4.新婚初夜
(ああもう、疲れた!)
入浴を終えた私は、どさりと大きなベッドの上に倒れ込んだ。
あれから色々大変だった。式の途中で倒れてしまった新郎に周囲は慌てふためいて大騒ぎ。幸いにもお兄様が即座に気付け薬を持って来てくださったお蔭で、モルガン総帥はすぐに意識を取り戻し、何とか無事に式を終える事ができたが、後もう少し対処が遅れていたら、結婚式が嫌になった私が新郎に一服盛るなり何なりして倒れさせたんじゃないかと、ケリー公爵家に疑われる一歩手前だったのだ。
誰がそんな事するか! 牢になんか入れられたら魔法研究ができなくなるだろうが!!
おまけに、それ以降は隣から何だか妙に物言いたげな視線を感じるようになってしまった。新郎を睨み付けたらフイッと視線を逸らされるが、正面を向いたらまた視線が送られてくる。完全無視を決め込んだが、いい加減鬱陶しかった。
その後は、予め荷物を運び終わって後は私達が入居するだけになっていた新居に到着して、今に至る。一応今夜が新婚初夜な訳だが、気が重くて仕方がない。
(まさかとは思うけれども、昼間に私のせいで恥をかかされたとか言い掛かりを付けて、乱暴に犯してこないわよね?)
魔術師として怪我人や病人の手当てをする都合上、夜の営みの事については経験は無いが知識だけはしっかりと学んでいる。信用の置けない男に己の身を全て委ね、手酷くされても甘んじて受け入れるような殊勝な心掛けなど更々無い。
(それとも、すっぽかされる可能性の方が高いかしら……?)
何しろ、相手はキスしただけでぶっ倒れるくらい、私の事を嫌っているのだ。折角私のファーストキスを仕方なくくれてやったと言うのに、思い出しただけでも腹が立つ。
まあ、実質一生する事が無いと思っていたファーストキスをくれてやったくらいでは、私は痛くも痒くも無いのだが。
(まあどちらにしろ、そんな相手を待つ義理なんて無いわね。今日は疲れたし、さっさと寝よう)
折角お風呂上がりに香油を塗り込み、セクシーな下着を用意してくれた新居のメイド達には悪いが、私はさっさとベッドに潜り込むと、すぐに深い眠りに落ちていった。
***
(嘘、だろ……!?)
結婚式からずっと愕然としたままの俺は、風呂に入るなり水を頭から被った。
(まさかあいつが、『幻の令嬢』だったなんて……!!)
事の発端は四年前に遡る。
当時十六歳となり成人したばかりの俺は、国王陛下主催の夜会で社交界デビューを果たした。父上の後に付いて、国王陛下を始めヴェルメリオ国の重鎮達に挨拶して回り、一段落した後は友人を見付けて談笑する。夜会も終盤に差し掛かり、そろそろお開きかと思っていた時、俺の目に一人の令嬢が飛び込んできた。
美しく編み込まれた艶やかな黒髪、エメラルドのように鮮やかな緑色の目、桃色に色付いた唇に、抜けるように白い滑らかな肌。俺の心臓はかつてない程に暴れ出し、視線が彼女に釘付けになる。
「マーク、そろそろお暇しようかってお父様が……マーク?」
その声に我に返って振り向くと、俺のパートナーとして出席していた姉上が首を傾げていた。
「姉上、あのご令嬢は何処の家の……あれ?」
彼女から目を離したその一瞬の隙に、俺は彼女を見失ってしまい、その後はどれだけ捜しても見付からなかったのだった。
それからは寝ても覚めてもその令嬢が忘れられず、俺はあらゆる伝手を使って彼女を捜し始めた。黒髪に緑の目の妖精のように可憐な令嬢で、デビュタントの証である白いドレスを身に纏っていたので、おそらく俺と同い年の十六歳。だがこれだけの情報があっても、彼女は一向に見付からず、どんな夜会に出席しても、彼女の姿を再び目にする事は無かった。
その頃には、社交界デビューした事で俺にも幾つか縁談が舞い込んできていたが、全て断ってもらった。幸いケリー公爵家は、ベネット公爵家と並んで王族に次ぐ地位にあり、政略結婚などする必要がない。父上と母上も恋愛結婚だった事もあってか、家族は理解を示してくれた。
後はあの令嬢を捜し出し、俺の気持ちを伝えて求婚するだけなのに、四年の歳月が流れても未だに彼女が見付からない。終いには、あの夜会で幻でも見たんじゃないのか、と友人達に苦笑されるようになり、彼女は何時しか『幻の令嬢』と呼ばれるようになってしまった。
これだけ捜しても見付からないなら、俺が一目惚れした令嬢は、本当は夢か何かで見た幻だったのかも知れない。たとえ現実にいたとしても、あれからもう四年も経っているのだから、彼女は既に誰かと結婚していて子供もいてもおかしくはない。
少しずつそんな思いが頭の片隅を過ぎるようになってきた時だった。
『両家の和解、その象徴として、お前達の結婚を命じる!』
国王陛下には、護衛の任務をしていた時に、雑談の流れで『幻の令嬢』について話した事があった。だから陛下は俺の気持ちを知っている筈なのに、いくら俺達の自業自得とは言え、そんな残酷な命令をするのかと、一時は頭が真っ白になってしまった。
だけど、これは良い機会だったのかも知れない。何年捜しても見付からない彼女の事はいい加減に諦めて、国王陛下への忠誠を示す為にも、俺はベネット所長と結婚して両家の橋渡しとなる役目を果たすのだ。
とは言え、彼女は俺の事を嫌っている。お互いに愛し愛される、温かい家庭を築く事が、俺のささやかな夢だったが、彼女相手ではそれすらも叶える自信が無い……。
そんな思いで項垂れながら、結婚式に臨んだ俺は、新婦のヴェールを上げて息を呑んだ。
綺麗に纏められた美しい黒髪、変わらないエメラルドのような目、記憶より少し大人びた顔立ちの彼女は、紛れもなく俺があの日夜会で一目惚れした『幻の令嬢』だったのだ!!
(ベ、ベネット所長が、『幻の令嬢』だったのか……!?)
思えば彼女はノーマークだった。凄腕の魔術師ではあるものの、それ以外は実にいい加減で、可憐な雰囲気とは程遠い生意気な女性。長年お互いにライバル視してきたくせに、彼女が何時もフードを目深に被っていたせいで、俺は間抜けにも彼女の顔はおろか、髪の色も目の色も知らなかったのだ。
動揺のあまり、俺は都合の良い夢でも見ているのではないか、それともベネット公爵家が卑怯にも『幻の令嬢』の弱味でも握ってベネット所長の替え玉として使ってきたのではなかろうか、と俺が混乱していると、彼女は俺の襟元を引っ掴んできて唇を奪われてしまった。
(お、俺のファーストキスが……!!)
こんな暴挙に出る彼女は間違いなくベネット所長だと確信したものの、衆人環視の結婚式の中、新婦の方から口付けをさせてしまうという失態を犯した俺は、ショックと情報過多によるパニックで、情けなくも気絶してしまったのである。
幸いにも、ベネット副所長のお蔭で俺はすぐに意識を取り戻す事ができたが、俺の混乱は収まらなかった。微笑みながら来賓客の相手をしている新婦は、『幻の令嬢』そのものなのに、時折俺を睨み付けてくる嫌悪を含んだ鋭い視線は、間違いなくベネット所長のもの。結婚式が終わっても、そして新居に到着しても、俺は少しも冷静になれず、再び水を頭から被る。
(待て。兎に角落ち着こう)
今日一日だけで色々な事が起こり過ぎて未だにその衝撃が拭えないが、大切なのはこれからの事だ。俺はこの先もずっとベネット所長と仲違いして、ギスギスした家庭にだけはしたくない。今までの事はお互いに水に流して、一から俺達の関係性を築き直して、彼女の事をもっとよく知る努力をして……、できれば、彼女と愛し愛される、温かな家庭を築きたい。
その為には、彼女と初夜を迎える前に、きちんと話し合う必要がある。
少しは頭の中が整理できた俺は、ちょっとばかりの期待と下心を抱きつつ念入りに身体を清めて身支度を整え、緊張しながら夫婦の寝室の扉をノックした。だが中からは何の返事もない。
まさか、と思いながら音を立てないようにそっと扉を開けると、俺の想い人は、広いベッドのど真ん中で、すぴょすぴょと呑気な寝息を立てながら爆睡していたのだった。