表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
それゆけ、孫紹クン! ~孫策(オヤジ)の夢はオレが継ぐ~  作者: 青雲あゆむ
第1章 実権掌握編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/64

17.周瑜からの応援要請

建安17年(212年)8月 益州 巴郡 江州


 ロングタイム・ノーシー、エブリバディ。

 孫紹クンだよ。


 益州南部の統治に取り掛かって、はや1年。

 その間に俺や孫郎は、バリバリと改革を進めた。


 まずお約束のように豪族の脱税を調査し、悪質なものについては強制捜査を実行。

 当然、やられる側は反発し、武力で対抗しようとしたが、しょせんは地方豪族である。

 黄忠や孟達が率いる部隊により、各個撃破されていった。


 やがて片手の指を超えるほどの豪族が粛清されると、敵の対応が変わってきた。

 表向きは従うふりをして、交渉を持ちかけてきたのだ。

 それこそこちらの思うつぼで、俺たちは豪族の懐柔に移る。


 最初は税や労役、兵役の減免をちらつかせながら、豪族の持つ土地や私有民の把握を進めたのだ。

 それと並行して、税制の変更にも手をつけた。


 それまでの漢の税制だと、田租(土地税)と人頭税がメインだった。

 (その他にも6畜算、市租、塩鉄税など、18種類ほどある)

 このうち田租自体は、収穫物の10分の1とか30分の1とかで、税率は高くない。

 だから大土地所有者(豪族)ほど、儲かって仕方ないのだ。


 ところが問題なのは人頭税で、例えば成人ひとり当たり120銭といった額を、銭で払わねばならない。

 これが庶民にはけっこうな負担で、ひとたび天災や戦乱が起これば、たちまち支払いに窮する場合も少なくなかった。

 さらに作物を銭に替えるのも大変で、商人や豪族に足元を見られると、やっぱり支払いに困ったりする。


 払えないとどうするかというと、中国の民はわりと簡単に土地を捨てて、流民化してしまうのだ。

 とりあえず戸籍を抜けてしまえば、払わなくて済むからな。

 そして捨てられた土地は豪族に接収され、流民も私有民として囲いこまれてしまう。


 前漢時代はまだ市場システムが機能していたらしいが、それも時代と共に変わるものだ。

 結局、そんな変化に対応できなかった税制は、後漢末期には破綻していたってのが実情だ。

 そんな状態で中流層(小農民)はどんどん減少し、上流層(豪族)と下流層(貧農、奴隷)に2極化しつつあった。


 本来、漢帝国を支えるべき中流層が減るということは、そのまま国力の衰退につながる。

 そのうえたちのわるい官吏、宦官、外戚が蓄財と権力闘争に走った結果、漢は事実上の壊滅に陥ったという寸法だ。


 そんな状態を変えようと、俺たちが打った手は、まずは人頭税の支払い方法の見直しだ。

 具体的には銭だけでなく、作物や布帛ふはく(布類)、労役による支払いを認めた。

 これは曹操もやってることで、過去の漢王朝でも例がある。


 しかしこれだけでは庶民の負担がやはり重いので、豪族の田租負担を上げることにした。

 それは持っている土地の広さによって、段階的に徴収比率を上げる方式だ。

 いわゆる累進課税だが、最初から大規模に変えることはしない。


 あまり急にやると、また反乱が起こっちまうからな。

 さらに本来、奴隷には平民の倍の人頭税が掛かるのだが、これもきっちり徴収するようにした。

 そうして少しずつ豪族の負担を増やし、その分を庶民から減免する方式にしたのだ。


 これは庶民層に大受けで、俺たちの評判は上々である。

 さらに流通網の整備を行い、ちゃんと労役に銭を払ったり、定期的にパトロールをして治安を回復したりと、統治に腐心していた。

 その甲斐あって、この益州南部における統治は、だいぶ安定してきたとこだ。


 ちなみにこの頃すでに、劉備は漢中を制圧しており、北側の守りを着々と固めていた。

 さすがは三国鼎立の一角を担った英雄である。


 この分ならじきに襄陽も制圧して、天下2分の策が成立するかと期待してたんだが、そうは問屋がおろさなかった。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


建安17年(212年)9月 益州 巴郡 江州


「孫権さまが敗れたのですか?」

「ああ、勇んで合肥ごうひを攻めたはいいが、返り討ちにあったらしい」


 孫郎に呼ばれたので行ってみれば、いきなり孫権敗戦の報を聞かされた。

 それはまず荊州で周瑜が、襄陽を攻略しようとしたことに始まる。

 そしたら孫権が、合肥の攻略も同時に進めようとしたそうだ。


 たしかに敵戦力を分散するという点ではありかもしれないが、それは曹操に準備の時間を与えてしまう。

 襄陽に3万、合肥に4万の兵を入れ、迎撃してきたのだ。

 中原の覇者にしては少なく見えるが、これも劉備を通して、涼州で馬超や韓遂に騒ぎを起こさせた結果である。


 そしてこれに対し、周瑜の荊州軍と孫権の揚州軍が、それぞれ5万で挑んだのだが、どちらも敗退した。

 特に合肥の方は一見、劣勢のふりをしておきながら、張遼ちょうりょうが少数精鋭で突撃。

 孫権がさんざんにかき回されているところへ、曹操の本隊の襲撃を受け、ほうほうの体で建業けんぎょうへ逃げ帰ったんだとか。


 (この頃すでに、孫権は秣陵ばつりょうに石頭城を築き、建業と改名している)


「あれだけ揚州側は、攻めない方がいいと言ったのに……」

「まあ、そう言うな。あっちでは守ってばかりいるので、不満が溜まってるんだろうよ。おまけに我が軍の領地は広がり、兵も多い」

「それにしたって……」


 長江を盾に江東を守るのは容易でも、北岸に攻め入るのは難しい。

 水軍同士の戦いならまだしも、合肥のような城を攻めるには、相当の戦力がいるのだ。

 しかし我が軍は荊州、益州と勝ちが続いたため、どうやら将兵の間に、油断が広がっていたらしい。

 その結果が無理な城攻めであり、張遼と曹操による返り討ちというわけだ。


 襄陽の方はそのような大被害は出ていないが、堅城にこもられて手も足も出なかったとか。


「しかしだからって、私を呼び出すのも、どうなんですかね?」

「う~む、周瑜さまも困っているのだろう。相談に乗ってやったらどうだ? 幸いにもこちらの状況は、落ち着いてきている」


 そして襄陽を攻めあぐねている周瑜から、益州への援軍要請が来たらしい。

 揚州は大敗した後なので、こちらに話が来るのはおかしくない。

 しかしなぜか周瑜は、俺に軍を率いてこいと言うのだ。


「しかし2万も連れていって、大丈夫ですか? またぞろ豪族が、騒ぎだすかもしれませんよ」

「それでも1万やそこらは、いつでも兵を出せるんだ。黄忠さえいれば、なんとでもなるさ」

「う~ん、それではお言葉に甘えて、2万を借りていきます。なるべく早く戻れるよう、努力しますよ」

「なに、そう心配せんでもいいぞ」


 孫郎は気前よく2万の兵を出してくれるそうだ。

 さらに益州組の呉懿ごい黄権こうけんを、補佐としてつけてくれる。

 これなら多少は役に立てるかもしれない。

 それにしても……


「あまり目立ちたくは、ないんですけどねえ」

「何をいまさら。せっかくだから、思いっきり目立ってこい。そうすれば、お前を我が軍の旗頭にしやすくなる」

「おじ上!」

「そういきり立つな。別に権の兄貴が、悪いってんじゃないんだ。しかしお前と比べると、どうしても見劣りがしちまう。曹操という強大な敵と戦うには、当主を変えるのも手だと思うんだ。案外、それを望んでる者も、多いんじゃねえかな」

「そうでしょうか?……」

「なあに、どうせ今すぐって話じゃねえ。将来のことと思って、考えておけ。いずれにしろ俺は、お前の味方だぜ」

「……分かりました。少し考えてみます」


 思わぬところで、頼もしい話が聞けた。

 しかしはたして、孫権を押しのけてまで、やるべきことなのか?

 そんな迷いを俺は、振り払えないでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
太平洋戦争の歴史改変モノを読みたかったら、こちらをどうぞ。

未来から吹いた風 ~5人でひっくりかえす太平洋戦争~

現代人が明治にタイムスリップして、歴史をひっくり返すお話です。

― 新着の感想 ―
[一言] 孫権が歴史通り? 合肥で負けたので孫権はパッとしないというのが 豪族、名族の評価になりそうかな? 孫紹クンが孫呉の主になる日も近い?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ