2.1. 戦乱の中の「天才」
2章では、中学に入学した2005年4月から、2008年、高校1年生の9月までの期間を第一共和政と定義し、その時代について取り扱う。
ところで、自我、というものを考えたとき、それについて連続性をもって捉えられるのはどれ程までだろうか。確固たる区切りがあるというより、時代が遠くなるにつれて徐々に連続性が薄れてしまうものだが、敢えて1つ区切りを置くならば私にとってのそれは中学時代である。その区切りから、歴史を起算していくという意味で、この時代を「第一共和政」と呼んでいる。「第一」というのはいま述べた文脈での始まりという意味である。「共和政」の方には共和主義的な政体と言う意味は特になく、後に出てくる「帝政」、つまり“帝”的な存在である交際相手が絶対的な存在として君臨、あるいは失脚後も隠然たる影響力を残していた時代に対する一種のレトロニムであり、気にする必要はない。
ともかく、第一共和政という1つの塊として語られる時代があるというからには、その一塊の時代に共通する1つの思想的なものがあったわけだ。その思想とは、一種の選民思想である。この思想を念頭に置きながら、歴史を語り始めよう。
2005年4月、私は私立R中学校に入学した(RとはMARCHのR)。お受験で入ったR小学校からのエスカレータ式進学である。男子校なので青春的なものは何もない。R中学は池袋と新座の2つがあるが、私は池袋だ。小学校では多少の友人はいたものの、どういうわけか彼らは大体新座に行ったから、これで友人が激減した。
私は診断書付きの発達障害とまではいかないのだが、今日に至るまで連続している特性として、どうも対人コミュニケーションが苦手な面がある。社会に出るとそれでも少し変な人くらいで済むのだが、中学生くらいの人間にとっては結構致命的な問題だ。端的に言うと、いじめられるということだ。いじめられることは小学校時代以前から当たり前のようにあったのだけど、中学校に入ると一般的に男子はより暴力的になる。更に、私にとっては小学校時代の友人が減ったことなど、構成員の変化も影響した。中学時代は、戦乱の時代としてその幕を開けたのである。
学校に行くと何の理由も無く敵対者に殴られる日々だった。教室に入った瞬間にボールが投げつけられた。授業中もお構いなしに消しゴムが飛んできたり金属定規で殴られたりしたし、かといってそちらに注意を取られているとシャーペンや筆箱とかがいつの間にか盗まれたりもした。学校にいる間は、安全な場所、安全な時間というのは少しもなかった。
昼休みに廊下を歩いているだけで数人の敵対者から照明を落とした部屋に引きずり込まれ、ギャラリーが歓声を上げる中で休み時間の終了まで延々と暴行を繰り返されることもあった。まるで古代ローマのコロッセオである。私の中学校はありとあらゆる暴力のデパートであった。
当時から、私は不当な暴力や要求に対しては断固として抵抗することを意図していた(従って、カツアゲ等まではされることがなかった)。しかし、抵抗の方法はスマートなものではなく、逆上して暴れた結果無関係の周囲にも累が及んだり、教師から目を付けられたりという結果につながることが多かった。教師はトラブルに際して抜本的な調停をせず、両成敗であるとか、酷いときは私を悪者にして幕引きを図ることが少なくなかった。教師の仕事は学級秩序の維持であり、弱者救済ではないのである。教師がいじめについて適切な対応をしなかったことは、私の権力というものに対する不信の原点となった。
シカトという類型のいじめを受けていたわけではないが、こうした状況の中にあって、友人の量や質(仲の深さ)は元々恵まれてはいなかった小学校時代よりもさらに貧困化し、学校に行っても誰とも一言も会話せずに帰ってくる日々だった。外で誰とも会話しないというのは、私も後にそうなるような陰キャの大学生にはありがちなことだが、多少陰キャでも中学生にしては珍しいものではないだろうか。
いじめの苛烈さは小学校時代以上であり、高校時代以降はそういうことはなくなっていったから、人生で最も暴力と恐怖に晒されていたのが第一共和政の時代であった。特に、その始まりである「2005年」という年は、その後の長きにわたって暗黒時代の始まりとして私の中で記憶されることになった。
しかし、第一共和政とはただ単なる暗黒時代ではない。この時代は、私が学業面に於いて大きな成長を果たした時代でもあったのだ。
中学入学当初、教科の難易度は小学校より上昇し、また入試対策で鍛えられている中学受験組の流入も学業面での脅威となった。そういうわけで、小学校時代から勉強は得意であったとはいえ、入学時点での私は一弱小生徒でしかなかった。小学校時代までは得意科目は国語、社会という文系寄りの構成だったので、特に理系科目では思うように成績を取ることができず、中1の定期試験では数学で平均点以下の48点を取ったこともあった。
しかし、結果から言うと私はここから急速に学業成績を上げた。まさに奇跡的な成長だった。苦手だった数学も中2の定期試験では100点を取るほどにもなった(余談だが、その100点の答案を敵対者に見せびらかしたら答案をクシャクシャにされてしまう、という悲しい事件があった)。中2以降は定期試験になると全教科概ね90点以上というのが当たり前になり、中3のときには英語は帰国生クラスで一緒に授業を受けるほどだった。帰国生クラスはさすがに背伸びのし過ぎで苦労も多かったのだが、自分から志願して帰国生クラスに入ったということは、それだけ向上心が高かったということでもある。
学校社会に於ける私の立ち位置は、いじめられていて友人もおらず、明らかに頭がおかしいが、勉強だけはできる、としてその点に於いてだけは一目を置かれる、というようなものに落ち着いていったと思う。
急成長の原動力は何であったのだろうか?3つほどあると私は考える。
1つは塾通いだろう。私の親は私を医学部に進学させたかったようで、私を塾に通わせ、特に理系科目を奨励した。この影響で私は文系から理系に方向転換した。たしかに効果はあったと思うものの、成績上昇のすべてを塾だけで説明することはできない。塾で習う科目は英語と数学だけであったのに、理科や社会でも私は好成績を修めていた。
2つめの要因は、当時の私の向学心の高さであると思う。当時の私は知的好奇心が非常に旺盛で、家で暇な時間も百科事典を読んでいるような人間だった。勿論、学校や塾の授業などは私にとって非常に興味深く、食い入るように聞いていた。誇張ではなく勉強が楽しかったのだ。やはり、成績を上げる最善の道は、その分野に対する興味を持ち、学びを楽しむことなのだと思う(後の時代に向学心を失ってしまったのは残念なことであるが)。
そして3つめが、章の冒頭で述べた選民思想、この当時の言葉で言えば「天才」イデオロギーである。当時の私は人間関係が壊滅的に失敗している一方で、テストでは面白いように点が取れるという状況だった。この状況下で、私は周囲の同級生を敵視すると同時に、自分より学業成績で劣る彼らを文明が野蛮を見るかのような目で軽蔑した。そして、その軽蔑心を隠すことなく、からかいを受けたときに相手を「低能」と罵り、自分を「天才」と僭称した。いわゆる中2病の一形態であるかもしれない。
このような振る舞いは周囲から反感を買い、更に敵を増やす悪循環となっていた。しかし、「天才」イデオロギーの下では周囲との対立は「低能」が「天才」を理解できない故、として解釈することができ、自分が周囲と協調できないことを正当化できた。そして、このイデオロギーを揺るがぬものとする為にますます学業へも勤しむこととなり、成績向上にとっては皮肉にも好循環だった。更にそこから、学業に勤しむことで成績を上げ、偏差値的に優秀な大学に進学することができれば、自分が正しく評価される相応しい環境を得ることができる、という筋書きを導くこともでき、長期的な目標を持つことにも繋がった。その後、私は大学受験には成功し、偏差値的には申し分のないレベルの大学に進学するものの、人間関係は高校時代の後半と比べるとかなり貧困なものとなったことは、まさに歴史の皮肉と言うべきである。
醜い姿ではあるが、コミュ力偏重の現代の学校社会に於いて、人間関係が不得手な私は本来最底辺に置かれてしまう存在である。そのような状況で、「学力が人間の価値を決定する唯一の指標である」という歪んだイデオロギーを自分の中に持つことによって、辛うじて自信を保つことができたともいえる。こうした状況の中で、私は中学を卒業し高校へと入学した。