20.孫家の行く末は?
建安17年(212年)10月 荊州 南郡 襄陽
俺たちは奇策によって、襄陽の攻略に成功した。
倍以上の軍勢に蹂躙された敵軍は、死傷者を多く出し、さらに多くの者が降伏していた。
「敵軍3万のうち、3分の2ほどが降伏か。思った以上にあっけなかったな」
「そりゃあ、鉄壁だと思っていた門が破られたんだ。動揺もするでしょう」
「まあ、そうだな。甘寧は本当によくやってくれた」
「へへへッ、それを言うなら、御曹司の手柄でしょうに」
城内の行政府で、俺たちは攻略の結果を確認していた。
そしたら甘寧が俺を持ち上げはじめたので、否定しておく。
「いえいえ、私はできるかどうかも分からない策を、立てただけですからね。命がけで戦った甘寧さんこそが、最大の功労者ですよ」
「フフフ、たしかにそうだが、孫紹の策があってのものだ。お前も誇っていいだろう」
「とんでもない。1回だけしか使えない、奇策のたぐいですからね。とても威張れたものじゃありませんよ」
「その1回限りを思いつけないのが、普通なんだがね」
「ワハハハ、御曹司は謙虚だな~」
成果のわりに味方の被害が少なかったのもあって、軽口を叩く余裕もあった。
しかし攻略さえすれば、それで終わりとはならない。
「ふむ、それはさておき、態勢を建て直したら、すぐに樊城の攻略だな。それが終われば、すぐに防衛体制も見直さねばならん」
「ですね。襄陽内の民も慰撫しなければならないし、やることはいくらでもあります」
「そうだな。ついでに御曹司の噂も、流しちゃどうだい?」
「ちょ、甘寧さん。どんな噂ですか?」
聞き捨てならないことを言う甘寧を問いただすと、彼は悪びれもせずに答える。
「そりゃあ、江東の小覇王の息子が、難攻不落の襄陽を落としたって話さ。民衆はこういう話が大好きだからな。喜ぶと思うぜ」
「だから、最大の功労者は甘寧さんだって――」
「ふむ、それはいいね」
「おじ上まで……」
甘寧の企みに周瑜が賛意を示すと、さらに龐統までもが、それを後押しする。
「たしかに良いのではないですか。なんだかんだ言って、ここ数年の我が軍の躍進の立役者は、孫紹どのです。ただの少年では信じられないかもしれませんが、孫策さまの嫡子となれば、箔がつこうというもの。我が軍の士気を高めるのにも有効でしょう」
「そんなことを言えば、私が孫権さまに睨まれるんですが」
「いいかげん、覚悟を決めろって、御曹司。襄陽を落とした時点で、すでに目をつけられてるって」
「そうそう。周瑜さまが応援してるんだから、向こうもうかつなことはできねえだろうし」
「そういう問題では……」
とうとう蔣琬までもが、俺をあおってきた。
俺はため息をつきながら、彼らに問う。
「はぁ……皆さん、そんなに孫権さまが、不満なんですか?」
「いや、それはちょっと違うよ、孫紹。もちろん不満がないわけではないが、孫権さまはよくやっていると思う」
「そうですな。孫策さまの死後、江東の統治を固め、荊州に打って出る基礎を築いた。数多いる豪族をまとめ、人事も適材適所を実践していると思います」
俺の問いを周瑜と龐統が否定するが、逆に甘寧と蔣琬は不満を漏らした。
「だけど、その先が見えねえんだよなぁ。この人についていきゃあ、天下を取れるんじゃねえかってな」
「そうだなぁ。前の合肥攻めも、一部の武将や豪族に引っぱられたんだろ。そんなんだから、攻めるべき目標や時期を見誤るんだ」
「うむ、やるなら襄陽だけに集中すればいいものを、主攻面をふたつに分けてしまった。赤壁の戦いでも思ったが、指揮官を複数立てるのもよくないな」
「ですな。任せるなら任せるで、とことん信じてもらいたいものです。それを中途半端に口出しするのは、あまり良い主君とは言えませんな」
「おじ上。龐統さんまで……」
とうとう周瑜や龐統までもが、批判を口にする。
たしかに史実でも、孫権は外交面で優れた手腕を見せるものの、戦術や戦略についてはいまいちだ。
曹丕に取り入って呉王にしてもらい、その後は呉王朝まで創立するが、中華を統一できるような雰囲気は、これっぽちもなかったと言っていい。
それは孫権の死後も変わることがなく、西暦280年に孫呉は滅ぼされてしまうのだ。
そんな未来を知っている俺としては、たしかに孫家の実権を握りたい。
しかしその過程で血みどろの抗争を繰り広げたのでは、意味がないのだ。
「しかし孫権さまを中心にして、利益を得ている者たちが、納得しないでしょう。それに私はまだ13歳に過ぎませんから、誰も信頼しないですよね」
「いや、君の支持者は、着実に増えているよ。今回の成功で、さらに増えるだろう。しかし孫紹が若すぎるのも事実だ。実権を取りにいくのは、もう少し待ったほうがいいかな」
「ですな。15歳にもなれば、さすがに周りの見方も変わってくるでしょう。それまでは、おとなしく従うふりをしていればいいのです」
「ああ、それがいいだろうな」
「俺も賛成だ」
「……まるでもう、私が実権を取るのは確定みたいですね?」
俺を焚きつけてくる面々を、ジト目でにらんでやるも、彼らは楽しそうに、ニヤニヤ笑っていた。
味方が多いのは心強いが、他人事みたいに言うのはやめて欲しい。
いずれにしろ俺は、どうすれば軟着陸できるのか、しばらくは悩むしかなさそうだ。
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建安18年(213年)1月 荊州 南郡 襄陽
ハッピー・ニューイヤー、エブリバディ。
孫紹クンだよ。
襄陽を取った俺たちは、その余勢で樊城も奪取した。
樊城自体は襄陽より小さいし、襄陽と連携することが前提みたいな城だ。
おまけにすでに主要な武将は残っておらず、大軍で水陸両面から攻めてやったら、あっさりと陥落した。
これによって俺たちは、荊州の南郡から南を、全て支配下に収めることとなる。
今後は襄陽の守りをガッチリ固めて、中原への進出をうかがうことになるだろう。
そしてこれに強く反応したのが、朝廷だった。
なにしろ天子のおわす許都は、荊州の南陽郡からほんの100キロほどの位置にある。
こっちがその気になれば南陽を取って、さらに許都に迫ることも、さほど難しくはないのだ。
”すわ、天子さまの危機だ”ってことで、遷都が強行された。
まあ、史実で関羽が樊城を攻めてる時も、遷都が検討されたらしいからな。
実際に占領されたからには、おちおち寝てもいられないだろう。
結局、曹操が拠点にしている魏郡より、さらに北の鉅鹿が新たな首都となり、現在大急ぎで引っ越し中だそうだ。
大変だね~。
ちなみに新首都が曹操の本拠地の魏郡でないのには、相応の理由がある。
実は曹操クン、合肥で孫権を打ち破ったということで最近、魏公への就任を強行したばかりなのだ。
そしてゆくゆくは魏王への昇格も目論んでいるはずで、いずれは魏郡を魏国にするつもりなんだろう。
そんな所へ天子さまを置いとけないからな。
てっとり早く鉅鹿を首都にでっち上げたんだろう。
簒奪の臭いが、プンプンするねぇ。
一方、俺たちは襄陽の守りを固めつつ、人材登用や屯田を進めていた。
新たに仕官してくれた人物として、劉巴と楊儀がいる。
劉巴は前々から声を掛けていたのが、ようやく応じてくれた形だ。
今後は経済政策を中心に、活躍してもらいたい。
そして楊儀といえば、やはり蜀漢を盛り立てた才人である。
彼はこの襄陽で働いていたので、即行でスカウトしてやった。
ちょっと性格に難があるようだが、この世界では孫呉を盛り立ててほしいものである。
そんなこんなで襄陽で忙しくしていたのだが、今度は建業から呼び出しがかかった。




