19.エマの世界
「エマ!! エマ!!」
結界の中のエマに必死になって呼び掛けるが、再び作業を始めてしまったエマは、ピクリとも反応しない。
「すまない、マーク……。俺のせいだ」
その声に振り返ると、アラスター義兄上が青褪めていた。
「最近は確かにエマも大人しく言う事を聞いてくれていて、待って欲しいって言うのは久し振りだったのに、耳を貸さずに頭ごなしに否定してしまった……。俺の責任だ。本当にすまない」
謝罪と共に深く頭を下げる義兄上に、俺は恐縮しながら頭を上げてもらう。
「アラスター義兄上のせいだとは言い切れませんよ。俺と結婚した事でエマも環境が変わりました。上手くやっているつもりでも、知らず知らずのうちに俺が彼女に無理をさせてしまっていたのかも知れません……。それが偶々今日、爆発してしまった事だって考えられます」
「そうかも知れないが……。だけど、エマがこんな事をするとは。ここまでエマが癇癪を起こす事なんて、滅多に無いんだが……」
義兄上の言う通りだ。エマは口では文句を言いつつも、結局はいつも俺達の言う事を聞いてくれていた。今日も普段と同じような遣り取りをしていたのに、エマはどうしてここまで激怒してしまったのだろう。
だが、癇癪、という言葉を聞いて、ふと一つの可能性が俺の脳裏を過った。だけど今は、そんな事はどうでも良い。
「アラスター義兄上、エマの結界を解く、何か良い方法はないのですか?」
俺の質問に、義兄上はゆっくりと首を横に振った。
「エマの結界は頑丈過ぎて、無理に壊そうとしたら、この部屋や建物の方に被害が及んでしまう。こうなってしまったら、エマの集中力が切れて昏倒して、結界が自然に解けるのを待つしかないんだ」
「……それは、どれくらいかかりますか?」
尋ねながら、以前義兄上が『二徹三徹は当たり前』と言っていた事を思い出してしまった。嫌な予感がする。
「少なくとも、数日はこのままだろうな」
「そう、ですか……」
義兄上の手前、できるだけ隠そうと試みたものの、落胆せざるを得なかった。
「皆もすまない。エマは暫くこのままだと思うが、以前と同様、何かあった時は俺が対処する」
「分かりました、ベネット副所長」
「大丈夫ですよ、副所長。モルガン所長がご結婚される前は、ほぼ毎日こんな感じだったじゃないですか」
「そうですよ。流石に結界までは張られていませんでしたが。私達も慣れていますから、問題ありません」
(慣れているのか……)
義兄上と研究員達の遣り取りに、俺は何とも言えなくなってしまった。
「マーク、申し訳ないが、今日は一人で帰ってくれないか?」
「……エマに付いている事は、やはり難しいでしょうか?」
部外者である俺が研究所に居座る事は難しいと分かっていたが、訊かずにはいられなかった。
もし、エマの集中力が切れた際に、倒れ込んで頭を打ってしまったら? 打ち所が悪くて、そのまま帰らぬ人になってしまったら?
そう思うと、このままエマを放って帰る事なんてしたくなかった。以前エマが、『頭から大量に出血した』と言っていたから、余計に。
「……気持ちは分かるし、エマを心配してくれて兄としても嬉しいが、今日は家に帰ってゆっくり休んだ方が良いだろう。どうせ今日だけでなく、明日も明後日もエマはこのままの状態だと思う。今から仮眠室に泊まり込んでエマに付き添っていたら、エマの集中力が切れる前に、こっちが参ってしまうよ」
「……そう、ですね」
俺としては体力には自信があるので、長丁場になっても問題は無く、エマが結界を解くまではずっと研究所に泊まり込みたかった。だが義兄上に迷惑を掛けてまで研究所に居座るのは本意では無いので、大人しく引き下がる。
「その代わり、明後日くらいからは仮眠室を使用できるよう、許可手続きをしておくよ。君はエマの夫なのだから、それくらいは何とかする」
「ありがとうございます」
義兄上に頭を下げ、黙々と作業するエマを見つめた後、後ろ髪を引かれる思いで研究所を後にする。エマが居ない馬車の中は、何だか酷く広くて空虚な空間のように思えた。
「お帰りなさいませ、旦那様。奥様は……どうされたのですか?」
「それが……」
家に帰り、出迎えてくれたサイラス達に事情を話すと、皆一様に額に手を当てた。
「遂にこの日が来てしまいましたか……。まあ、意外ともった方ですね」
「そうですね。思っていたよりは、お二人の関係も良好でしたし」
「お前達……」
あまり動じていない使用人達を前に、俺は顔を引き攣らせずにはいられなかった。
魔法研究所でもそうだったが、俺以外は皆、この事態には慣れているようで、エマの事を本気で心配している人は、あまりいないような気がする。結界の中に数日もの間徹夜でずっと閉じ籠もるという、どう考えても普通では無い状況なのに、皆大した事ではないように振る舞っていて、慌てたり心配したりしているのは俺だけのような……。普通は心配する所だと思うのだが、俺がおかしいのだろうか?
翌日、仕事前に様子を見に行った時も、仕事終わりに研究所に寄った時も、エマは変わらずそのままの姿勢で机に向かっていた。その翌日、研究所に泊まり込む許可が下りた日も。
「流石に機密情報満載の研究所内で、マーク一人に付き添わせる訳にはいかなかったからね。俺も一緒だけど」
「ありがとうございます。心強いです」
そう言いながらも、数時間後にはぐっすり眠り込んでしまった義兄上に、ずれた毛布を掛け直して、エマを見つめる。
目元に隈ができ、大分やつれてきたように見えるのに、エマは何時見ても同じ姿勢のままペンを走らせている。よくこれだけ長い間、集中力が持つなと感心する。こんな状態なのに、口元は弧を描いていて、実に楽しそうですらある。
これがエマの世界なのかな、と漠然と思う。魔法研究さえあれば、それで満足してしまうエマの世界。そこは強固な結界に阻まれて、俺が入り込む隙間など何処にも無い。
エマは何時でもこの環境にする事が可能だったのだ、と改めて実感する。結婚してからと言うもの、俺が色々と努力して、エマと少しは近付けたような気がしていたが、それはエマの協力があってこそだったのだ。エマがその気になれば、何時でも俺との結婚生活を拒否して、容易に自分の世界に閉じ籠もる事ができたのだ。俺はエマが居ない家、エマが居ない生活に、こんなにも喪失感でいっぱいだと言うのに。
少しでもエマの中に、俺の存在を刻み込みたい。それ以前にエマには二度とこんな事をしてもらいたくない。その為にも、義兄上に頼るばかりでなく、夫である自分が、しっかりとエマの要望に耳を傾け、手を差し伸べて、少しでも信頼を得て、好かれる努力をしていかなければならないのだと反省した。
翌日もエマは変わらず作業に没頭していて、俺は多少の睡眠不足を感じながら仕事に向かう。三徹のエマに比べれば、俺の眠気などどうと言う事は無い。それにそろそろエマの集中力が切れるかも知れないと思うと、心配でそれどころでは無い。
昼間は義兄上や研究員達にエマを任せ、昼休憩の間に仮眠を取っておく。そして仕事が終わると、再び魔法研究所に向かう。エマはまだ結界を張ったまま机に向かっていた。
(このまま、エマが自分の世界に閉じ籠もってしまったらどうしよう)
そんな恐怖が背筋を駆ける。エマの魔法研究への執念に恐れおののきながら、その夜は一睡もできずにエマを見つめていた。
翌朝、朝日が研究室内を照らし始めた頃、突然エマの手からペンが転がり落ちた。結界が消え、エマの身体が椅子から崩れ落ちる。
「エマ!!」
咄嗟に飛び込みながら手を伸ばし、エマの頭と床の間に滑り込ませ、頭部の強打だけは何とか避ける事ができた。
エマはそのまま、丸一日半、死んだように眠り続けた。




