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新釈・私の近現代史  作者: CirHill
3. 第二共和政(2008年10月-2011年3月)
8/15

3.5. 壊れた楽園

さて、高校生活最後の1年である2010年に筆を進めよう。この年は、7月に友人の誘いでTwitterを始めるという歴史的に極めて意義深い出来事があった。これより後、様々な歴史的事件がTwitterに関与して発生していくこととなる。また、その当時のTwitterの記録を参照することで豊富な1次史料が得られ、本作の執筆にも少なからず役立つこととなる。ちなみに、私がインターネット上でよく使うCirHillという名義は、このときに最初につけたハンドルネームを学年の友人が短く愛称化してくれたものだ。


いよいよ最終学年である。科学部に於いては、前述の通り同学年は他にいなかったので、2009年の秋頃になると必然的に私のキャプテン就任と言う話が取りざたされるようになった。


しかし、最初にこの話が出たとき、私はこのような役割には就きたくなく、G顧問に「経験不足を口実に、1つ下の学年を就任させてはどうか」などと伝えていた。私は新年度を迎える時点で入部後わずか18ヶ月であるし、普段の活動の有様も全然真面目ではなく、することはゲーム、動画鑑賞、スポーツの3つだけである。誇るべき実績もなく、いままでの歴代キャプテンと比べて明らかに見劣りがしていた。そして、高学年という立場にありながら周囲を引っ張っていくことは嫌いで、むしろ付いていく側の人間だったからだ。


科学部ではキャプテンの代替わりの際に、卒業学年がG顧問に次年度のキャプテンを推挙する”重臣会議”を設けることが慣例となっていたが、その重臣会議も結論を出しあぐねていた。例年は暮れまでに新キャプテンが就任するはずが、決まらないまま年を越してしまうという異常事態となり、少しずつ部内に不安が広がりつつあった。


しかし、G顧問の本命は最初から最後まで私だったようだ。科学部ではG顧問の意思は絶対である。年が明けると、私はG顧問からの”大命降下”によりキャプテンに就任することになった。ここから、科学部の情勢は混迷を深めていく。


これと前後して、私は科学部内での人間関係に変化を感じるようになった。風向きが怪しいと思ったのは2月から3月の時期にかけての時期で、どうも後輩たちの私に対する接し方がよそよそしくなったように感じられはじめた。例えば、普段から彼らとはチャットのような形でグループ内で一斉同報メールを回してコミュニケーションをとっていた(当時はLINEというアプリはないが、いまでいえばLINEグループのようなもの)が、どうも私を外した裏グループというものがあることが示唆されはじめた。


この変化の原因としては、まず人員の入れ替わりによる部内の変化が考えられる。1つ上の学年には変人気質の人が多かったが、彼らがいなくなり、代わりに低学年が台頭し始めた。彼らは比較的一般的な価値観を持っていて(変人ではない)、彼らのプレゼンスが高まるにつれ部内の雰囲気もそちら側に傾き、私のような変わった人間が受け入れられる余地が減少した可能性がある。


しかしそれ以上に影響したと思うのが、私のキャプテン就任だ。私は活動には熱心でなかった上、何よりリーダーシップを取るタイプではなく、いい加減な性格であった。それでも一部員としてならば厳しくない先輩としてむしろ有難がられ、受け入れられてきていた。だが、キャプテンとなるとこれは役割放棄と映り、厳しい批判を浴びることとなった。


折しも、前年に国民の大きな期待の中で発足した民主党の鳩山由紀夫政権が、普天間基地問題などに代表される「決められない政治」を露呈し、急速に支持を失いつつあった。野党時代は与党の政策を舌鋒鋭く批判できればよかったが、与党になると批判するのではなく、むしろ批判を押し切って政策を実行していくことが求められる。同じ性格でも、そのときの自分が負っている役割に相応しければ好かれるし、そうでなければ嫌われるのだ。


個性とか自分らしさが大切だとはよく言われるが、実際の人間関係では役割を果たす、つまりリーダーであればリーダーシップを発揮し、恋愛関係であれば男らしさ、女らしさを演出していく、ということを無視してしまえば結果的に幸せにはなれないものだと思う。私はリベラル側の人間なので役割の押し付けというものにはずっと反発を感じてはいるけど、ある程度は社会が自分に望む役割と折り合いをつけていくべきだといまは考えている。勿論、役割を人に強要していきたいということではなく、あくまで自分の生き方に対する心構えとして、役割を軽んじないようにしたいということだ。


しかし、この辺りのことに当時は全然思いが至らず、風向きの変化にただ狼狽するばかりであった。そればかりか、人間不信や疑心暗鬼に陥った結果、周囲に対して常に疑ったような接し方をし始めた。それはメールの書き方とかにも現れていたし、イベントなどのときもせっかく誘いが来ても参加しないと駄々を捏ねるような言動をしたこともあった。


同性との関係でも異性との関係でも、人が思うように自分を好いてくれないということは必ずあり、そのつらみの中でどう自分を律していくかはいまでも難しい問題だ(つらみを顔に出さずに距離をとり、しかし同時に卑屈さを感じさせてはいけない)。こういうときの振る舞いで人物の度量が知れると思うが、当時の私は未熟だった。人間関係の経験値が圧倒的に不足していたと思う。対応のまずさで更に周囲と溝ができるという悪循環となり、私の科学部内での立場は急激に悪化していった。


3月に、私は科学部のメンバーから誘われて、学校で主宰されるスキー学校に一緒に参加した。スキー学校には科学部のメンバーが毎年多数参加していた。舞台は長野県の志賀高原だ。私にとっては人生で初めてのスキー経験で、ここでスキーを教わりその楽しさを知ったことが、その後スキーを趣味とし今日に至るまでほぼ毎年ゲレンデに通うことに繋がった原点である。そういう意味で、文化史的にも重要な意味を持つイベントだ。


そして、私と科学部の関係性の上でも転換点となった。


スキー学校では毎年最終日前日の夜にスタンツ大会、要するに生徒たちによる出し物が行われていた。科学部では毎年スキー学校にメンバーを送り込み、スタンツ大会で部としてのスタンツを実施するということが伝統になっていた。そして、私はG顧問から直々に、キャプテンとしての初仕事としてスタンツを取り仕切る責任者を拝命していた。私としては、スタンツ大会を含めたスキー学校の活動の中で、部員たちとの親密な関係を取り戻し、状況を立て直すことを企図していた。


けれども、結果は暗澹たるものであった。私は必死に声を掛けるものの、前述のような理由から私にと距離を置き始めていた部員たちは非協力的で、準備の為の話し合いにすら集まってくれなかった。既に彼らは私を完全に見限っており、私を無視して独自にスタンツ大会に出場すると通達してきた。結果的に、科学部のスタンツはバラバラで行われることとなった。ただ1つ救いなのは、私が他のメンバーとは別に1人でスタンツに出なければならないのかと悩んでいたところ、同室で仲良くなった親切な高1が、元々何の関係もないのに私と一緒にスタンツに出場してくれたことだ(チルノダンスを一緒に踊ってくれた)。


しかし、前代未聞の科学部分裂は部の威信を大きく失墜させるものであり、同時に私の求心力不足が象徴的に示される結果となった。そしてこれを契機に、科学部内で私に反感を持つ、いわばクーデター派の人々は勢いを得て、今後ますます私を追い落とそうとする動きを強めていくこととなった。十月革命のゆりかごであり、私にとって1つの「楽園」であった科学部が壊れ始めたのだ。

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