6.荊州制圧に向けて
建安14年(209年)2月 荊州 南郡 江陵
「おめでとうございます、おじ上」
「さすがですな、周瑜どの」
「ああ、ありがとう、孫紹、魯粛どの。江陵の攻略には、君たちの助言も役立ったよ」
「それはなによりです。どうやらおケガもないようで、安心しました」
江陵周辺の攻略が一段落したので、俺と魯粛も江陵へ来ていた。
そこで周瑜をねぎらっていると、横から呂範が話しかけてくる。
「おう、周瑜さまに万一がないよう、俺が見張ってたからな」
「アハハ、それはありがとうございました、呂範さん。おじ上は我が軍の要ですからね」
「ああ、そのとおりだ」
そう言う呂範は、押し出しのいい屈強な戦士だ。
口調や風体が荒っぽいので、まるで山賊のようだが、古くから孫策に仕えていた、信頼できる武将である。
するとそこへ、不思議そうな声が掛かる。
「周瑜どの、何ゆえに子供がこのような場所に?」
「おお、劉備どの。この子は孫紹といって、亡き孫策さまの遺児なのだ。歳に似合わず利発なので、そばに置いて勉強をさせている」
「ほほう、孫策どののお子であったか。たしかに利発そうではあるな」
そう言って俺を見下ろすのは、劉備 玄徳。
三国鼎立の一角を担った英雄だ。
その姿は背が高いが、顔立ちは凡庸な感じである。
ただし歴史に言われるように、耳たぶが異様に大きく、その腕もかなり長かった。
ちなみにこのおっさん、後世には中山靖王 劉勝の末裔として知られるが、この時点では別の家系を名乗っていたりする。
それは臨邑侯 劉復の末裔という家系で、どちらにしても漢の宗室だ。
しかしここで大事なのは、劉復が劉表の故郷のご近所さんだったという点で、つまり劉表の世話になるために、でっち上げた可能性が高いんだな。
そして後に劉備が劉勝の末裔を名乗るようになったのにも、理由がある。
実は後漢を再興した光武帝 劉秀は、前漢の武帝の兄である長沙定王 劉発の末裔になる。
そして中山靖王 劉勝も武帝の兄に当たり、前漢ー後漢ー季漢(蜀漢のこと)と、それぞれが武帝の兄弟の末裔として、漢の正統を引き継いだというわけだ。
要するに劉備は、状況に応じて家系をでっち上げてるわけで、本当に漢の宗室の家系だったかはかなり疑わしい。
というよりも、誇れるような家系がなかったから、その場に応じて自称したとしか思えないよな。
そんな男が、なんで劉表や劉璋みたいな、本当の宗族から頼りにされたかというと、ぶっちゃけ強かったからだ。
傍目にはけっこう負け戦も多いが、多くの戦を部下と共に生き残っている。
その辺は曹操にも認められていて、”この天下で英雄は、君と僕ぐらいのものだ”、なんて言われてたほどだ。
強力な武将を抱えていない名士からすれば、使い勝手のいい傭兵のように見えてもおかしくない。
もっとも諸葛亮を得た劉備は、やがて劉璋から益州を奪ってしまうんだから、やはり侮れない。
今後も彼の動きには、しっかりと目を光らせるつもりだ。
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その後、改めて軍議が開かれたので、俺も同席させてもらった。
もちろん、9歳のガキが口出ししては不審がられるので、周瑜の後ろで黙って話を聞くだけだ。
ちゃんと仕込みはしてあるけどな。
「江陵周辺の状況は安定しているので、今後は兵を分けてはいかがだろうか? 今の孫軍団であれば、襄陽の制圧も夢ではありますまい。その間に、私と劉琦どのは、南部の4郡を制圧してみせますぞ」
まず軍議の冒頭に、劉備が別行動を提案してきた。
しかし魯粛がそれを制止する。
「あいや、そのような気遣いは無用ですぞ。すでに南部4郡には孫権さまの書状を送り、降伏を促しておりますからな」
「なんだとっ! 我々に断りもなく、降伏を促すなど、勝手すぎるではないかっ!」
「降伏を促すのに、勝手も何もありますまい。我らは曹操を打ち負かし、荊州を取り戻すために戦っておるのですぞ」
「し、しかし!」
劉備はなおも食い下がろうとするが、その旗色は悪い。
なにしろこの江陵には、総勢で5万人ほどの孫軍団が集まっているのだ。
その武将として、周瑜、程普、黄蓋、韓当、呂範、甘寧、呂蒙、周泰、凌統、魯粛といった面々が顔を出している。
それに対して劉備・劉琦軍は1万人足らずであり、主な武将も劉備、関羽、張飛、趙雲、そして諸葛亮ぐらいのものだ。
赤壁から江陵の攻略における貢献度も、我が軍の方が圧倒的に高い。
そんな状況を読んだのか、諸葛亮が口を出してきた。
「まあまあ、劉備さま。魯粛どのの言うことも、もっともです。ここは冷静に話し合いましょう。しかし魯粛どの。荊州を治めるには、先の荊州牧 劉表どのの嫡子である劉琦どのの協力は欠かせません。それに劉備さまも、荊州の客将として顔が売れております。ここは我らが南部の制圧に動くのが、最も効率的であると思うのですが?」
「なるほど。通常であれば、そうかもしれませんな。しかし我が孫軍団は、公称80万もの曹操軍を退けたのです。実はすでに長沙と武陵からは、受け入れの回答がきておるのですよ。それが知れれば、零陵と桂陽も拒否はしないでしょうな」
「クッ……ずいぶんと手回しがよいですね」
「ええ、これも我が軍の将兵が、必死に戦ったおかげです」
余裕で受け答えする魯粛に対し、諸葛亮がわずかに悔しそうな様子を見せる。
まさか長沙と武陵が、すでに降伏しているとは思わなかったのだろう。
しかし史実と違い、江陵すら短期で攻略した孫呉に、敵対しようとする勢力は少ない。
それを見てとった諸葛亮は、すぐに立ち直って、交渉を持ちかけてきた。
「そうですか。たしかに今回の貴軍の働きには、目覚ましいものがありますからな。しかし荊州の安定統治に、劉家の存在は欠かせないでしょう。そこで我らが共同で、劉琦どのを荊州牧に上奏するというのは、いかがでしょうか?」
「ふ~む、それは一考の余地がありますな」
諸葛亮は劉琦を荊州牧にする提案で、荊州での主導権を取りに来た。
ちなみにここで上奏するというのは、あくまで形式的なことだ。
そもそも官吏の任命権を持つ漢王朝が、曹操に牛耳られているのだから、承認されるはずがない。
上奏書を送ったということにして、後はこっちで勝手にやるだけだ。
そんな提案に、魯粛は考えるふりを見せたが、俺と一緒に控えていた孫郎が、そこに割って入る。
「いや、それよりも良い案があります。俺はこちらの周瑜さまこそが、荊州牧にふさわしいと考えますね」
「誰だ、貴様?! 急に無礼であろう!」
その割り込みに劉備が激昂してみせるが、孫朗は堂々と名乗った。
「おっと、これは失礼。俺は孫郎 公叔。孫権さまの異母弟に当たるものです」
「なっ、孫権どのの異母弟だと。それは真か?」
「ええ、事実ですよ」
劉備に問われ、魯粛が平然と答える。
「孫郎どのは異母弟といえど、れっきとした孫家のお血筋。孫権さまの名代として、それなりの権限をお持ちです」
「そのような重要人物を、なぜ先に紹介していないのだ?」
「申し訳ありません。議論の先行きが見えなかったので、少々、様子をうかがっておりました」
「ぐぬ」
しれっとかわす魯粛に、劉備が詰まる。
実際にはそんな権限など与えられていないのだが、孫郎が話を戻す。
「それで荊州牧のことですが、病弱で軍議にも参加できない劉琦どのより、周瑜さまの方が適当と考えます。周瑜さまは3公を輩出した廬江周家の出であり、なにより今回の勝利の立役者だ。これ以上のお方はいないでしょう」
「うむ、孫郎どのの提案は、妥当に思えますな」
「ぐっ、しかし……」
史実では劉琦の権威を利用しつつ、劉備は荊州南部の4郡をまんまと手に入れた。
それは孫権が戦力を分散したせいで、江陵の攻略に手間取り、劉備が巧妙に実を取りにいった結果でもある。
しかしこの世界では、孫家主導で江陵を短期で攻略してのけた。
その成果も圧倒的にこちらが上である。
それが分かっているがゆえに、劉備も無茶は言えない。
そして諸葛亮も形成わるしと見たのか、ほとんど口を挟まなかった。
この分なら、周瑜を荊州牧にできそうなので、今後の攻略についても、話をつけておきますかね。
劉備が臨邑侯 劉復の末裔だという話は、裴松之が引用する「典略」が出典です。
その信憑性はちょっと怪しいんですが、上述のように自称する意図が察せられることから、劉備が状況に応じて使い分けてた可能性は高いと思います。
ちなみに中山靖王の末裔って話も、劉備が皇帝に即位する直前まで一切出てこないので、まずでっち上げでしょうね。
ここで筆者が言いたいのは、別に劉備を貶めたいとかではなく、彼も三国志を彩るアウトローの1人に過ぎないということ。
決して劉備が嫌いとかではないですよ。w
それから孫朗のあざなは記録にないので、筆者が創作しました。