30.孫紹、実権を手に入れる
建安20年(215年)1月 揚州 豫章郡 柴桑
「よかろう、紹。孫家の実権、お前に譲ろうではないか」
柴桑での会談で、孫権はとうとう決定的な言葉を吐いた。
下手をすれば孫軍閥を真っぷたつに割って、戦闘も覚悟していたのに、孫権はそれをあっさりと覆したのだ。
しかし当然ながら、孫権の取り巻きたちが、猛反発する。
「孫権さまっ! 何をご冗談をおっしゃっているのですか。今からでも遅くありません。その子供を始末しましょう」
「そうです。孫家の当主は今も、そしてこれからも孫権さまなのです。血迷ってはなりませぬぞ」
おそらく孫権の行動を、全く予想できていなかったのだろう。
取り巻きたちが泡を食って、翻意をうながす。
しかし孫権は、涼しい顔で反論した。
「お前たちは何をそんなに、騒いでおるのだ? たしかに私は孫家の当主だが、それだって兄上から引き継いだものだ。他に当主にふさわしい者が出てくれば、その座を渡しても不思議はなかろう」
「しかし孫紹どのはまだ幼い。とても承服はできませぬ」
「はて、私が当主を引き継いだのも、まだ19の頃だった。大した違いはないと思うがな」
「そ、それは孫策さまが亡くなられるという、非常事態でのこと。孫権さまが健在の今とでは、まったく状況が違います」
この時代の中国では20歳(数え)で成人式(冠礼)なので、孫権も未成年で当主の座を継いだことになる。
いまだ16歳の俺と、さして違いはないとも言えるが、たしかに孫権が健在では、文句も言いたくなるだろう。
しかし孫権はそんな文句もどこ吹く風と、平気な顔をしている。
「たしかに私は健在だが、当主としてふさわしいかどうかは、また別の問題だ。最近は臣下の統制もできなくなっている私に、当主の資格があるかのう? 張昭」
ここで答えを求められた張昭は、苦りきった顔をする。
彼はすでに60歳の老人だが、まだまだ元気で文官の筆頭格でもある。
その発言には格別の影響力がある御仁なのだ。
そんな張昭が嫌そうにしながらも、孫権の望む答えを返す。
「そうですな。最近のやる気のない孫権さまよりは、人望も厚く、着実に成果を上げている孫紹どのの方が、当主にふさわしいかもしれませんな」
「なっ、張昭どの。正気ですか?」
「そのような物言い、不敬ですぞ」
取り巻きたちが裏切られた、という顔で抗議する、
しかし張昭もまた、澄ましたものだ。
「私は孫策さまや呉夫人から、孫家の行く末を見守るよう、頼まれておる。孫権さまの代わりに、優秀な者が当主に就任するというなら、それを後押しするにやぶさかではありませんな」
「そ、それはあまりに、無責任ではありませんか!」
「しかり。ここは孫権さまを支えてですな……」
いまだに孫権を中心とした利権に、未練を見せる取り巻きたちだったが、それに対抗する声も上がる。
「俺は賛成だな。別に孫権さまが悪いってんじゃないが、御曹司の方がでかいことをやれそうだ」
「ああ、中華全土に覇を唱えるなんて、並みの人間に言えることじゃねえ」
まず甘寧と呂範が支持すれば、他の武将もそれに続く。
「うむ、聞けば孫紹どのは、荊州と益州の攻略に貢献したとか。勝てる将こそ、我が軍に必要な存在よ」
「私も孫紹どのには、見どころがあると思いますね」
「そうですね。それに江東の小覇王の息子ってのは、期待できそうだ」
そう言ったのは黄蓋、呂蒙、朱桓たちだった。
するとその場にいる武官の多くが俺の支持に回り、文官もその流れに乗りはじめる。
逆に程普や韓当、周泰などは、いまだに孫権支持だった。
彼らなりに思惑なり義理などが、あるのだろう。
しかし孫権が譲位を表明し、主要な家臣が俺を支持した時点で、全体の流れは決まった。
そのうえで、孫権が俺に決断を迫る。
「これで形勢は定まったと思うが、紹はどうする?」
「……そうですね。当主に就任するのは望むところ、と言いたいのですが、いきなりは無理があると思います」
「そうか? なんとかなると思うがな」
「いえ、あまり無理を通せば、しこりが残りますよ。そこで提案したいのですが、当面は私が当主代行を務めるということで、いかがでしょうか?」
「ふむ、それはいつまでだ?」
「まず2年ですね。その間に采配を振るって、その結果を見てもらいたいと思います」
「ほほう、自信があるようだな」
「それほどでもありませんが、ある程度の結果を残せなければ、誰も認めてくれないでしょう。その時はおじ上が引き続き、当主を続けるということで、いかがですか?」
すると孫権が苦笑しながらぼやく。
「おいおい、引退はさせてくれないのか?」
「それは無理ですね。仮に私が当主になっても、働いてもらいますよ」
「やれやれ、人使いの荒い甥だな」
孫権が肩をすくめてそう言えば、多くの者が笑っていた。
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その後、多少の混乱はあったものの、俺の当主代行への就任は進められた。
もちろん反対する声は絶えなかったが、あくまで代行であり、その成果を見てから最終決定をする、という提案が、それすらも飲み込む。
その段取りがつくと、俺は改めて孫権と2人だけで話す場を設けた。
「ふう、ようやく一段落したな」
「ええ、私としては、今後も頭の痛いことは多そうですけどね」
「そんなことを言いながら、どうせ上手いことやってしまうのだろう?」
「それは分かりませんよ」
俺が肩をすくめて見せれば、孫権がクスリと笑う。
「フッ、余裕がありそうで何よりだ。私の就任時とは、大違いだな」
「そうなんですか?」
「ああ、いきなり当主になれと言われても、何をすればいいのか、さっぱり分からなかった。そこで仕事は張昭や周瑜に任せて、私は周りを観察することから始めたよ」
「ははぁ、それぞれの適性を見るためですね」
「まあ、そうだな。しかしその後も反乱や騒動が絶えず、無我夢中だった。ようやく余裕ができてきたのが、7、8年ほど前だ」
「曹操が攻めてくる直前ぐらいですか」
「うむ、あの時は震え上がったぞ。しかしちょうどその頃、希望も見えてきたのでな。私もがんばることにしたのだ」
そう言って孫権は、おもしろそうに俺を見る。
「それは私のことを言っているのですか?」
「そうだ。まだまだ子供だと思っていたお前が、孫家のために働きたいと言ったではないか。しかも曹操との戦いでも、お前が助言をしていたのであろう?」
「別に大したことは言ってませんよ。あれは周瑜さまをはじめとする、将兵の奮闘があったればこそです」
「フフ、まあ、そういうことにしておこうか。いずれにしろ我が軍は波に乗り、荊州のみならず、益州まで手に入れた。しかもその陰で活躍していたのが、兄上の息子だ。私はどうやってお前に譲位するか、真剣に考えはじめたよ」
「そんなことだろうと、思ってましたよ。本来は聡明なはずのおじ上が、妙に無気力になりましたからね」
「ハハハ、あれでもちゃんと考えてはいたのだぞ。あまり取り巻きに好きにさせすぎては、我が軍の力がそがれるからな」
そこまで言うと、孫権は笑みを消して、頭を下げた。
「情けない叔父で悪いが、孫家のことを頼む。そして叶うなら、私にもお前の夢を手伝わせてくれ」
「頭を上げてください、おじ上。もちろんおじ上にはこれからも、働いてもらいますよ。そして父上の夢は、私が引き継ぎましょう。一緒にその夢を、果たそうではありませんか」
「ああ、そうだな」
こうして俺と孫権は夢を共有し、その実現に向けて動きだしたのだ。




