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新釈・私の近現代史  作者: CirHill
3. 第二共和政(2008年10月-2011年3月)
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3.4. 平和の果実

2009年は概ね平和に経過した。私にとってこの時代は、中学入学以降ではじめて得た平和な時代だった。その平和の果実として、対人活動や文化活動の面で多くの結実もあった。楽しい思い出は沢山あるが書ききれないので、エピソードを絞って取り上げる。


まず、科学部の合宿について。科学部の合宿では、毎年工場や研究所の見学が盛り込まれていた。2009年の合宿では、G顧問が日本原子力研究開発機構とのコネを有していたことも手伝って、茨城県にある大強度陽子加速器「J-PARC」、及び高速増殖炉「常陽」を(通常非公開の部分も含めて)見学することができた。


中でも、常陽の中央制御室のシミュレータを触らせて頂いたことは印象深い。これは運転員が訓練に使う為の本格的なもので、実物と同じ大きさの部屋に操作卓や制御盤が配置されていて、コンピュータが原子炉の挙動をシミュレートして操作に対するアンサーバックを実物さながらに返してくる仕組みだ。私はためしに所外から供給されている外部電源を切って、いわゆるステーションブラックアウトを再現してみた。すると、ひねりスイッチを回した瞬間に部屋の照明が全部落ち、真っ暗闇の中で大音量の警報音とともに異常を知らせる数多の集合表示灯が一斉に点滅した。その中で制御棒が自動挿入され、あれよあれよという間に原子炉が緊急停止し、同時に非常用ディーゼル発電機が起動してマグネットスイッチの小気味よい投入音とともに電源が復旧した。本当にすごい迫力で大変愉快であったし、日本の原子力技術に対する信頼も深まった。


しかし、これとほぼ同じ事象が2年後の福島で実際に起こり、制御シーケンスはシミュレーションと同様正確に動作したものの、シミュレータが想定していない津波による非常用ディーゼル発電機の水没で過酷事故に発展し、何万人もの人が生業と故郷を奪われる事態に至ったことを思うと、何とも複雑な心境になる。


社会人としての本業と被る分野なのであえて専門用語も入れて書いてみたが、このときに巨大な原子力プラントを操る制御システムというものに興味を持ったことが、後に職業選択の際にいまの分野に進んだことに何らかの因縁があるように思えて面白い。


合宿は楽しかったが、普段の活動はというと正直なところ低調になっていった。2009年の初期は結構真面目に研究をしていて、プレゼンやポスターセッションという形で対外発表もこなしていた。G顧問から丁寧な指導を受けられたこともあり、これは後々まで使えるスキルが身に着くことに繋がったと思う。しかし、学問的なことへの興味が失われるにつれ、殆ど実験などはしなくなり、対外発表の機会はあったがほぼ過去の成果の焼き直しで誤魔化していた。ついでにいうと、高校の卒業論文もである。尤も、過去の「自分の」成果であっただけ大学時代よりはマシかもしれないが。


だが、研究はしないながらも部活には毎日顔をしっかり出していた。することは、主にゲーム、動画鑑賞、スポーツの3つである。特に、校庭を運動部と奪い合いながらサッカーに興じたこと、運動部に追い出されたので下校時間を回って彼らが居なくなってから、水銀灯の消えた真っ暗な校庭でサッカーを再開し、闇雲にボールを蹴りまくったこと(当然後でG顧問に叱られた)などは本当に愉快だった。


科学部以外の話題にも目を向けてみよう。


この時期にあっては、私は既に学問への興味を失っていたので、学校の授業の受け方もいい加減になっていた(当然成績は低下したが、特に気にしなかった)。近くの席の友達とのおしゃべりや、あるいは居眠りをしながら適当に聞き流すのが常であった。私の学校は学級崩壊というほどではなかったが、授業の雰囲気は緩く、私語も当たり前であった。こうした風潮を全肯定するわけではないが、私にとっては友人作りに役立った。それに、私語といっても授業内容に関連した不規則発言も多かったので、全く沈黙の中で授業が行われることに比べれば、勉強が苦手な人でもなにかしらは授業内容に関連した知識を吸収するきっかけに繋がっていたと思う。


学校の授業の中で例外的に非常に興味を持って聴いていた科目が、日本史・世界史である。元々歴史には興味があったが、担当のN先生(仮名)の語り口が軽妙でユーモアに富んでいたことが大きな理由だ。しかし、単なるバカ話をするだけの授業ではなく、時に歴史に英雄は必要か?とか、正義の戦争はあるか?といった教科書に載らないながら重要なテーマについて考える時間を設けたりもしていた。そして、私にとって好ましいことに、N先生は左翼的な思想の持ち主で、そういう視座からの歴史解説も面白かった。特に、19世紀から共産主義が歴史に登場しだすと授業は熱を帯び、私とN先生の2人だけで共産主義ネタで大盛り上がりすることもあった。周囲の人からは「この人たちやばそう笑」という目で見られ、私のキャラに共産主義者という新たな属性も付与された。


学校からは外れる話題だが、この時期は人生で初めてのアルバイトの就労経験もあった。2009年の12月から1月に掛けて、私は郵便局で年賀状の仕分けのバイトをしている。業務はさほど大変ではなく、むしろ実際に社会を裏側から支えるような仕事ができるのが面白かった。勿論、高校生にとってはインパクトの大きな額の給料がもらえたのも嬉しかった。そして何より、社会不適合者、NEET予備軍を自認していた私が、バイトとはいえ就労経験を通じて実社会との繋がりを持ち、その中に面白さを感じ、社会参加に自信をつけることができた点は非常に意義深かった。バイトをしてみようと思ったのは、当時学校で私が休み時間によく話していた友人が、このバイトではなく別のバイトではあるが、バイトの話を楽しそうによく聞かせてくれたことがきっかけであった。その意味から、この経験も人間関係に於ける革命の成果の一環として語られるべきものである。


この時期を語る上で、もう1つ取り上げたいのが、マラソン大会のエピソードである。私の学校では、「マラソン大会」なる悪習があった。これは、休日に生徒を召集し、強制的に長距離を走らせるというものである。ちなみに、参加するマラソン大会は「府中・多摩川マラソン」である。ここで府中、多摩川が出てくるあたり、また何か因縁めいたものを感じてしまう。


このような体力イベントは私にとっては恐怖の対象であり、サボることにした。しかし、体育教師から「参加しなければ体育を不合格にする」と恫喝されたので、仕方なく参加することになった。最初の方はまぁそれなりに一生懸命走った。偶々近くに普段から私とよく大富豪をしていた友人がおり、一緒に走ってくれた。しかし、疲れてきた辺りからどちらが言い出したかは定かではないが「歩こうぜ」ということになった。別に見張りもいないので、リラックスしてお互い私語をしながらゴールまで歩いた。こうなると、マラソン大会は恐怖の対象だったはずだが、もはや呑気で牧歌的な晩秋のお散歩でしかなくなった。結果的に体育は合格が付いたし、ついでに1学年のときに不合格だった体育まで追合格をもらえた(本当は追合格するには剣道の実習をしないといけなかったが、逃げ切ってしまった)。


大したエピソードではないのだが、私はここで一緒に歩く友さえいれば苦しい道程も楽しみになるということ、そしてもう1つ、「手を抜く」ということを覚えた。生まれてこのかた優等生として過ごしてきた私は、手を抜くということを知らなかったのだ。何事も全力で、というのはご立派だが、それではとても生きづらい。程よく手を抜くことを覚える方が人生が楽になるのだ。尤も、「程よく」と言うのがポイントで、手を抜くことを覚えるのが遅かった私はその加減が掴み切れず、抜き過ぎて留年したりもするのだが。


友人も増え、その中で彼らからポジティブな影響を受け、楽しい学校生活を過ごすことができた。このように、革命の成果が様々な面に現れ、普段の日常生活が大きく充実していったのが2009年の経過であった。

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