17.周瑜からの応援要請
建安17年(212年)8月 益州 巴郡 江州
ロングタイム・ノーシー、エブリバディ。
孫紹クンだよ。
益州南部の統治に取り掛かって、はや1年。
その間に俺や孫郎は、バリバリと改革を進めた。
まずお約束のように豪族の脱税を調査し、悪質なものについては強制捜査を実行。
当然、やられる側は反発し、武力で対抗しようとしたが、しょせんは地方豪族である。
黄忠や孟達が率いる部隊により、各個撃破されていった。
やがて片手の指を超えるほどの豪族が粛清されると、敵の対応が変わってきた。
表向きは従うふりをして、交渉を持ちかけてきたのだ。
それこそこちらの思うつぼで、俺たちは豪族の懐柔に移る。
最初は税や労役、兵役の減免をちらつかせながら、豪族の持つ土地や私有民の把握を進めたのだ。
それと並行して、税制の変更にも手をつけた。
それまでの漢の税制だと、田租(土地税)と人頭税がメインだった。
(その他にも6畜算、市租、塩鉄税など、18種類ほどある)
このうち田租自体は、収穫物の10分の1とか30分の1とかで、税率は高くない。
だから大土地所有者(豪族)ほど、儲かって仕方ないのだ。
ところが問題なのは人頭税で、例えば成人ひとり当たり120銭といった額を、銭で払わねばならない。
これが庶民にはけっこうな負担で、ひとたび天災や戦乱が起これば、たちまち支払いに窮する場合も少なくなかった。
さらに作物を銭に替えるのも大変で、商人や豪族に足元を見られると、やっぱり支払いに困ったりする。
払えないとどうするかというと、中国の民はわりと簡単に土地を捨てて、流民化してしまうのだ。
とりあえず戸籍を抜けてしまえば、払わなくて済むからな。
そして捨てられた土地は豪族に接収され、流民も私有民として囲いこまれてしまう。
前漢時代はまだ市場システムが機能していたらしいが、それも時代と共に変わるものだ。
結局、そんな変化に対応できなかった税制は、後漢末期には破綻していたってのが実情だ。
そんな状態で中流層(小農民)はどんどん減少し、上流層(豪族)と下流層(貧農、奴隷)に2極化しつつあった。
本来、漢帝国を支えるべき中流層が減るということは、そのまま国力の衰退につながる。
そのうえ質のわるい官吏、宦官、外戚が蓄財と権力闘争に走った結果、漢は事実上の壊滅に陥ったという寸法だ。
そんな状態を変えようと、俺たちが打った手は、まずは人頭税の支払い方法の見直しだ。
具体的には銭だけでなく、作物や布帛(布類)、労役による支払いを認めた。
これは曹操もやってることで、過去の漢王朝でも例がある。
しかしこれだけでは庶民の負担がやはり重いので、豪族の田租負担を上げることにした。
それは持っている土地の広さによって、段階的に徴収比率を上げる方式だ。
いわゆる累進課税だが、最初から大規模に変えることはしない。
あまり急にやると、また反乱が起こっちまうからな。
さらに本来、奴隷には平民の倍の人頭税が掛かるのだが、これもきっちり徴収するようにした。
そうして少しずつ豪族の負担を増やし、その分を庶民から減免する方式にしたのだ。
これは庶民層に大受けで、俺たちの評判は上々である。
さらに流通網の整備を行い、ちゃんと労役に銭を払ったり、定期的にパトロールをして治安を回復したりと、統治に腐心していた。
その甲斐あって、この益州南部における統治は、だいぶ安定してきたとこだ。
ちなみにこの頃すでに、劉備は漢中を制圧しており、北側の守りを着々と固めていた。
さすがは三国鼎立の一角を担った英雄である。
この分ならじきに襄陽も制圧して、天下2分の策が成立するかと期待してたんだが、そうは問屋がおろさなかった。
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建安17年(212年)9月 益州 巴郡 江州
「孫権さまが敗れたのですか?」
「ああ、勇んで合肥を攻めたはいいが、返り討ちにあったらしい」
孫郎に呼ばれたので行ってみれば、いきなり孫権敗戦の報を聞かされた。
それはまず荊州で周瑜が、襄陽を攻略しようとしたことに始まる。
そしたら孫権が、合肥の攻略も同時に進めようとしたそうだ。
たしかに敵戦力を分散するという点ではありかもしれないが、それは曹操に準備の時間を与えてしまう。
襄陽に3万、合肥に4万の兵を入れ、迎撃してきたのだ。
中原の覇者にしては少なく見えるが、これも劉備を通して、涼州で馬超や韓遂に騒ぎを起こさせた結果である。
そしてこれに対し、周瑜の荊州軍と孫権の揚州軍が、それぞれ5万で挑んだのだが、どちらも敗退した。
特に合肥の方は一見、劣勢のふりをしておきながら、張遼が少数精鋭で突撃。
孫権がさんざんにかき回されているところへ、曹操の本隊の襲撃を受け、ほうほうの体で建業へ逃げ帰ったんだとか。
(この頃すでに、孫権は秣陵に石頭城を築き、建業と改名している)
「あれだけ揚州側は、攻めない方がいいと言ったのに……」
「まあ、そう言うな。あっちでは守ってばかりいるので、不満が溜まってるんだろうよ。おまけに我が軍の領地は広がり、兵も多い」
「それにしたって……」
長江を盾に江東を守るのは容易でも、北岸に攻め入るのは難しい。
水軍同士の戦いならまだしも、合肥のような城を攻めるには、相当の戦力がいるのだ。
しかし我が軍は荊州、益州と勝ちが続いたため、どうやら将兵の間に、油断が広がっていたらしい。
その結果が無理な城攻めであり、張遼と曹操による返り討ちというわけだ。
襄陽の方はそのような大被害は出ていないが、堅城にこもられて手も足も出なかったとか。
「しかしだからって、私を呼び出すのも、どうなんですかね?」
「う~む、周瑜さまも困っているのだろう。相談に乗ってやったらどうだ? 幸いにもこちらの状況は、落ち着いてきている」
そして襄陽を攻めあぐねている周瑜から、益州への援軍要請が来たらしい。
揚州は大敗した後なので、こちらに話が来るのはおかしくない。
しかしなぜか周瑜は、俺に軍を率いてこいと言うのだ。
「しかし2万も連れていって、大丈夫ですか? またぞろ豪族が、騒ぎだすかもしれませんよ」
「それでも1万やそこらは、いつでも兵を出せるんだ。黄忠さえいれば、なんとでもなるさ」
「う~ん、それではお言葉に甘えて、2万を借りていきます。なるべく早く戻れるよう、努力しますよ」
「なに、そう心配せんでもいいぞ」
孫郎は気前よく2万の兵を出してくれるそうだ。
さらに益州組の呉懿や黄権を、補佐としてつけてくれる。
これなら多少は役に立てるかもしれない。
それにしても……
「あまり目立ちたくは、ないんですけどねえ」
「何をいまさら。せっかくだから、思いっきり目立ってこい。そうすれば、お前を我が軍の旗頭にしやすくなる」
「おじ上!」
「そういきり立つな。別に権の兄貴が、悪いってんじゃないんだ。しかしお前と比べると、どうしても見劣りがしちまう。曹操という強大な敵と戦うには、当主を変えるのも手だと思うんだ。案外、それを望んでる者も、多いんじゃねえかな」
「そうでしょうか?……」
「なあに、どうせ今すぐって話じゃねえ。将来のことと思って、考えておけ。いずれにしろ俺は、お前の味方だぜ」
「……分かりました。少し考えてみます」
思わぬところで、頼もしい話が聞けた。
しかしはたして、孫権を押しのけてまで、やるべきことなのか?
そんな迷いを俺は、振り払えないでいた。




