸いな事に、目眩は少しじっとしていると、すぐに治まった。以前は季節の変わり目に、しょっちゅう貧血による目眩を起こしていたが、これでも大分マシになった方なのである。マークのお蔭で、毎日きちんと食事と睡眠を確保できているからだろう。
「やっぱり、残業が続いているのが良くないんじゃないか? もう少し減らした方が……」
「ええ!? 大丈夫よ、マークに貰った疲労軽減効果のある首飾りだって着けているし、以前は貧血からくる目眩や吐き気なんて、日常茶飯事だったんだから!」
ただでさえ合同訓練まで日にちが無いのに、これ以上時間を減らされたくなくて、私はマークに抗議する。
「そんな状態が日常茶飯事で全然大丈夫じゃないって事は、流石に今は良く分かっているんだろうな?」
「ハイ……」
怖い顔をしたマークにギロリと睨まれてしまい、私は小声で答える。
「なら、そんな以前の状態との比較が無意味だっていう事も、過労で倒れてしまって魔法研究ができなくなったり、合同訓練に参加できなくなったりする前に、きちんと体調を整えた方が良いって事も分かるよな?」
「ハイ……」
マークの指摘が正論すぎて、私はそっと目を逸らした。確かに、今無理をして身体を壊して、合同訓練に参加できなくなる……もとい、サラ様にお会いして魔法研究の話ができなくなってしまう事だけは避けたい。
「全く……。取り敢えず、夏バテしないように食事はきちんと摂れ。貧血の可能性も考えて、レバーを使ったメニューを出すように頼んでおくか……。だが、おそらく過労が一番の原因だと思うから、兎に角今日はしっかり寝ろ。当然、明日の早朝出勤は駄目だからな」
「ええ!? そんなあぁぁ……」
すっかり肩を落としてしまった私に、マークは呆れたように溜息をついた。
不本意ながらもマークに従って体調を優先させながら仕事を進めた私は、何とか最低限やり遂げたかった分は終えて、得られた研究の成果を手に、合同訓練に参加する為にキンバリー辺境伯領に向かった。一年振りのキンバリー辺境伯領は、ヴェルメリオ国最北端に位置するだけあって、王都よりも涼しくて過ごしやすい。
「お久し振りです、サラ様!」
「エマ様、ようこそお越しくださいました」
国境警備軍の砦に着いた後、招待されたキンバリー辺境伯のお屋敷で再会したサラ様の腕には、可愛らしい赤ちゃんが抱かれていた。サラ様と同じ黒髪に、キンバリー辺境伯と同じ海の色の目をした男の子だ。
「先日は出産祝いをどうもありがとうございました。あのオルゴールに、とても助けられておりますわ」
「とんでもない。お役に立っているのなら何よりです」
先日、サラ様がご出産されたとの知らせを聞いて、魔道具店で入眠効果のあるオルゴールを注文して贈ったのだ。効果は私で実証済みなので、夜泣きが酷い時に使ってもらえればと思ったのだが、役立ててもらえているようで嬉しくなった。
「もし良かったら、抱いてやってもらえませんか?」
「えっ、良いんですか!?」
緊張しながらも、サラ様からそっとお子様を受け取る。初めて抱っこする赤ちゃんは、思っていたよりも重くて、全身ぷにぷにしていて、とても愛らしい。
(可愛いなぁ……。アリスお義姉様も、もうすぐご出産される予定なのよね)
結婚も出産も興味が無かった筈なのに、赤ちゃんを腕に抱いていたら、何だか羨ましくなってきてしまった。
もっと抱いていたいような気もしたけれども、腕の中で赤ちゃんが元気良く手足を伸ばして動き始め、大人しく抱っこされてくれなくなってしまった。何時か落としてしまいそうで怖くなったので、早々にサラ様に交代していただいた。
お子様も生まれて、サラ様も大変だろうからと、負担にならないようにできるだけ手短に魔法研究の成果を語り合う。サラ様に試して欲しい幾つかの試作品をお渡しし、結果はまた追々知らせていただける約束を交わした。勿論、お子様を優先してもらい、余裕があればで構わないから、と念押しするのは忘れていない。
「サラ様のお蔭でネーロ国の古代文字の解読が進んで本当に助かりましたわ現在はヴェルメリオ国の文字に置き換えている所ですが細かな言い回しの違いや微妙なニュアンスで魔法が発動したりしなかったり致しますのこちらについてもその都度相談させていただく事になるかと思いますがどうぞ宜しくお願い致しますわ!」
「ええ。私にできる事なら、何なりとお申し付けください」
サラ様と魔法について語り合うのは本当に楽しくて、充実した時間を過ごさせてもらい、お言葉に甘えて食事まで一緒に頂いたものの、お泊まりのお誘いは辞退した。本音を言えば泊まり込んで、サラ様とまだあれこれ語りたかったけれども、まだ幼い赤ちゃんが居て色々大変だろうから、そこまでご迷惑をお掛けしたくはない。
「あー、楽しかった! お願いした試作品の結果を聞くのが楽しみだわ!」
砦に戻る馬車の中で、楽しい時間が終わるのはいつもあっと言う間だな、としみじみ思っていると。
「明日からの訓練も楽しみだな。エマ、また勝負するか?」
楽しげに提案してきたマークに、私もにっと笑顔を返す。
「勿論よ! 今回は負けないんだからね!」
「次も俺が勝つ!」
「私が絶対に勝つわ!」
魔法研究から頭を切り替え、明日以降の訓練に思いを馳せながら、次こそはマークに勝つ! と私は気合を入れるのだった。




