吸血鬼と魔法の鏡
深い深い森の奥、月の光が差し込むお城の回廊を、透き通るような白い肌の若者が歩いていました。彼はときどき、森のはずれの村から若く美しい娘だけをさらっては精気を吸い、村人達の子供の子供のそのまた子供の一生が過ぎ去るほどの年月、変わらぬ姿のままでした。
昼なお暗い森のお城は若者にとって居心地がよく、村から連れてきた可愛い召使い達を従え、暮らしにはほとんど何の不満もありませんでしたが、絵を描いてみたり、本を読みあさったり、楽器の演奏術を覚えてみたり、毎夜、好きなことばかりしていても、気の遠くなるような時間を病気や老いの不安もなく過ごすのはつまらないものです。若者は、荒れ放題のお城を掃除するついでに、宝探しをしてみたいと思いました。こんなことは召使いに任せてもいいのですが、まだ立ち入ったことのないたくさんの部屋のどこかにねむる宝物を想像すると、気分がうきうきして、回廊に散らばるガラスを踏む足取りまで軽くなるのでした。
さて、きしむ扉を左右に開くと、大部屋の壁に一枚の割れ鏡がかかっていました。鏡の正面に立ったとき、若者はびっくりしました。というのも、彼の姿は決して鏡に映らないはずでしたから……。鏡面に右手を伸ばせば、向こうから左手が伸びてきます。自分の頬に触れれば、向こうの彼も同じように頬を撫でます。
「おお、これが僕の顔なのか」
若者は思わずつぶやきました。静かな池の水面にさえ映らなかった自分自身を初めて見るだけでもじゅうぶんな驚きでしたが、それ以上に、すばらしい宝物をみつけたと思いました。この鏡があれば、召使いの手を借りずに髪や服を整えたり、ナプキンで口元をきれいにぬぐうことだってできます。
「残念ですが、あなたのほんとうの姿ではないのです」とつぜん鏡が言いました。
「うわっ、挨拶もせずに喋る奴があるか!魔法の鏡よ、僕はこの城の主だぞ」
「たいへん失礼を致しました。ご主人様、私は<真実を映さない鏡>なのです」
「<真実を映さない鏡>だって?」
「話せば長くなりますが……」
「ちょうど退屈だったところだ。付き合ってやろう」
身の上話を聞く前に、若者は部屋の端から鏡の前へ椅子を持ってきて腰掛けました。クッションはぼろぼろですが、高級な木材の脚は今でもしっかりしていて、少なくとも、座っているあいだにへし折れる危険はなさそうです。
「遠い昔、私もふつうの鏡でした」鏡が語り始めました。「鏡は見たまま、ありのままを映すものですよね?ところが、私の前に立つ人達ときたら、自分の容姿に悩んだり、日頃の愚痴をこぼしたり、誰も彼も悲しそうな顔をしてばかり。そこで、ありのままの真実がかくも人々を傷つけるのなら、たまには優しい嘘で励ましてあげたいと思ったのです。……ほんの出来心でした。あるときは、お気に入りのドレスを着てくるりと回ってみせるお嬢様に、彼女がそうありたいと願っている理想の姿を映してあげました。あるときは、愛する誰かと死に別れて嘆く人のそばに、故人の姿を映してあげました。あるときは、興行師と一緒に国じゅうを巡ったこともありました。お金持ちはきらびやかに、そうでない人はいっそうきらびやかに、お客様が望む、すてきな未来の姿を映してあげました。そこまではよかったのですが……」
鏡は溜め息をつきました。
「嘘をつけばつくほどみんなが喜んでくれるので、やがて私の映すものは、ささやかな誇張からおおげさな嘘へと変わってゆきました。すると、ありのままの真実から目をそむけ、私の見せる虚像に勇気づけられた人々が、ほんとうの容姿から考えれば無茶な愛の告白をして、あえなく恋破れたり、過剰な自信のあまり、できもしないことを約束して破滅したりするようになったのです。私を巡って血なまぐさい事件が起こったこともあります。よかれと思って始めたことが、かえって人々を傷つけていました。しかし気づいたときには、<真実を映す能力>を失っていて、もはや普通の鏡には戻れませんでした……。ご主人様、私は夢見る人々に無責任な希望をもたらすだけの嘘つきで、ふつうの道具としては何の用もなさない粗大ごみです。もう誰の姿も映すことなく、孤独のうちに朽ち果ててゆけばいいと思っていました。どうか私のことなどお忘れください。さようなら」
鏡に顔がついていれば、涙を流していたことでしょう。少しの嗚咽も聞こえはしませんでしたが、若者には鏡が泣いているのがわかりました。真実も夢も、人を傷つけるだけなのでしょうか?
若者は立ち上がりました。
「……念のため訊いておくのだが、お前を分解したら魔法が解けてしまう、といったおそれはないのか?」
「恥ずかしながら、このようなみっともない姿でも会話ができておりますし……。でも、なぜです?」
「お前のいちばん大きい破片を加工させて、僕の手鏡として使ってやる」
「あなたにもご迷惑をかけてしまいます!」
「鏡よ、僕は人間ではないんだ。僕の姿はふつうの鏡には映らない。要するにお前は、見る者が望む姿を映すのだろう?お前が僕を映したのは、僕が自分の顔を見たいと望んだためだ。僕は今の自分に満足しているから、この顔はたぶん、誇張なしの僕の顔だ。まあ……仮に本物よりも少しばかり美形だったとしても、ほんとうの顔なんてどうせ僕には知りようがないさ」
そして、壁から取り外された割れ鏡は、他の部屋からみつかったいろいろな宝物とともにまとめられ、お城の掃除が済んだあと、青白い顔をした永久に腐らない娘達の手で磨かれて、きれいな魔法の手鏡に生まれ変わりました。髪や服を整えようとすれば、すでに整った姿が映っていたり、口元の汚れを拭こうとすれば、すでに汚れひとつない顔が映っていたりで、使ってみるとさほど便利でもありませんが、若者は決して鏡を手放しませんでした。可愛いけれど無口な召使いに囲まれていた彼は、話し相手と出会ったことで、寂しさという気持ちを知ったのです。若者と手鏡はお互いにかけがえのない友達として、いつまでもいつまでも森のお城で仲良く暮らしました。
おわり