10.新領地の統治計画
建安14年(209年)5月 荊州 南郡 江陵
俺は南部での人材集めから江陵に戻ると、まずは周瑜に報告した。
「黄忠 漢升と申す。以後、よしなに」
「魏延 文長です。よろしくお願いいたす」
「蔣琬 公琰だ。よろしくな」
「ふむ、周瑜 公瑾だ。こちらこそ頼む。なにしろ我が軍は人材不足だ。できる人間は歓迎するぞ」
さっそく黄忠と魏延、蔣琬を紹介すると、大歓迎された。
なにしろ周瑜は、荊州牧に就任し(あくまで自称だが)、荊州を統治しようとしているのだ。
人手はいくらあっても足りない。
ちなみに周瑜の方でも人材集めはやっていて、すでに龐統が仕官していた。
さらに龐統と親しい、尚郎という文官も仕官してきている。
2人とも、劉備に仕えた有名人だ。
あいにくと馬良はまだだが、いずれ動きがあるんじゃないかと思っている。
こうして人が集まったところで、周瑜が荊州を運営するための会議を開いた。
「今日は今後の荊州運営のため、方針を話し合いたいと思う。良い提案があれば、その仕事を任せてもいいので、忌憚なく意見を出してくれ」
そんな言葉を掛けつつ、まずは荊州内の情勢を説明していく。
まず荊州には、南陽、南、江夏、武陵、零陵、長沙、桂陽の7郡がある。
しかし最大の人口を擁する南陽郡(約240万人)は、残念ながら曹操の支配領域だ。
他の6郡を合計しても380万人程度なので、人口比でいえば6割程度に過ぎない。
そして武陵郡(約25万人)は劉備に任せたので、350万人ほどを孫呉が押さえているような状況だ。
ちなみにこれは揚州も似たような状況で、孫家は丹陽、呉、豫章、会稽の4郡しか押さえてない。
総人口430万人のうち、廬江と九江を除くと、やはり350万人程度だ。
つまり孫呉は揚州、荊州を合わせて、700万人ほどの領民を抱えたことになる。
なんとか江東を制圧した孫策の時代に比べれば、大きな躍進ではあるが、まだまだ足りない。
なにしろ曹操が牛耳る中原には、3千万人近くもの人口があるのだ。
中原を制する者こそ、中華を制すると言われるのも、当然であろう。
そんな状況を聞いた後で、まず龐統が口を開く。
彼は今年30歳で、あまり風貌のさえないおっさんだ。
「まずは民心の掌握が必要でしょうが、状況はどうなのですか?」
「うむ、短期間で大軍を打ち破ったせいか、民の反応は悪くない。まあ、税の軽減も効いているだろうがな」
「それはあるでしょうね。いずれにしろ、それを盤石にするため、公平な統治を心がけるべきでしょう」
「そうだな。もっとも、豪族には利を示すしかないがな」
「ハハハ、それは仕方ありませんね」
そう言って、龐統と周瑜が苦笑いしている。
なぜならこの時代、すでに漢朝の統制はゆるみまくり、豪族が好き勝手をしているからだ。
元々、後漢の体制が崩壊する190年ごろ以前から、地方豪族の脱税、軍閥化は進行していた。
ここで言う豪族とは大土地所有者のことで、その財力と権力に明かして、強引に土地を増やす傾向にあった。
これが”兼併”と呼ばれる現象で、これによって中間層である小農民が減少し、人民の構成が富裕層と貧民層に2極化してしまう。
すると富裕層は脱税をし、貧民層は税が払えなくて流民化、奴隷化しているため、国庫に税が入らなくなる。
それだけでなく、豪族が私有民を囲いこむため、国は労役や兵役を課すことができなくなり、ますます社会が荒廃するという、悪循環に陥っていたのだ。
そんなボロボロに疲弊した後漢王朝を、董卓という男が一時、牛耳った。
それは董卓の才覚もあるだろうが、宦官と清流派の争いから逃げ出した天子を、まんまと手に入れた幸運が大きい。
しかし関西(函谷関以西の地域)出身の董卓が成り上がるのを、ねたむ者も多かった。
結局、さんざんに足を引っぱられたうえに、反董卓連合などという反乱軍の蜂起を許してしまう。
これにあわてた董卓は、長安への遷都と洛陽の破壊を実行してしまった。
洛陽は、ただ首都と呼ばれていただけの都市ではない。
それは黄河流域の都市を束ねる、華北の重要な結節点なのだ。
それを破壊したおかげで、漢の統治機構はズタズタになってしまう。
その後、反董卓連合を自力で鎮圧できなかったこともあって、漢の威信は地に落ちた。
そして朝廷に反乱の鎮圧能力がないのを見てとった、各地の豪族や名士が、勝手に兵を挙げて軍閥化する。
かくして中華の地は、軍閥同士がしのぎを削る乱世に、突入したって寸法だ。
そんな状態だから、孫軍団のような軍閥は、漢の統治機構を踏襲しつつ、豪族とはうまく付き合わねばならない。
豪族に適当な利益を示しつつ、兵糧や兵力を出させるのだ。
しかしそんなことをしていては、いつまで経っても曹操と渡り合うことなどできないだろう。
「おじ上、せっかくですから、ちょっと豪族の統制を強めませんか?」
「む、それはどういうことだ?」
「質の悪い豪族をいくつか滅ぼして、民と土地を接収するのです。そうすれば自前の兵力が増えるし、他の豪族も協力的になるでしょう?」
「孫紹、お前……」
「子供のくせに、なんという物騒なことを……」
周瑜と龐統が、ドン引きした顔で俺を見る。
さすがに10歳の子供が言うのは、インパクトが強すぎただろうか。
しかし思わぬところに味方もいた。
「ブハハハハ、おもしれえこと言うなあ、お前。だけどその悪辣さがいい。俺はその提案、支持するぜ」
そう言って俺の背中をバシバシたたくのは、蔣琬であった。
それまでつまらなそうに話を聞いていたのとは、大違いである。
どうやら何か、変なスイッチが入ったらしい。
彼は周瑜に向き直ると、拱手の礼をとって、進言する。
「周瑜さま。孫紹どのの進言、上策と存じます。私の知る限り孫軍団、特に周瑜さまは此度の大勝利によって、鬼神のごとく恐れられております。おそらく強気に出たほうが、得られるものは多いでしょう。そしてなおも敵対するような勢力を、いくつか叩き潰してやれば、荊州の治まるところ大であると、愚考いたします」
「ふむ、その方はそう見るか。どう思う? 龐統」
「……最初は驚きましたが、言われてみれば、そう悪くはないですね。悪質な豪族をこらしめる一方で、法を重んずれば、我らが私欲で動いていないことは、示せるでしょうし」
「なるほど。州内の治安を引き締めつつ、豪族の首根っこを押さえるか。たしかに悪くない。孫紹、そんなことをどうやって考えついた?」
そう問われ、俺は肩をすくめながら答える。
「人材探しでいろいろ歩き回ってるうちに、考えつきました。蔣琬どのが言うように、おじ上は恐れられていますからね」
「なるほど、やはり現場の情報は大事だな。他に進言はないか?」
「それであれば、もうひとつ。たしか曹操は、屯田制と兵戸制によって、食料と兵力を養っていると聞きました。この荊州でも、それを真似てみてはどうでしょうか?」
「屯田と兵戸、か。豪族から接収した土地と民を使うのだな?」
「ええ、そうです。華北から流れてきた民も、そこに吸収できるでしょう」
屯田制とは兵士などをある土地に住まわせ、平時は農業、戦時は兵士として使う制度だ。
そして兵戸制とは、専従兵士を農民とは別の戸籍に登録し、税の減免をする代わりに、兵役の義務を課す制度である。
曹操はこれらを巧妙に組み合わせ、強大な軍を養っていた。
「よかろう、孫紹の進言、前向きに考えてみようではないか。それにしてもつくづく、10歳とは思えないな」
「まったくです。これは私も、負けていられませんな」
「おう、俺もしっかりしなきゃな」
周瑜たちが、そんなことを言っている。
実は俺の中身は40代だから、これぐらい考えていても不思議ではないのだが、傍目には10歳だ。
それなりに刺激を受けているのだろう。
願わくば、彼らにはバリバリ働いてもらって、荊州の統治を盤石にしたいものである。