4. 椎名泉、異世界へ転移する
「ッ……………!」
……澄んだ空気に、やわらかな土と新緑のにおい、川のせせらぎの音。
白い光に視界を覆われ目が眩んだが、視覚以外の五感が異空間からの脱出成功を教えてくれた。
「よ、かっ…た…………」
俺はとりあえず果てない異空間から抜け出せたことに安堵の声を漏らす。ストラップも腕を通ったままになっているので、トラックごと転移できたようだ。
川のせせらぎの音が聞こえているということは、転移時の「水のある場所へ」という俺の希望も見事叶えられたらしい。……とはいえ、喜んでばかりではいられない。なんせ俺の体は今死にかけの状態である。
……まずは状況確認。
俺は思うように動かない体に鞭をうち、首だけ動かして周りを見た。
どうやら俺は森の中に寝っ転がっている状態らしい。青々としげる木々は陽の光がすけて、なんともうつくしい情景を作り出していた。そしてすぐそばに小さな川が流れている。水底が透けて見えるほど透明できれいな水だ。
「と、とりあえず………みず…………」
俺はなんとか這って川辺に移動しようと四肢に力を込める。……が、しかし。ここに来てついに体が全く動かなくなってしまった。力の入れ方をすっかり忘れてしまったかのようで、もはや指一本動かせそうもない。
「うそだろ……せっかく、てんい、できた……のに………!」
目の前が徐々に真っ暗になっていく。
……あぁ、失敗した。脱水症状がこんなに急に進行するもんだなんて知らなかった。未知の能力だからってびびってないで、さっさと転移を試しておけばよかったのだ。俺の馬鹿。
ゆっくりとまぶたが落ちる。
しかし、ついに俺の視界が真っ暗に染まった、そんなとき――
『――!?――!!』
遠くの方で人の声らしきものが聞こえた。
……だれか、いる。
森の中にいる人間――現時点では善良な市民なのか、はたまた不審者なのかもわからないが、状況からしてこの人間にすべてを委ねるしかあるまい。
……そういえば転移するとき、俺は“自分を大事にしてくれる誰かがいる場所へ”――とも願ったな。もしかして、ここにそんな人間が居るのか? そう考えるのは都合が良すぎるだろうか。
俺は藁にもすがる思いで助けを求めようとしたが、喉が震えるだけで言葉にならない。しかし、声の主はだんだんとこちらに近づいてくるようだ。
頼む、気づいてくれ。助けてくれ。
そう祈りながら、俺の意識はぷつりと途切れた。
◆
――夢を見た。
「――椎名くん、次、この案件頼むよ。」
「え……これ、檀野先輩が担当してた案件ですよね。俺まだ入社半年ですよ、ちょっと荷が重いと思うんですが……」
「君は真面目に頑張ってくれてるんだしさ、やれるやれる!任せたからね!」
「……あの、引き継ぎ資料とかって……」
「そんなもん無い無い!あのね、いつまでも誰かに教えてもらえるっていう学生気分で居られたら困るよ。自分で判断してやってね!ね!頑張ってね!みんな期待してるんだから!」
「え……、いや、ちょ、あの」
入社半年後にして起こった、ろくな引き継ぎもない状態での担当変更。入社当時から理不尽と無茶振りが横行している雰囲気を察していたが、ここまで破綻しているとは思わなかった。
……案の定というべきか、この任された仕事は失敗した。
上長の俺を責める罵声に、蹴っ飛ばされるデスク、舞い散る資料、同僚たちの厳しい視線と言葉。
当時のことは、正直、ちゃんと覚えていない。ただ、あっちこっちから責められて、ボロクソに言われて、頭が真っ白になったことだけは、よく覚えている。
まるで鬼の化身みたいになった上司たちから開放されたのは、ちょうど日付が変わる寸前のころ。半ばひからびたような状態で、それでもなんとか家に帰った。
しかも間の悪いことに、そのとき運悪く実家から電話が来てしまう。取るつもりなんてなかったのに、疲れで手が震えていたせいか通話のボタンを押してしまった。
そしたらまぁ、いつも通り、出るわ出るわ俺への不満。
なんで電話に出ないのか、こんな時間まで何やってるのか、から始まり、まだ恋人はできないのか、お隣のチエちゃんはもう結婚して子供もいるのに、全くお前ときたら、みっともない、はずかしい――ノンストップのフルスロットルで吐き出される不平不満。
普段なら、ハイハイごめんごめんとするりと躱すはずが、この日の俺は本当につかれきっていた。
だからつい、その合間に、ぽつりと言ってしまったのだ。
「……仕事が、きつい」
――それは俺が初めて母に漏らした弱音だった。
その弱音は、別に慰めを期待してたわけじゃなくて、今はもうこれ以上責めないでほしいといいう意思表示だった。しかしそれをどう解釈したのか母はさらにまくし立てるように俺の非を追及する。
あんたの頭が足りないからだ、もっとまともな大学に入れていればいい会社に入れたはずなんだ、せっかく大学に入れてやったのに、やっと入れたのが零細企業なんて、情けないにもほどがある――、電話の向こうで兄弟たちの俺を嘲る声まで聞こえてくる。
そのとき、するりとスマートフォンが手から滑り落ちた。
それはガシャンという音を立てて、玄関のコンクリートに打ち付けられる。
画面はバキバキに割れて飛び散り、その隙間から基板がのぞいていた。真っ暗になってしまった画面に、感情が抜け落ちたような男の顔が写っていたのを、なんの感情もなく眺めていたことを、俺はよく覚えている。
――その日、俺の中のなにかがプツリといってしまったらしい。
ストレスから嘔吐癖がついた。
それでも飯を食わなきゃ人は死ぬ。
昼は10秒で流し込めるゼリー、夜は半額の惣菜を流し込んだ。
毎夜仕事に追われる夢を見るようになった。
それでも睡眠は取らなきゃ人は死ぬ。
全然眠れない日が続いたけど、目を瞑るだけでも休息になるという雑学を信じてベッドに潜り込んだ。
朝起きられなくなった。
それでも稼がなきゃ人は死ぬ。
俺は毎朝毎朝通勤電車で人の波に揉まれては精神をすり減らす。
死なないように生きるのに、いつしか俺は精一杯になっていた。
何もかも忘れたくて楽しいだけの異世界の物語に逃げ込んだ。
それでも月曜はやってきて、俺はまた現実世界へ出勤しなきゃならない。
メッセージアプリの通知がわずらわしい。
楽しげな写真をアイコンに設定した友人たちからの「最近どう、元気?」の言葉があまりに重い。
未読無視を繰り返していたら、ついぞだれからも連絡が来なくなる。
それでも実家からは連絡が来た。
電話を取らなくても留守電は残る。
相変わらず俺に対する不平不満の羅列だ。
……もう駄目だ、もう降りたい。
でもどこに逃げたらいいかもわからない。
そんな自問自答を毎日毎日繰り返す。
そう、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日……
◆
呼吸ができない感覚に目が醒める。
「――っあ、ぁ、………ぁ……、は、ぅ………」
目を開けると、そこはどこかの部屋の中だった。
「………あー……また同じ夢………」
俺は見せられていた幻を振り払うように、頭を動かした。
呼吸を整えて、改めて目を開く。視界に広がるのはダークブラウンの天井の板。背中には柔らかいリネンのような感触。俺は森で気を失ったはずだが、いつの間にやらどこかの家のベッドへ寝かされていたらしい。あのとき聞こえていた声の主が助けてくれたのだろうか。
起き上がろうとすると、関節の節々が痛む。どれほど寝ていたのか、体はバキバキだ。いてて、と呻きながら上半身を起こした。
……俺、どうなったんだ?
キョロキョロと周りを見渡すと、ここは木造の家の一室のようであった。そばの窓からは星空が見えているので、少なくとも半日は気を失っていたようだ。
「……めちゃくちゃ星の数が多いな。すごいド田舎に飛ばされたのか……」
まぁ、とりあえず起きようか。
そう思って立ち上がってみようとすると体がふらつき、派手な音を立ててその場に倒れ込むことになった。体を起こせるくらいに体力は戻っているものの、すっかり感覚が狂ってしまっているらしい。
そのとき、隣の部屋からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。転んだ音で、この家の住人が俺の目覚めに気付いたようだ。
バタンと大きな音を立てて扉が開く。そこに立っていたのはひとりの青年。青年は俺の姿を見て、ぱっと笑顔になった。
彼の外見年齢は20代後半といったところだろうか。深い緑色の目に白い肌、薄い茶色の長髪を後ろで1つにまとめている。その風貌は白人のような人種であるように見受けられた。着ている服は赤い刺繍が施されたリネンの白シャツだ。
「お……おぉ…………。」
俺は思わず感嘆の声を漏らした。
俺、もしかして異世界転生――いや、異世界転移、できたんじゃないか。彼の風貌や部屋の雰囲気から察するに、ここは“中世ヨーロッパ風”の異世界なのでは。
俺は内心でガッツポーズを決めた。絶望的状況から一転、憧れの異世界転移に成功したのだ。喜びもひとしおである。
とはいえ、手放しで喜ぶのはまだ早い。まずは俺を助けてくれたのであろう彼にお礼をせねばなるまい。
「あ、あのー……!俺を助けてくださった方ですか?」
俺は半ば興奮気味に恩人に話しかける。そして青年はにこにこと笑いながら、俺に手を差し出した。
「ユスル・セラ・サー?」
「………んっ?」
にっこりと微笑む口から発せられたのは、聞き覚えのない単語。
……え、この人、今なんて言った?
聞き慣れない言葉に、俺は思わず首を傾げた。
お読みくださりありがとうございます。