15.エマの変化
「マーク。新婚生活はどうだ?」
エマが席を外すと、父上に話があると呼び出され、父上の執務室で向かい合わせに座った。常に睨み付けてくるような印象を受ける強面の父上に、笑顔で答える。
「そうですね、思ったよりは順調ですよ。エマとは何とか上手くやれていますし、陛下が用意してくださった新居も居心地が良いですし。今の所不満はありません」
後はエマと本当の夫婦になれたら、とは思うが、こればかりは難しいかも知れない。
元々結婚願望が無く、魔法研究に一生を捧げるつもりだったエマに、会う度に口喧嘩に発展して印象が最悪だったであろう俺に好意を持ってもらうなど、いくら何でも難易度が高過ぎる。少しでも意識してもらえないかと、通勤や昼休憩、休日は手伝いを口実に、できるだけエマの傍にいるようにしたり、ドレスやアクセサリーを贈ってみたりもしたが、全て反応は薄かった。俺だけが彼女に片想いしている状態だ。
いっその事、俺の気持ちを全て打ち明けてエマに縋ってしまいたいが、好きでも何でもない……もしかしたら本心では嫌ったままかも知れない俺に迫られてしまえば、間違いなくエマは逃げ出して研究所に籠ってしまい、家に帰って来てくれる今の生活すら失ってしまうかも知れない。それが怖くて、夜の夫婦生活はおろか、キスすら結婚式に一回した、いや無理矢理させられただけのままである。何とかして彼女との関係を先に進めたいのだが……。
「……そうか。それなら良い」
父上はそれだけ聞くと、立ち上がって部屋を出てしまった。俺も父上の後に付いて応接間に戻る。
強面で口数が少なく、下手をすれば家族にすら誤解されてしまう父上だが、俺を心配してくれているのは分かる。俺が政略結婚する事になった時は、俺が『幻の令嬢』を想っていると知っていた父が、陛下の理不尽とも思える命令に激怒するあまり倒れるくらいだったのだ。あの時は本当に焦った。
父上達にこれ以上心配をかけない為にも、早くエマと両想いになりたい所だが、どう頑張っても長期戦になってしまうだろう。
切ない気持ちを抱えながらエマと実家を後にする。帰りの馬車の中のエマは、何だか元気が無いように見えた。
「エマ、今日は本当にありがとう。疲れただろう?」
エマにとっては、ただでさえ気を遣うであろう義実家で、兄上を心配するあまりエマを警戒する家族の前で、兄上の治療を行ったのだ。疲れるのも無理はない。
「……そうね。流石に少し疲れたわ」
「家に着くまで少し眠ったらどうだ? 多少はマシになるかも知れない。着いたら起こしてやるから」
「……じゃあ、お願いしようかしら」
そう言うと、向かいの席に座っていたエマは、何故か立ち上がって俺の隣に座り、俺の肩に頭を預けた。
「!?」
思わぬエマの行動に、俺はビクリと身体を震わせる。
「あ、やっぱり嫌だった?」
「い、嫌じゃない!」
すぐさま身体を離そうとしたエマを、俺は慌てて引き寄せて、再度俺に凭れさせる。エマは大人しく俺に身を預けたまま、目を閉じてしまった。
(い、一体何がどうなっているんだ……!?)
きっと俺の顔は今、みっともなく真っ赤になっている事だろう。身体の側面に感じるエマの温もりに、どうしても意識が集中してしまう。引き寄せた時に触れたままのエマの肩の細さに、思わず力を入れて抱き締めたくなってしまう。無防備なエマの寝顔に、思わず口付けたくなってしまうが、まさかそんな事をしてエマを起こす訳にもいかず、エマに嫌われてしまうのも怖くて、俺は家に着くまで一人、何が何だか分からないまま、馬車の中で硬直していた。
「ねえ、来週末、私の両親が家に来なさいって言っているんだけど、どうする?」
家に帰って夕食を摂っていると、エマが唐突に口を開いた。先程の馬車での出来事の余韻に浸っていた俺には唐突過ぎて、危うく飲みかけのスープを噴き出しそうになった。
「ベ、ベネット公爵夫妻が?」
「ええ。私が今日ケリー公爵家を訪問する事をお兄様に話したら、両親の耳にも入ったみたいで、じゃあ今度うちにも挨拶に来て欲しいって」
義実家訪問はどうしても緊張するので気が重くなるが、まさか断る訳にもいかない。それに先日の夜会でも好感触だったから、多分何も問題は無いだろう。
「勿論伺わせてもらうよ。エマも俺の実家に来てくれたんだし、ベネット公爵夫妻にもちゃんと挨拶しなくちゃな」
「そう。じゃあ、お兄様経由で返事しておくわね」
という訳で、俺は翌週、ベネット公爵家を訪問した。
「よく来てくれたね、マーク君」
「お邪魔致します、ベネット公爵」
「水臭いな。義父と呼んでくれても良いんだよ?」
「で、ではお言葉に甘えさせていただきます、義父上」
ベネット公爵一家は総出で俺を歓迎してくれて、幾分か緊張を解す事ができた。広い庭が良く見える応接間でお茶会が始まる。あちらこちらに小ぢんまりと花が咲いている小綺麗な庭だが、よく見ると大半が薬草で埋め尽くされていると分かったのは、俺が日頃からエマを手伝っている成果だ。流石はエマの実家である。
「それにしても、本当に集中しているエマを気付かせられる人物が現れるなんて、夢にも思わなかったな」
「そうね。エマったら、子供の頃から一度集中したら梃子でも動かなくて、散々手を焼かされたのよ」
「そうだったのですか。エマは子供の時から変わらないのですね」
「そうそう。だから初めて見た時は目を疑ったよ。あのエマが気付いた!? ってね。あれ以来、マークを真似して俺も何度か試してみたけれど、全然エマは気付かなかったよ」
「ねえ、その話今しなくても良くない……?」
思った以上に会話が盛り上がる中、エマだけが不満げに顔を引き攣らせている。
「何を言っているんだエマ。こんな素晴らしい婿殿を絶対に逃がしてはいけないよ」
「そうよ。貴女ただでさえ魔法の事しか頭にないんだから、愛想を尽かされて捨てられないように、マーク様を大切になさい」
「そうだぞ。毎日わざわざお前の為だけに研究所まで足を運んでくれているんだから、しっかり感謝しろ。間違ってもぞんざいに扱うなよ」
「分かっているわよ。最近マークが迎えに来ても、前みたいに邪険にしていないでしょう?」
そうなのだ。
以前はエマを迎えに行けば、残業したいと不平不満を口にしながらも仕方なく一緒に帰る感じだったのに、ここ一週間程は、研究所に行けば素直に休憩したり帰る準備をしてくれたりしている。
何か心境の変化があったのだろうか? 俺にとっては喜ばしいから、是非継続してもらいたいのだけれど。
ベネット公爵家をお暇し、家に帰る馬車の中で、エマは拗ねたような膨れっ面をしていた。
「どうしたんだよ? エマ」
「……ない?」
「え?」
エマの声が小さくて、俺は思わず訊き返す。
「呆れてない? って訊いたの。……私、子供の頃からこんなだから、周囲に迷惑かけてばっかりだし。マークも嫌だったら、無理して私に付き合わなくても良いのよ? ちゃんと自分が結婚に向いていないっていう自覚はあるもの。別に私は、あんたに愛人が居ても気にしないから……」
「……は?」
エマの言葉は、俺の胸に突き刺さった。
少しは、距離を縮められているんじゃないかと思っていた。少しずつでも、これから本当の夫婦になっていきたいと思っていた。
……でもそれは、俺が一方的に思っているだけで、エマは相変わらず俺の事など歯牙にも掛けていなかった。
「ふざけるな!!」
馬車の中に響き渡った大声に、エマがビクリと身を揺らす。
「俺の妻は、お前一人だ!! 俺は愛人なんか作る気は無い!! 今後二度とそんな事は言わないでくれ!!」
気持ちを抑え切れず怒鳴る俺に、エマが青褪める。
「ご……ごめんなさい」
「……!」
エマの目に浮かぶ涙を見て、我に返った俺は頭を抱えて項垂れた。
やってしまった。エマを怯えさせてしまった。
こんな狭い空間で、体格の良い大男が声を荒らげれば、女性は誰だって恐怖する。そんな事も忘れて感情的になってしまった事を激しく後悔した。
ただでさえ低かった俺の好感度も、これで地に落ちてしまったに違いない。今までエマと言い争いは散々してきたが、一度だってエマは涙など見せた事は無かった。そのエマが泣きそうになってしまうくらいの恐ろしい思いを、俺がさせてしまったのだ。
こんな男とは一緒に居たくないと、エマが家を出て行ってもおかしくない。今までの生活を全て失ってしまうかも知れないと思うと、足元がガラガラと音を立てて崩れ落ちていくような感覚に襲われる。
「ごめん、エマ。大声なんか出して」
エマの顔を見られなくて、そのままの姿勢で謝罪する。
「いいえ、私の方こそ、ごめんなさい……」
エマの蚊の鳴くような声を最後に、馬車の中は沈黙が支配した。重苦しい空気は、家に着いても変わらなかった。




