~始まり~
辺り一面、花畑の草原。
どこを見ても人影も、山も川もない。
淡い黒髪の少女は、その草原を歩いていた。
長いその髪で、顔はよく見えない。
花々と同じ白、黄色の混じったライトブルーのワンピースを着ている。
裸足だ。
少女はゆっくりと歩いているが、決して止まらなかった。
一歩踏み出すだび、ふわっと開いた手が揺れる。
やがて少女は、目の視界から消えていった。
「待って!」
神崎裕斗は手を伸ばした。
ハッとして目を開けると前を歩いていた女子高校生二人が振り向き、ククっと笑った。
自転車がぐらつき、裕斗は必死になって安定させた。
またか・・・。
5日前から、家まで600mのパン屋さんの前から床屋さんの前まで来ると、不思議な現象が起きる。
幻を見るのだ。
見る景色は地球だとは思えないくらい(多分地球ではないんだろう)美しく、いつもそこを歩いているのはさっきの少女だ。
でも、いつも少女の姿は、記憶からすぐに消えてしまう。
覚えているのは、景色と少女の存在だけだった。
いつも頭を掻きむしって裕斗は思い出そうとするのだが、全く思い浮かばない。
だが、日に日に幻を見る時間は、増えていっている。
最初の日は、ほんの二、三秒だったが、今日はもう十五秒だ。
裕斗はふう、と深いため息をついて、家まで全速力でペダルをこいだ。
「おかえりー、裕斗。おやつはチョコチップクッキーだから、棚から出して食べて。」
裕斗は、もう高校生になって三カ月なのにその態度はやめて、と思ったが、心にしまった。
もちろん母の静子や、今会社にいる父正信、大学生の桃香も、裕斗が見る幻の事は全く知らない。
この世界で、知っているのは裕斗、ただ一人だ。
今後も誰にも教えるつもりは全くない。
裕斗は渋々棚を開き、クッキーの袋を取り出した。
袋の口を破り、お皿に入れた。
・・・おいしい。
二、三枚とると、裕斗は二階へ駆け上がった。
無造作にかばんを机に置くと、クッキーをほおばりながらベットに倒れこんだ。
幻を見ると、いつも決まって疲れてしまうのだ。
そのまま裕斗は、深い眠りに落ちていった。
トントン、とノックして、桃香が入ってきた。
「裕斗、いつまで寝てるの?もうご飯よ。ねー、今日の献立なんだと思う?」
裕斗は、つくづく姉が楽天的でよかったなと感じた。
同級生の寛二は、一日に二言くらいしかしゃべらないらしい。
「んー、コロッケ?」
「ブッブー。正解はCMの後!きてみて。」
起きた裕斗の手を引っ張り、桃香は階段を下った。
一段下りるたびに、いい香りが強まった。
「姉ちゃん、分かった!」
「カレーだ!」
桃香はフフっと笑った。
「そう!裕斗の大好きな、ね。」
静子はスプーンを用意しながら言った。
「お父さんは八時くらいに帰ってくるって。残業らしいの。」
裕斗と桃香はそろって頷くと、いただきまーす、と叫んだ。
神崎家は、一家そろって辛い物が好きな家族なので、いつもカレーは、辛口カレーにピリッとするスパイスを加えている。
少し口の中がヒリヒリとしたので、裕斗は水を含んだ。
静子が残り少ないカレーをご飯にかけながら言った。
「お味はどう?」
「最高。」
「うん、絶品!」
全員、お代わりを済ませ、またもぐもぐと食べているところへ、父正信が帰ってきた。
「ただいま。・・・うん?まさかカレー?」
桃香が口の端を手で拭った。
「そうだよー?早くしないと裕斗が全部食べちゃうよ。」
「それは急がなきゃ。」
正信は駆け足で荷物を置きに行き、すぐに戻ってきた。
「いただきます!」
正信は、大急ぎでスプーンをとり、大きな口を開けて食べ始めた。
そして数秒かけて味わうと、親指を立てた。
「おいしい!」
裕斗は、星マークの付いた紺のパジャマをきて、二階に上った。
明日は金曜日で、模試のある日だ。
早く寝なきゃ。
裕斗は、ベットに潜り込み、いつものようにあの幻の少女の事を考えた。
いったい誰だ?
全く見覚えはない。
というか、周りの景色も地球に見えないのだから、多分その少女も地球に住む子ではないんだと思う。
所詮幻だ。きっと、思ったよりもストレスが溜まって、その例で幻を見ているのかもしれない。
うん、そうだ、そうに違いない。
確信したというよりも、そう願っている、という方が、裕斗に近い思いだった。