4.来襲、曹操軍!
建安13年(208年)7月 荊州 江夏郡 夏口
「もちろん、全力をもって撃退するつもりだ」
もし荊州が攻められたらどうするかと問えば、周瑜は明確に答える。
さすが、孫呉でも屈指の指揮官だけはある。
しかしその意図を知らない孫郎が、あわてて止めに入る。
「ちょ、周瑜さま。いくらなんでも、それは無理でしょう」
「ほう、なぜ無理だと思うのだ?」
「そりゃあ、曹操は中原の覇者だから、大軍を動かせるし、天子さまも抱えてます。勝てる要素がないですよ」
「フフフ、普通はそう考えるだろうな。しかしどうやら孫紹は、そう思っていないようだぞ」
「いや、孫紹だって――」
そう言う孫郎の言葉を遮って、俺は周瑜を支持した。
「それはおじ上が、それなりの算段を立てていると思うからですよ。なにしろここは、華南の地。我ら孫軍団が得意とする戦場ですからね」
「フフフ、まあ、そんなところだ。むしろ最大の問題は、孫権さまが同意してくれるかどうかだと思っている」
周瑜が皮肉そうに笑うのを見て、俺はここぞとばかりに背中を押した。
「おじ上こそは、我が軍の柱石です。自信をもって理を説けば、孫権さまも理解してくれますよ。そしてそのためには、必要な情報をいかに早く手に入れるかが、肝となるでしょう」
すると周瑜は、ひどく驚いたような顔をする。
「君には本当に驚かされるな。数ヶ月前とは、まるで別人のようだよ」
「フフフ、育ち盛りの子供を侮らないでください。”士3日会わざれば、刮目して相侍すべし”と、先人も言っているではありませんか」
「はて、そのような言葉、初めて聞くぞ。しかしたしかにそうかもしれん。いずれにせよ2人は、前線で仕事がしたいということだな? ならばお前たちには、しばし私の近くで雑用をこなしてもらおう。孫郎にはいずれ、手柄を立てる機会も準備しようではないか」
「やった。ありがとうございます、おじ上」
「え~と、よろしくお願いします?」
こうして俺と孫郎は、前線に潜り込むことに成功したのだ。
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建安13年(208年)8月 荊州 江夏郡 夏口
周瑜に仕えるようになって忙しい日々を送っていると、立て続けに荊州に激震が走った。
「新野に曹操の軍が押し寄せてきたらしい」
「なんと、劉表どのが死んで、代替わりしたばかりなのに」
「うむ、劉琮陣営は大きく動揺しているであろうな」
8月に入ってすぐに、荊州牧の劉表が病死していた。
その後、次男の劉琮が後継者に収まり、長男の劉琦は江夏郡太守のまま、意陵へ留め置かれている。
そしてそんな混乱が治まる前に、曹操軍の来襲が伝わってきたのだ。
この後、劉琮はあっさりと曹操に降伏し、劉表の客将となっていた劉備は、南方へ逃走することを、俺は知っている。
しかし劉備は魯粛が味方に引き込んでくれるはずなので、俺は黙って状況を注視していた。
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建安13年(208年)9月 荊州 江夏郡 夏口
予定どおりに魯粛が劉備に同盟を持ちかけ、諸葛亮を連れて柴桑へ戻ってきた。
そして周りが降伏論に傾く中、魯粛はこっそりと孫権を脅しつけ、徹底抗戦を説くのだ。
ここで周瑜も呼ばれ、軍事的な観点から、自軍が勝つ可能性が高いことを説いたため、ようやく孫権も決断する。
孫軍閥は劉備一党と手を組んで、曹操に対抗することとなったのだ。
ちなみにこの時の魯粛の行動は、完全な越権行為であり、処刑されてもおかしくないほどの危険をはらんでいた。
なぜならこの時点の魯粛には、なんら権限が与えられておらず、ただ劉表の弔問に行っただけのはずだからだ。
それが勝手に同盟を提案し、孫軍閥を戦争に巻き込もうとしているのだから、暴走もいいところである。
それが即座に処罰されなかったのは、それなりに孫権の意に沿う部分があったのであろう。
実際、魯粛なりに戦略を描いての行動であり、結果的に味方は大勝を得て、後の3国の一角となるきっかけをつかむのである。
そしてそのきっかけとなる会戦が、目前に迫っていた。
「そうですか。孫権さまの説得には、成功したのですね」
「ああ、じきにありったけの水軍が、この夏口に集結する予定だ。そして準備が整いしだい、陸口に押し出すことになるだろう」
「それはようございました。おじ上ならば、必ずや勝利を手に入れることでしょう」
「うむ、そうするつもりだが、問題も多くてな」
そう言う周瑜の眉間には、深いしわが刻まれていた。
実際問題、不都合な事態がいくつか発生している。
まず同盟を組んだ劉備・劉琦連合軍だが、その兵力は1万程度に過ぎなかった。
荊州には最大8万ほどの兵力があるはずなのだが、その多くが曹操に押さえられてしまったらしい。
それに加え、孫軍団もすぐに集められるのは3万に過ぎなかった。
対する曹操軍は、公称の80万人には及ばないものの、その実数は20万人を下らない。
つまり劉備軍を合わせても、5倍以上の兵力差があるわけで、普通の人間にはとても勝てるとは思えないだろう。
その他にも、左都督である周瑜に対し、程普が右都督に任命されていた。
一応、周瑜の方により高位の指揮権が認められているとはいえ、ほぼ同格の指揮官がいるのはやりにくい。
さらに甘寧に父親を殺された凌統が、ことあるごとに甘寧と反目するなどの問題もあった。
これらの内憂を抱えながら、強大な曹操軍に当たらねばならないのだ。
周瑜の内心たるや、決して穏やかではないだろう。
しかし俺は、史実で彼が大勝利を手に入れるのを知っている。
だから俺は安心して彼を見守り、及ばないながらも精一杯、彼を支えることにしていた。
それは子供ゆえの無邪気な信頼と見られているようだが、少しは周瑜に安心を与えたようだ。
やがて準備を整えた周瑜は、水軍を率いて長江を遡上していった。