33.曹操の影
建安21年(216年)1月 荊州 南郡 襄陽
ハッピーニューイヤー、エブリバディ。
孫紹クンだよ。
孫家の当主代行に就任して、はや1年。
俺は襄陽を拠点にして、領内の改革に取り組んでいた。
荊州は益州と揚州の間に位置するし、中原の情報を探るには最適だったからだ。
そのうえで揚州は孫権に、益州は孫郎に任せつつ、全体の指揮を俺が執った。
その傍らには周瑜をはじめ、魯粛、龐統、蔣琬、劉巴、馬良、馬謖、尚郎、楊儀などの頭脳をおいている。
さらには呂範、甘寧、黄忠、孫桓、魏延といった猛将たちも、兵を鍛えてくれていた。
それだけでなく、それまであまり面識のなかった陸遜にも来てもらい、孫軍閥の改革に取り組んだのだ。
真っ先に手をつけたのが、華南の防衛体制の構築である。
これは江東については呂蒙を中心に、揚州の武将たちに任せている。
その構想は、決して中原には進出せず、長江流域を盾に守りを固めるものだ。
長江北岸の要所要所に、砦や監視所を設け、水軍を駆使して縱橫に兵を移動させ、敵を翻弄する戦術である。
水軍を維持するには金が掛かるが、曹操の大兵力に対抗できるなら、その価値がある。
この頃、すでに智将として成長していた呂蒙にとっては、腕の振るいがいのある仕事だろう。
それに対して襄陽方面は、ひたすら城の守りを固め、屯田制や兵戸制によって兵を養成していた。
それと同時に益州経由で馬を増やし、騎兵の育成も始めている。
そして騎兵といえば、鐙の開発である。
それはこの時代にはまだどこにも存在しない、有用な馬具だ。
鐙がないと鞍の一部をつかむ必要があるため、両手が使えずに動作が不自由になる。
中には遊牧民みたいに、下半身だけで器用に馬を乗りこなすやつもいるが、そんなのはごく一部だ。
しかし鐙を使えば、平凡な兵士でも精強な騎兵になり得る。
そのため秘密裏に、たっぷりとお金を掛けて開発を始めた。
いずれは実用的な鐙ができてきて、我が軍で威力を発揮してくれるだろう。
一方、益州方面では軍備を後回しにして、領内の開発と治安向上に努めていた。
もちろん何があるか分からないので、それなりの兵力は置いているが、最近は異民族もおとなしくなり、平和なものだ。
江東で進めている山越の懐柔策がうまくいけば、こっちにも展開しようと考えている。
ちなみに益州北部を治める劉備も、順調に統治を進めているようだ。
あそこには関羽や張飛という勇将がおり、諸葛亮という優秀な政治家もいるのだ。
着々と内政を進め、軍事力も高まっていることだろう。
もっとも、史実で搾取できた益州南部は領有していないので、その経済力は限定的だ。
そのため、下手をすると南部に牙をむいてくるかもしれないので、注意を怠らないようにしている。
軍備と並行して、領内の開発にも手を付けていた。
まずやったのは、流通網と通信網の整備だ。
水路や道路を整備すると同時に、伝書バトによる連絡も根付いてきている。
主要都市間の連絡がすばやくとれるため、広大な領地を治めることにも役立っている。
おかげで領内の商業が活性化したもんだから、貨幣政策にも手をつけた。
実は董卓の五銖銭改鋳などによる経済の混乱は、この華南にはあまり及んでいなかった。
もちろん影響が皆無ではないのだが、中原のように現物取引きをメインにしなくてもいい程度には、貨幣経済が機能しているのだ。
そこでまず俺たちは、主要都市の市場を整備すると同時に、取り引きルールを明確にした。
おかげでそれまで商取引に消極的だった人たちも巻きこんで、取引きが活発化する。
そうなると貨幣が足りなくなるので、劉巴に命じて銅銭を鋳造し、市場にばらまいた。
さらに大口の取り引きでは金や手形の使用も奨励し、銅銭不足に配慮もしている。
ただしあまりやり過ぎると、物価が乱高下しかねないので、その辺の舵取りを、劉巴に任せてあるわけだ。
さすが、劉巴はよく心得たもので、今のところは経済成長と物価の安定が両立できている。
やはりできるヤツに任せるのが、楽でいいねえ。
その他に、農地の開発もしているし、豪族の粛清もすれば、税制改革も進めていた。
俺1人ではとても無理だが、なにしろ優秀なブレーンがたくさんいるのだ。
領内の改革は、着実に進展していた。
こうして、多忙ながらも充実した日々を送っていたのだが、どうしても厄介事は起こるものだ。
「山越の反乱ですか?」
「はい、いまだ交渉を持てていない部族が、徒党を組んで暴れているようです」
「それはやばいですね……」
当初の方針どおり、話のできそうな山越族を探して、交渉を始めてはいた。
もちろん俺自身も山奥に足を運び、部族の首領と会っている。
最初は渋られたが、利を示して交渉を進めると、次第に態度も軟化してきた。
それでようやく仮の協定調印までこぎつけ、次の部族を紹介してもらおうとしたところで、魯粛から報告が入ったのだ。
どうやら我が軍に飲みこまれるとでも思ったのか、複数の部族が共同して、反乱を起こしたというのだ。
「ちょっと、性急すぎましたかね?」
「いいえ、遅かれ早かれ、反乱は起きていたでしょう。というのも連中の背後に、曹操の影がちらついているのです」
「ああ、やはりそうでしたか」
どうやら山越の首領に、官職を授けた者がいるらしい。
費桟と尤突という首領たちが、漢朝から印綬を受け取った、という噂が流れているそうだ。
俺はこの話を聞いて、”ああ、この世界でもやったんだ”としか思わなかった。
なぜなら曹操は史実でも、費桟と尤突に官職の証である印綬をさずけて、反乱をあおったのだから。
孫軍閥の足を引っ張りたい曹操にとっては、都合のいい手駒という感覚だろう。
「ふむ、であればここは、力を示すしかありませんね。せっかくですから、私も出ましょう」
「え、孫紹さま自らですか? ここは配下の武将に命じ、朗報を待つべきだと思いますが」
「本来ならそうですが、私にも多少は武功が必要でしょう。これについて相談をしたいので、陸遜どのを呼んでもらえませんか」
「はあ、承知しました」
俺も数えで17歳になったのだから、そろそろ武功を上げるのもいいだろう。
せっかくなので、山越にはその生贄になってもらおうじゃないか。




