16.頼れる従妹
やってしまった。マークを怒らせてしまった。
ケリー公爵夫人に指摘されてからというもの、『お互いに愛し愛される、温かい家庭を築く』というマークの夢を叶えられないかと思い、まずはマークと少しは夫婦……せめて恋人っぽく過ごせないか、と無い知恵を振り絞った結果、眠る振りをして寄り掛かってみたけれども、マークは全身を強張らせるだけだった。
失敗した。元々嫌っていた女にいきなり寄り掛かられても嬉しくは無いだろう、という事に遅ればせながら思い至る。少し考えれば分かる事なのに。
マークに拒否されなかった事がせめてもの救いだと思いつつ、次はもう少し些細な所から改善していこうと考えた。研究所にマークが来た時は、仕事のキリが悪くても極力反発せずに受け入れる所から始めてみたけど、これでは幾ら何でも些細過ぎる。
おまけに実家では子供の頃の話を暴露され、マークに愛想を尽かされるなと、家族から言われてしまって散々だった。これでは逆にマークに呆れられてしまうだけだ。
恋愛なんてした事も無いし興味も持てない私では、『お互いに愛し愛される』なんてハードルが高過ぎる。只でさえ犬猿の仲だったマークとそんな関係になるだなんて、もう微塵も想像できなくなり、いっその事別の女性とそういう仲になってもらった方が、マークにとっても良いんじゃないかと思って提案したら、このざまだ。
マークは本気で怒っていた。今まで言い争いは散々してきたけれども、あそこまで激怒したマークは見た事が無い。マークは私だけを妻とし、愛人は作らないと断言したが、こんなにマークを怒らせてしまう私ではやっぱり無理だ、と思った途端、自分がどうしようもない欠陥品であるような気がして、涙が込み上げてきてしまった。
結婚したのが、せめて私じゃなかったら、マークも夢を叶えられていただろうに。
家に着いて馬車を降りても、夕食の席で顔を合わせても、マークは一言も喋らなかった。ずっとこのままだったらどうしよう、と嫌な想像ばかりしてしまう。
……おかしいな。そうなったら研究所に泊まり込む前の生活に戻るだけなのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるんだろう。
何とかマークと仲直りしたいけれども、人間関係の機微に疎い自覚のある私では、どうしたら良いのか分からない。どうしよう……と困り果てた所で、こんな時に頼れそうな人物が頭に浮かんだ。
ララ・コールマン伯爵令嬢。母方の従妹である彼女は二つ年下だが、昔から私よりもしっかりしている、金髪碧眼の可憐な見た目ながらも大人びた淑女だ。お兄様の婚約者でもある彼女は、社交界デビューしてからというもの、着々と人脈を広げていて、私の貴重な情報源でもある。
誰とでも良好な人間関係を築ける彼女なら、マークと仲直りする良い方法を教えてくれるかも知れない。他の人なら下手をすれば、私とマークが喧嘩した噂を、面白可笑しく広められてしまう心配があるかも知れないが、今まで色々な事を相談してきた、信頼のおける従妹であり未来の義姉なら、内輪の揉め事を公にするような真似はしないだろう。
私は夜明けを待って、早速コールマン伯爵家に使いを出した。幸いララからはすぐに返事を貰う事ができ、急いでコールマン伯爵家にお邪魔する。
「相変わらず急な訪問ね。私に相談があるって事は、新婚の旦那様と喧嘩でもしたのかしら?」
「ど、どうしてそれを……」
人払いしてもらったテラスで向かい合うや否や、いきなり核心を突いてきたララに、私は狼狽える。
「食事や睡眠すらそっちのけで魔法第一のエマが、わざわざ私に会いに来る時は、大体社交界の情報が欲しい時か、人間関係に悩んだ時って相場が決まっているのよ。前者だったら流石に私の都合も訊いてくれるけれど、急に会いたいって言う時は決まって後者、それも誰かと仲直りがしたい時。今貴女が喧嘩しそうな相手と言えば、不仲で有名だったのに結婚した旦那様のマーク・モルガン騎士団総帥くらいしかいないでしょう?」
「さ、流石ララ……」
見た目は可愛らしいお人形のような深窓のご令嬢なのに、私に対してだけはズバズバと辛辣な物言いをするララに舌を巻く。もう少し手加減して欲しい所だが、子供の頃から色々とお世話になり迷惑を掛けている自覚はあるので、彼女には頭が上がらない。
「それで? 喧嘩の詳細は?」
「ララも知っての通り、私は魔法研究に集中したら周りに気付かなくなる性質だから、いい加減にマークに呆れられたんじゃないかと思って。マークの夢が、『お互いに愛し愛される、温かい家庭を築く事』だと知って、元々悪印象しかなかった私じゃ無理だって思ったの。いっその事他の女性とそういう関係を築いてもらった方が、マークにとっては良いんじゃないかと思って提案したら、激怒されちゃって……」
「それは怒るわよ……」
私の話を聞いたララは、頭を抱えて深い溜息を吐き出した。
「エマったら、何でそんな事を言ってしまったのよ? モルガン総帥がエマにベタ惚れだという事は社交界でも有名な話よ? 好きな女性から愛人の提案なんてされたら普通はショックでしょう。モルガン総帥に同情するわ……」
「違うわよ! あれは私が魔法に集中していても、マークの呼び掛けには反応する事が分かって、マークが毎日研究所に来てくれるようになったら面白可笑しくそう広まってしまっただけで! 王命で政略結婚した以上、私達も仲が良くなったって思われた方が都合が良いから表立って否定できなかっただけで……! 表面上は取り繕えるようになったけれども、私達はまだ好きとかそういう関係じゃないわ」
言葉尻が尻すぼみになる。自分で言っていて、何だか虚しくなってくるのは気のせいだろうか。
「本当に? じゃあモルガン総帥は何て言って怒っていらっしゃったの?」
「え……ええと確か、『ふざけるな、俺の妻は、お前一人だ、俺は愛人なんか作る気は無い、今後二度とそんな事は言わないでくれ』って……」
「どう聞いても貴女への愛の言葉だとしか思えないけど?」
「だから、そんな訳ないんだって!」
「ふーん。じゃあ百歩譲って、エマはどうしてモルガン総帥がそんなに怒ったと思っているの?」
ララが呆れたような視線を寄越してくる。
「私が愛人なんか提案したからよ。マークは忠誠心が強くて真面目だもの。国王陛下に命じられて私と結婚した以上は両家の仲を取り持つ役割を果たそうと、私達が仲良く見えるよう色々考えてくれているの。それなのにマークが愛人を作ってしまったら、私の実家が黙っていないし、やはり不仲なのだと思われかねない事を、私はすっかり失念してしまっていたわ。マークはそんな不誠実な、王命を軽んじるような人間じゃないって怒ったのよ」
「あらまあ……魔法以外はポンコツなエマにしては、意外と筋が通ってしまっているわね」
「ちょっとララ、ポンコツって酷くない?」
「あら、自覚が無いとでも?」
「あるわ」
自分がポンコツでないのであれば、ララに相談しにここに来ていない。がっくりと項垂れる私を尻目に、ララは優雅に紅茶を口に含んだ。
「まあいずれにせよ、モルガン総帥と仲直りしたいんでしょう? 貴女の誠意を示して謝罪するしかないんじゃないかしら?」
「すぐに謝ったんだけれども、まだギクシャクしたままなのよ。もうどうしたら良いのか分からなくて……」
「そうね……。こういう時は、何かプレゼントを用意するのが定石かしら? 相手が喜びそうな物とか、刺繍入りのハンカチとかが定番よね」
(マークが喜びそうな物……)
そう考えて、今更ながらマークの好きな物を知らない事に気が付いた。夫の事が何も分からないなんて、やっぱり私は妻失格なのかも知れない。
「刺繍入りのハンカチ……は、作り上げるまでちょっと時間がかかるんじゃないかしら? その間ずっとマークと気まずいままなのも嫌だし……」
「そうね。後エマの事だから、刺繍を刺す時間があったら魔法研究をしたいとか言いそうよね」
「返す言葉もございません」
折角それらしい建前を並べたのに、ララに本音を見抜かれてしまった。
(他に、何か私ができる事……あっ!)
あった。私ができる事。私だからできる事!
「ララ、急用ができたから帰るわ! 相談に乗ってくれてありがとう! これお礼ね!」
家から持って来た、私特製の美容液をララに渡す。魔法薬のついでに作ったものだ。
「あら、ありがとう! これ本当に良く効くのよね」
急いで帰ろうとして、もう一つララに訊こうと思っていた事を思い出した。
「ねえララ、『幻の令嬢』って知っている?」
ランドルフ第二騎士団長と、ケリー公爵夫人が口にしていて、ちょっと気になっていた言葉。社交界に詳しいララなら、何か知っているかも知れない。
「『幻の令嬢』……? ああ、聞いた事があるわ。確かモルガン総帥が夜会で一目惚れして、ずっと捜し続けていた令嬢の事が、何時の間にかそう呼ばれるようになったとか何とか」
(マークが、一目惚れ……?)
何故かその言葉は、私の心に重く伸し掛かった。
「……どんなご令嬢か、分かる?」
「そうね……。星が煌めく夜空のような美しい黒髪に、輝くエメラルドのような鮮やかな緑の目、純白のドレスよりも白く滑らかな肌の、清楚で可憐で妖精のような美しいご令嬢、だったかしら?」
「……それって、何処の家のご令嬢かしら?」
「それが、結局分からずじまいみたいよ。ケリー公爵家の伝手を駆使して四年の歳月を費やしても、見付けられなかったんですって」
「そう……」
マークは、国王陛下に政略結婚を言い渡された時、どう思ったのだろう。四年も想い続けた女性が居たのに、結局こんな言い争いばかりしていた行き遅れの問題児を娶らされて、どんな気持ちで私と本当の夫婦になりたいと言ったのだろうか。
「ま、まあ気にする事ないんじゃないかしら? 噂には尾ひれが付くって言うし、何処まで本当の事か分からないわよ? それにモルガン総帥は『俺の妻は、お前一人だ』って激怒されていたのよね? 過去はもうどうしようもないんだし、今のモルガン総帥はエマだけを見ていらっしゃるのだから、エマもモルガン総帥の気持ちに応えられるように努力すれば良いだけよ」
「そ、そうよね」
笑顔を作ってララに別れを告げ、馬車に乗り込む。
(……そっか。マーク、好きな人居たんだ……)
マークが一目惚れして、四年も捜し続けた、清楚で、可憐で、妖精のように美しい、まるで私とは正反対なご令嬢。彼女の存在は、私も気付かないまま、抜けない刺のように胸に突き刺さってしまった事に、この時の私はまだ気付いていなかった。




