3.3. 開かれる突破口
2009年が明けた。世界と日本は前年の金融危機で混沌のどん底にあったが、アメリカではバラク・オバマ氏がアフリカ系として初めて大統領に就任し、日本でも鳩山由紀夫氏率いる民主党が政権交代を成し遂げた。それまでの時代を支配していたシステムや思想が役に立たなくなり、大きな混乱を巻き起こしながら古い時代が終焉した。その一方で、混乱の中から新しい変革が力強く芽吹きはじめていた。そういう社会情勢であったし、当時の私の人生の状況もそれと似た感じだった。
前述した通り、科学部内での人間関係は充実したものになりつつあったが、他方学年では未だに孤立していた。科学部には私以外の同学年がいなかったので、学年に於ける所謂キャラ付けというものを意識せず自由に新しい人間関係を作れた。しかしその反面、科学部で人間関係を作っても学年への波及はなかったし、学年で人間関係をやるのはそれまでのキャラ付けがある分困難に思われた。だが、この頃から突破口を得て少しずつ打ち解けていくこととなる。突破口として大きな役割を果たしたのは、十月革命の中の文化革命の成果として得られたサブカルチャーの話題であった。
十月革命以降、私は従前の「天才」イデオロギーを取り下げていたから、徐々に学年の人民に対する敵視、蔑視姿勢を緩和させていた。そうした状況下で、机の周りで聞こえてくる彼らの会話に耳を澄ますと、東方の話題が聞こえてきたりした。それまで私は趣味的な活動を殆どしていなかったので、私が周囲の人間と共通の話題を持てる可能性があるということは当時としては本当に画期的なことで非常に嬉しく感じた。
共通の話題があればすぐに友人になれるわけではないし、こういう(既に人間関係ができていて、自分はその枠外にいる)状況でいきなり人の輪に入るのは一般的に非常に困難と思う。だが、当時の私はわりと怖いもの知らず(いわゆる、喋るタイプのコミュ症)だったので、話題に介入していった。介入と言っても、ボソボソッと二言三言喋るようなかんじで大変稚拙なものであり、普通に考えればこれで友人になるのは難しいように思う。きっと的外れだったり、反応に困るような発言だったりも多かっただろう。しかし、学年の人民は私が思っていたのよりもかなり優しくて、私が何か発言すると輪に入れるようにうまい具合に拾ってくれたのだ。
結果的に、彼ら(東方を話題にすることから分かるように、キャラクターとしてはオタク的な人物から構成されるグループ)とは高校の残りの期間を通じて親交を深めていき、高校時代の後半の多くの休み時間は彼らとトランプの大富豪をして過ごすようになった。学校帰りに一緒にカラオケに行く機会なども後々得られた。勿論、私は中心人物とはいかず、どちらかというと周辺に分類されるポジションであったと思うけど、それで嫌な思いをするようなことは全然なく、大変よくしてもらえていたと思う。
また、これとは独立した流れとして、机でライトノベルを読んでいたところ、本の内容について話し掛けてくれて友人となった人、高校3年時になるが選択科目で一緒になり友人となった人などがある。
このように書くとあっけないし、実際友人作りというのは多くの健常者にとってわけもないことだ。しかし、この一連の流れ、すなわち十月革命の成果が学年の人間関係にも拡大していったことは私にとっては十月革命それ自体に負けず劣らずと言える程に革命的なことだった。この流れは、十月革命を世界に拡大しようとしたトロツキーの永続革命論にちなんで、「永続革命」と呼ばれている。
十月革命は偉大だが、科学部という閉じた特殊なコミュニティ内の話に過ぎなかった。一方、永続革命と呼ばれるこの時期の学年での人間関係の展開は、もっと広く色々な種類の人間と交流が可能であることを証明した。いきなり運動部の人間と友人になったわけではないにしろ、科学部の中だけよりも多様な人物と交友が持てたし、高校生活の終盤に至っては中学時代に私をいじめていたような人物とすら会話を交わせるようになった。この、どんどん世界が広がっていく感覚は、当時の私にとってなんとも快いものだった。
永続革命によって、月並みな結論ではあるが多様な価値観を尊重することを学べた。つまり、第一共和政期の私からすれば軽蔑の対象でしかなかった勉強のできない人々、もっといえば蛮族のように見える運動部員たちにも彼らなりの論理、価値体系が存在していて、彼らのそれと私のそれについて優劣で論じることはできないということを実体験として学習できたと思う。今日でも私は多文化主義的な観点から、インターネットで叩かれがちなウェイなどの人種に融和的な論調を取ることがあるが、その源流はここにあるのではないだろうか。
当時、私と友人になってくれた人々に共通する特徴が1つある。それは、強者は弱者を助けるべきという思想だ。分かりやすい例が、勉強の面に於いての相互協力で、定期試験が近付くと、ノートのコピー大会というものが組織的に行われていた。系列の大学のコピー機のコーナーに集まって、勉強が得意な人物のノートを大量に印刷して、それを配布するのである。もらう側の負担はコピー代の実費だけだ。眼目としては、自分たちの仲間から1人も留年する者を出さず、皆で一緒に進級、卒業しようというものだ。しかも、これは単位が危うい弱者の側の要請に応える形というよりは、むしろ強者の側がイニシアティブを取って進めていた。私は成績は悪くなかったが、ノートは取らなかったのであまり貢献できなかった。しかし、高校3年時の選択科目の実験レポートなどで同様のことをして、一定の貢献を果たせたと思う。
こういうことをする人と、しない人(しない人の言い分としては、自分でノートを取らないやつが悪い、らしい。新自由主義だろうか?)がいるが、私は前者の方が好きだ。そしてこれは、共同体による弱者の扶助を重視するという意味では社会民主主義的、さらに人民による生産手段の共有を行うという意味では共産主義的な面すら感じられる思想である。実際、高校時代の友人たちの中には社会問題に関心を持つ人も少なくなく、彼らと話をすると共産主義とまではいかなくとも、かなりリベラルな思想を持っていることが多々あった。民主党政権の誕生前後という時代的な熱気もあったのだろうが、私にとっては嬉しいことであり、彼らと時事問題について話し合うのも楽しい時間だった。
いま思えば、ノートのコピー大会はまさに理想的な共助の姿といえるだろう。また、私の高校では教師の側も、教え方や、単位の追合格の出し方の面などで、なるべく勉強ができない者を助けてやろうという公助の精神を持っている場合が多かったと思う。政府の側から自助ばかりが強調される昨今ではあるが、こういった共助、公助のあり方も少しは顧みられて欲しいものである。
また、彼らの間にあっては、弱者を助けるという思想はノートのコピーという皮相的な部分に留まらず、もっと広くあらゆる個人個人の問題について、共同体の力で救済を図ろうという雰囲気があったと感じている。私を友人として包摂したのもその1つの実践であると見ることもできるだろう。加えて、当時慢性的に出席不足傾向であった私に対して、出席すると積極的に声掛けをし、出席を促すような言葉も掛け、私が出席不足で留年することを阻止しようとしてもくれた。私が高校時代に留年せず、無事に卒業することができたことは、彼らの力もかなり大きいだろう。科学部の関係者と並んで、永続革命で私を助けた高校の友人たちに対しても、私は感謝の念を未だに篤く抱いている。