幕間: 諸葛亮クンは悪名をいとわない
私の名は諸葛亮 孔明。
漢中王 劉備さまの下で、丞相を務める者だ。
劉備さまとは荊州で、建安12年(207年)に出会った。
当時、ほとんど無名であった私に、彼はわざわざ会いにきてくれたのだ。
しかも最初は私が留守で居なかったため、2度も訪ねてくれるという熱心さだ。
しかし彼の事情を知れば、それも納得できた。
彼とその配下は、厳しい戦場を何度も生き残ってきてはいたが、先を見据えた立ち回りが苦手なのだ。
おかげで行き当たりばったりの行動に走りやすく、一度は得た徐州も失っていた。
それならば、私が役に立てるというものだろう。
私は頭脳に自信はあるものの、前の荊州牧 劉表などに仕える気はしなかった。
ヤツは私の叔父を死に追いやった原因の1人であったし、その立ち回りに将来性を感じられなかったからだ。
それに比べて劉備さまは、軍才に恵まれているし、野心も強そうだ。
彼という器を利用して、私にも大きなことができるのではないか。
そう期待させる、何かにあふれている御仁なのだ。
翌年には荊州に曹操が攻めてきたので、南部に逃れていくと、孫軍閥の魯粛に出会った。
都合がいいことに、彼が同盟を提案してくれたため、我々はその流れに乗る。
とはいえ、20万人を超える曹操軍に対抗できるかは、私も自信はなかった。
ところが周瑜ひきいる孫権軍が、烏林で曹操軍を撃破してみせたのだ。
おかげで我らも逃げる必要がなくなり、逆に曹操軍を追い立てる立場になった。
あわよくば、この隙に荊州の南部をかすめ取ってやろうとしたのだが、さすがにそこまでは上手くいかない。
周瑜がこちらの意図を読み取り、ことごとく先回りしてきたからだ。
おかげで我々は劉琦どのを擁しているにもかかわらず、武陵郡しか取れなかった。
まあ、曹操の脅威から逃れられただけでも、良しとするべきなのだろう。
その後、ひそかに益州の攻略を計画していると、これもまた見透かされてしまう。
なんと我らと孫権軍で、益州を共同攻略しようと言ってきたのだ。
できれば単独でやりたかったのだが、それには圧倒的に戦力が足りないのも事実。
我ら抜きでも攻略すると言われては、受けざるを得なかった。
なぜこうも先を行かれるのだろうか?
まるで未来を知っているかのような、不気味さがある。
とはいえ、劉備さまが劉璋の同族として、益州に先行するという作戦は悪くない。
孫権軍に大きな恩を売れるからな。
その優位性を、なるべく高く売りつけてやろうではないか。
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建安16年(211年)7月 益州 蜀郡 成都
翌年には孫権軍と連携して、見事に劉璋を降伏させることができた。
それも我らが先行して、益州軍の主力を引きつけるという大役を果たしてである。
私はこの功績を、目いっぱい高めに売りつけた。
「今回の戦功を勘案するに、我々が漢中郡、巴郡、広漢郡、広漢属国、蜀郡を受け取るには十分だと思います。さらに武陵を手放すなら、もっともらってもいいぐらいですね」
「おいおい、それはあまりに強欲ってもんだぜ。事前に決めたように、まずは互いの戦功を確定して、それを数値化しようや。そのうえで領地の生産力を見積もって、分け合う約束だろう?」
「まあ、そうですが、それほど変わらないでしょう」
さすがに文句を付けられたが、孫権軍も我らの功績を認めているのは明白だ。
さらに我らを、漢中の守りとして使いたがっているのも明らかだったので、こちらは終始、強気の要求を突きつける。
その結果、我らは漢中郡、蜀郡、広漢郡、広漢属国に加え、巴郡の北西部を領有することが認められた。
出兵した軍の規模からすれば、望外の成果である。
漢中郡はこれから取らねばならないが、比較的、治安の良い益州北部を取れたのは幸運だった。
劉備さまに示した”天下3分の計”には程遠いが、それなりの領地を手に入れられる。
ここから力を蓄えて、いずれは……
その後、我らは漢中も手に入れ、領地の経営に取り組んだ。
おかげで治安は向上し、生産力も順調に上がっている。
しかしその間に、孫権軍は襄陽を攻略してのけたのだ。
何やら奇策を用いたようだが、あの堅城を落とすとは、侮れない軍事力である。
これではますます国力の差が広がってしまい、我々にとっては好ましくない。
我々も涼州へ打って出るべきだろうか。
しかし涼州には韓遂や馬超が割拠しており、我らの思いどおりになるとも思えない。
何か打開策はないものか?
最近、孫権の支配領域で、反乱が散発していると聞いていたら、急に当主が交替するという話になった。
厳密にはまだ当主代行らしいが、時間の問題であろう。
そしてその代行は、孫紹という子供らしい。
彼はたしか、益州攻めの提案に同席していた記憶がある。
子供の手習いかと思って軽視していたが、想像以上に大物だったようだ。
聞けば彼は孫策の息子であり、襄陽の攻略にも大きく貢献しているという。
そのような人物が孫軍閥の舵を握るとなれば、ますます侮れなくなる。
我々も領内の改革を推し進め、力を蓄えねば。
しかし仕事を任せられる人材がいないため、私が全てを仕切らねばならん。
荊州で人材を集められなかったことが、返す返すも惜しまれる。
こうしてみると、孫軍閥にはいろいろとやられているな。
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建安21年(216年)6月 益州 蜀郡 成都
「おめでとうございます、劉備さま」
「うむ、こうして私が漢中王となったからには、曹操の野望をくじき、漢王朝の正統を取りもどす。そのために皆の力を貸してくれ」
「「「はは~っ」」」
曹操がとうとう魏王になったので、対抗して劉備さまを漢中王に立てた。
所帯は小さいが、これで我らも王国の臣よ。
官職をエサに、人材を集めよう。
そして中原に打って出るのだ。
劉備さまが漢中王に就任した後に、孫紹も呉王に就任したという。
さすが、江東の小覇王の息子だけあって、勘所を押さえているな。
それどころか孫紹は、とうとう中原に打って出るという。
劉備さまに対して、共同で出兵しようという提案がきたのだ。
それは望むところだが、はたして孫軍閥の戦闘力は、いかほどのものか?
場合によっては、孫紹に美味しいところを全て持っていかれるかもしれない。
その時に備えて、準備はしておくべきだろうな。
しかしこちらも涼州に出兵して、戦功を稼がねばならぬ。
はたしてどうなるか?
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建安22年(217年)1月 益州 蜀郡 成都
我が軍が涼州に兵を派遣し、曹操軍と対峙していると、孫紹軍が破竹の勢いで南陽を攻め取ったという。
ほとんど成果を出せていない我が軍とは大違いだ。
このままではますます、孫呉との実力差が開いてしまう。
そう思って我が軍を、豫州攻めに加えてくれと要望したのだが、案の定、断られた。
このうえは、非常手段を用いるほかあるまい。
「なんでだよ? 諸葛亮。いくら豫州攻めに加えてもらえないからって、味方を裏切るなんて、やっちゃいけねえだろうが?」
「このままではまずいのです。これ以上、孫紹に勝たれては、我らの立場がありません。たとえ曹操を倒したとしても、我らが孫呉に飲みこまれます」
「そ、それはそうかもしれねえけど……俺らが孫紹を裏切ったって、曹操は味方と認めねえだろうに」
「いえ、実は曹操の手の者から、孫紹の背中を襲うよう、書状が来ています。成功すれば我らを正式に漢中王とし、益州全ての領有も認めてくれるそうです」
「そんな話、聞いてねえぞっ! 俺に黙ってたのか?!」
「申し訳ありません。極秘を要する案件だったので、隠しておりました。しかし私はあくまで、劉備さまのためを思って動いております」
「だ、だからってよう……」
それからひたすら説得したおかげで、劉備さまも折れてくれた。
たしかにここでの裏切りは外聞が悪いが、これも劉備さまのためなのだ。
裏切りの悪名は、私が背負えばいい。
その後、涼州に派遣していた兵をこっそり呼び戻し、南陽攻めの準備を進めた。
さらに益州南部との境界にも兵を配備して、益州全土の占領も手配する。
最低でも益州を制し、あわよくば荊州まで手を伸ばしたいものだ。
なんとしても力を手に入れて、いずれは中原に打って出るのだ。
そのためには、孫紹にも犠牲になってもらおうではないか。
漢の正統を取り戻すのは、我らなのだから。




