Re:無限桃花/彼方
うらめしや。
次元の展開が起きて、それに気付いて意識するまで数日。実際に行動に移すまで、さらに数日を要した。
1
小さな鬼が、部屋の隅をじーっと見ていた。身長は三十センチほどだろうか。腐ったアケビのような藍色の皮膚の鬼が居た。それが、部屋の隅をじーっと見ている。静かに鬼の背後に立ってみたが、まったくこちらに気付かないので、たぶんボーっとしている。
私が鬼を蹴飛ばすと、そこでやっと気を取り戻したのか、その鬼は驚いて逃げようとした。が、そう簡単に逃がすわけにもいかない。首根っこを掴まえて持ち上げ、一睨みしてテーブルの上まで連行した。鬼も観念したのか、大人しくテーブルの上に正座した。
「あんた、こないだからずっと湧いて出て来るよね。なんなの?」
話しかけると鬼のほうは不思議そうに私を見て、脚を崩してリラックスし始めた。目は窪んで眼球がないが、視線は感じる。鼻もそがれて骨まで見えて、おまけに唇はざくざくに割れていて、歯はまばらに生えているだけだ。
見た目は最高に気持ち悪い。おまけに挙動は小さな子供や小動物のようで、ことさら不気味だ。
「おい、なんとか言え」
「ぎっぎっぎ」
笑い声だろうか。
「もう一回聞くけど、あんた私になんの用? こないだからあの手この手で暴れやがって。いい加減に目障りよ」
「ひとさがし」
「人捜し?」
子供のようなソプラノボイスだった。たぶん女の子だ。
もう一度言うが、外見は目が潰れて鼻が削がれて、唇は割れて歯もまばら。身長は三十センチくらいで、全体のバランスとしては頭部がやたら大きい。トドメに皮膚は腐ったアケビの色。そんなのが綺麗なソプラノで喋っている。気味が悪い、としか言いようがない。
「私を捜してたの?」
「うん。ぎっぎっぎ」
なにやら私に用があるらしい。
数日前からこいつが私の部屋に居ついて歩きまわっているのだ。今日はボーッとしていただけだが、ひどい時には一人で大運動会をしてくれる。あからさまに私に存在をアピールしてくるので、ボーっとしていた隙を突いてとっ捕まえてみた。
「で、私に何の用?」
「かなた、だよな?」
「今、私の名前言った?」
「まちがったか。かなた、だろ?」
私の名前は、無限彼方、という。無限が苗字で、彼方が名前。読み方はそのまま。むげん、かなた。
変な苗字なのは自覚している。名前の方はまだマシだ。
「誰から私の名前を聞いたの?」
「ぎっぎっぎ」
「答えろよ」
「ぎっぎっぎ」
嬉しそうに笑っていた。
「笑ってないで質問に答えなさいよ。私に用があるからここに湧くんでしょ。何用なのよ」
「かなたにようはない」
「あのね」
私に用事もないのに私を捜していたのか。
「かなたにようはない。でもかなたをさがしてた」
「なにゆえ」
「かなたにようがあるやつがいるんだ。ぎっぎっぎ」
「私に用があるヤツ?」
その鬼はぎっぎっぎ、と笑って、事もあろうに「おみず」と言って飲み物を要求してきた。
さすがにずけずけしいが、もう大運動会をしない事を約束させ、水を一杯、供えてやった。直接コップからは飲めないのだけど、飲むような挙動をするとコップの水が減ってゆく。仏壇なんかにお供えした水が減ったりするのは今のような事が起きているからだ。
鬼は騒いで迷惑をかけたりしないから、しばらく部屋に置いてほしいと頼み込んできた。さっさと出て行って欲しいところだが、実害もないし、無意味にやってくる存在でもないので無下にしたらバチが当たりそうだし。それに、コイツが言う誰か、とは私に用事があるそうだ。
ちなみに、普通の人から見れば、今の私は何もないテーブルの上に向かって独り言を喋っている危ない人だ。他人には見せられない。
「で、私に用がある人ってどんな人?」
「こわいやつだ」
「物の怪の類ってこと?」
「ちかい。でもちがう。ちょっとちがう。ぎっぎっぎ」
「神様?」
「すごくこわいやつ。そいつ、かなたにようがあるんだ」
「具体的に答えなさいよ」
鬼はぎっぎっぎ、と笑って、手足をばたばたさせていた。何が楽しいんだか。そのまま楽しそうに、その鬼は言った。
「怨霊」
2
うらめしや。
四次元空間がある。前後左右に上下、そして時間を加えて四次元だ。
ところが量子力学の世界では、次元の数は十次元とか十一次元、もっと在るとか無いとか。
小難しいことは専門の偉い学者様に任せるとして、少なくとも、人間が生きて、リアルに感じられる世界はこの四次元だ。人は空間を認識して上下左右を理解するし、時間を測る術も持っている。しかし、人間には触れることも見ることも、感じることも出来ない次元がほかに、実に六つとか七つとか、あるいはそれ以上あるという。
では、ほかの隠れた次元はどこにあるか。偉い学者様によれば、それらは巻き上げられ、素粒子よりも小さくて観測できない、そうだ。正しいかどうかは、わたしは知らない。ほんの聞きかじりの受け売りなのだ。
さて、ある姉妹の話をしよう。
先に述べた次元の数がうんたら、という話にも少しだけ関係する。
姉妹の名前は、姉が無限桃花、むげん、とうか、と読む。変な苗字だ。名前のほうはすごく普通。妹の名前は無限彼方、むげん、かなた、と読む。
話の肝だけ最初に言おう。
無限桃花は七年前に死んだ。十八歳の時だった。なぜ死んだのか。その経緯はわたしの口から語る事でもない。今は簡単にかいつまんで説明する。
七年前、無限桃花は妹を守るために命を懸けた。そして、自身の命と引き換えに妹を生かした。残された妹の彼方は成長し、今年で二十三歳になった。
彼女たちは普通の人間だった。少なくとも生まれた次元は。前後左右と上下、そして時間。その四次元。人間が生きる世界。
では、残された次元には何があるのか? 上も下も、時間すらない世界。時空を超えた場所。そこに何があって、何が住んでいるのか。
彼女たちは、ほんの少しだけ、その隠された次元に触れることが出来たのだ。隠れた次元にアクセスし、その向こう側を知る事が出来た。四・五次元の生命体だ。
それが当たり前だと思っていたが、どうやら違うと気づいて、それが世間で言う超能力とか、霊能力とか言われる類の物だと知った。
そして自分たちには、別の次元から来る、四次元の物理法則を超えた力が備わっているとも知った。
生まれながらの巫。
それが無限の姉妹だった。それゆえに、桃花は命を落とした。
怨霊にその身を差し出して。
3
「ぎっぎっぎ」
「約束が違う」
バスタブの縁に座る鬼が楽しそうだ。部屋の隅でおとなしくしている約束だったが、お風呂が気に入ってしまい、私が入ると、とことこついてくる。湯船につかるわけではない。バスタブの縁に座って足でぱちゃぱちゃ水遊びをするだけだ。
オバケは水場に集まるとはよく言うが、はてさて。
「約束はやぶってない。すみっこにいる。どの部屋の、とはいわなかったし」
いやにはっきり言葉を言うようになった。
見た目も最初に部屋に来た時よりだいぶ変わっている。腐ったアケビ色の肌は人間のそれに近くなって、鼻も再生して、ざくざく割れていた唇は綺麗になって、嬉しそうに口角を上げている。目はまだ真っ黒だが、眼球はしっかり出来上がっている。
その見た目は胎児のホルマリン漬けにそっくりだ。最初よりグロテスクな見た目ではなくなったが、不気味さはいささかも衰えていない。正直なところ、最初のほうが鬼っぽくてマシだ。
この子の造形そのものが気持ち悪い。せめて可愛くなってくれれば。そのためには、もう少し時間をかけて祀ってやらねばならない。
「でも、彼方はちゃんとお供えしてくれる」
「あんたが要求するからね」
「お風呂楽しい」
「ホルマリン漬けと一緒に入浴してる私は楽しくないんだけど」
このホルマリン漬けっぽい鬼、名前はハルという。
会話していると、けっこう自分の事を話してくれる。なんのこともない。昔に死んだ女の子だ。成仏できないでいる内に、鬼になった小さな女の子。年齢までは覚えていないし、死因も何もわからないが名前だけは覚えていた。
私がハルの要求に答える形でお水をあげたり、お菓子をお供えしているので、要は供養をしている状態。だから見た目がどんどん変わって、醜い鬼から人間に近づいてきている。そんで今の見た目が胎児のホルマリン漬けなのだ。
この子は私が普通に話しかけてくるものだから、すごくうれしかったようだ。生きている人間とコミュニケーションできるなど死んで久しいハルには衝撃だったようで、おまけに供養までしてあげているので、すっかり懐かれた。
ちなみにコレ、私みたいな人間だから出来る。
真似しようなんて思い立つ人もまず居ないと思うけど、普通の人がやろうものなら、あっというまに祟られることうけあいだ。
さて。
ハルについてもう少し詳しく言おう。ついでに鬼についても。
先ほど言ったように、ハルはもともと人間だ。言動から察するに小さい女の子。本当に小さい子供だ。まだ三歳とか、そのくらいに思える。
人は死ぬと時が止まる。時間を含む四次元から離れるからだ。四次元から離れた人間はそれぞれ違う次元へと滑り込む。わかりやすく言えば成仏、となるのだろうか。そして、その四次元から離れ、時間が止まった人間を、私達は俗に幽霊と呼ぶ。それ自体は特別なことじゃない。すべての人間が通る道。ハルもそうだし、いずれ私もそうなる。
そして幽霊たちは、私達とは別の次元の生命体となる。
私達が前後に上下左右、そして時間という四次元に住んでいるのと同じように、幽霊たちも複数の次元に跨って生きている。
一部は住んでいる次元が減っていき、やがて魂だけの世界である一次元、宗教学者や神秘学者、または怪しいスピリチュアル系講師が言うところの集合無意識へと戻ってゆく。
また別の幽霊は住んでいる次元が増え、時間すら移動できる物理次元として行き来できるようになり、やがて私達の四次元にまで戻ってくる。それを私達は神とか、魔物とか呼ぶ。この神も魔物も曲者で、元は人間である。単にその人が良い人か悪い人かの違い程度で、そして四次元に居ながら、少しだけ余所の次元に触れることが出来る私は彼らの仲間である。
もう少し付け加えると、最初から高次元に住み、あらゆる生命体に影響力がある存在も居る。それらが本当の意味での神であり、魔物で、彼らが住む複数の次元、それらは私達の住む四次元すらも含まれるのだが、それらの総合を、神界とか魔界とか地獄とか呼ぶ。要するに私たちは彼らの世界の一部分、お膝元に住んでいるってわけだ。
さて、先ほど言った通り、人は死ぬと四次元から離れ、別の次元へと移り住む。
では、そうはならなかった者達は? わかりやすく言えば、成仏しなかった者達は? 簡単だ。それらが、おなじみの地縛霊とか浮遊霊とか呼ばれる人達だ。
この世で活動する媒体である肉体が朽ち、時間すら受け止められなくなった彼らは供養を求めたり、自分の苦しみを訴えたり、はたまた道ずれにしようとあの手この手を駆使するが、残念ながら肉体がない以上、何も出来ないし、普通の人には当然、何も見えないのだ。おまけに時間も止まっているので、終わることなく延々と繰り返す。
考えても見てほしい。いままでどれだけの人間が生まれ死んだか。幽霊なんてものは都内の朝の満員電車より混雑してそこら中にいるのだ。ただ、見えないだけで。
その人間には見えないが、私達の次元に住み、時間すら止まっているという条件の者達は、より高次元の存在にとって利用価値がある。良い意味でも悪い意味でも。彼等の助力により、幽霊は鬼や妖怪と呼ばれるものになり、私達が住む次元、わかりやすく言えば、この世で活動する力を得る。
神や魔物の人間の世界での代行者。
それが鬼なのだ。
だから、ハルが私の所に来たというのはとても大事なことで、高次元の存在が何かしらの意図を持って鬼を私の家に送り込んだことになる。
それが何者なのかはわからない。
しかし、ハルは最初に言った。怨霊が来る、と。
4
怨霊について。
人が死後、怨霊となるために必要な条件は二つ。
強い執着を持っていること。
多くの人間が恐れ、その死を祀ること。
もしくは、生前から強い力を持っていたこと。
これらの条件が重なると、人は怨霊となる。魔物の一種だ。
5
日本人形をイメージしてほしい。
今のハルの姿だ。
どんどん人間の姿を取り戻していったハルを着飾るとそんな感じに仕上がった。着物は本物の日本人形をお供えしてあげたら、それにそっくりな着物をいつしか身にまとっていた。ざんばらに伸びた髪も櫛で綺麗に梳いて、ちゃんと切りそろえてあげた。
もちろん鬼であり、実体を持たないハルにおめかしを直接させたわけじゃない。お供えした日本人形が、ハルの憑代になって髪はボサボサにフケにシラミ、綺麗な着物はボロボロの布きれのようになってしまったので、人形のほうを綺麗にしたらハルも綺麗になっちゃった、というわけだ。
本人はとてもうれしかったようで、大人しくしているという約束を忘れて部屋の中を駆け回っていた。元が腐ったアケビや胎児のホルマリン漬けと思うと、ずいぶんかわいくなったものだ。
これで幸運でも運んでくれたら立派な座敷童だが、同居を始めてから一か月と少し、そのような兆候はまったくないのが悔やまれる。
「彼方」
ハルが私の脚を突っつく。
「お水?」
「お茶でもいい」
「贅沢を覚えてきたな」
「彼方がいつも飲んでるやつでもいい」
冷蔵庫に入っている紙パックのコーヒー牛乳のことだろう。
「ダメ。あれはダメ。甘い物ばっかり欲しがらないの」
「けち」
「けちじゃない。躾よ」
「死人なんだからいまさら躾なんていらないよ」
「死人でも子供でしょ。大人の言うことは聞きなさい」
「だんだん私に厳しくなってない?」
「そりゃ、あんたが要らない知恵を覚えてくるから」
「教えたのは誰よ?」
「少なくとも私じゃないわね。テレビも禁止にしようかしら」
むっ、と、ふくれて私を睨んだ。
最初に見たときの腐ったアケビならかなり怖いだろうが今は小っちゃい女の子だ。ぜんぜん怖くない。ふくれっ面もかわいいものだ。
やはり子供なのか甘い物が好きなようで、一回あげただけのコーヒー牛乳の味が忘れられないらしい。最近では自分でテレビを着けたり水道からお水を飲んだり、憑代の日本人形まで自分でお手入れしているくらいだから、冷蔵庫の中を漁る程度のことはやってのけるだろう。もちろん、そうはさせないようにお札で結界を張ってある。いかな鬼とて手出しは出来まい。つまり私におねだりするしかないのだ。
ちなみに、これら全てがいわゆるポルターガイストだ。私の家は完全なお化け屋敷と化している。
結局、私が折れて一杯だけコーヒー牛乳をあげた。
甘やかしてはいけないと自分に言い聞かせつつ、実際のところ、けっこう子供に甘いという事実を自分で反省し、私も自分のぶんのコーヒー牛乳をグラスに注いでテレビの前に座った。
やたらと甘ったるい液体で喉を潤しつつ横目にハルを見ると、私に背を向けて床に座り、何かを飲む動作をしている。お供えしたコーヒー牛乳が減っていく。ここ毎日、見かけることだ。
豪快にゲップを一発ぶちかますと、ハルが背を向けたまま「だらしがないよ」と言ってくる。とは言うが本来は私の一人暮らしで誰の目も気にする必要がないし、今の私はTシャツにパンツ一枚でソファにだらーっと座っている。性根がだらしないのは自覚してるし、普段からこの有様なので、鬼が一匹住み着いた程度で変えられない。
「言いつけるからね」とハルが言う。
どこの誰に言いつけるというのか。どうぞご自由に。
「ほんとに言いつけるからね。怒るよ、あの人」
あの人。
「あの人? あの人ってだれ?」
「彼方」
「どうしたの?」
背を向けていたハルがこちらを向いた。
「ハル?」
眼窩がない。真っ黒な穴が開いている。
鼻がもげ落ちて、唇の皮がびりびりめくれあがってゆく。
まるで炎で焼かれているかのように。
綺麗に梳いた長い黒髪が、音が聞こえるほどの勢いで縮れ、溶けていった。
焼かれている。ハルが焼かれている。
「ハル!」
「ぎっぎっぎ」
笑い声だ。
ハルに駆け寄って、手を触れようとした。着物がずるりと、皮膚ごと取れた。腐ったアケビの色になる。あれは火傷の後だった。
容姿がどんどん変わってゆく。どんどん鬼に近づいてゆく。焼かれて死んだ小さな子供に。
「ハル! ハル!」
「名前をたくさん呼ばれた気がする。ずっと昔に。今みたいに」
ハルは、ぎっぎっぎ、と笑った。
「私は思い出せなかったけど、あの人はすぐに分かったんだ。私が欲しかったもの。だから私を選んだんだ。彼方は、私が欲しい物をちゃんとくれた」
ハルが欲しかったもの?
私がしたことと言えば、簡単な供養くらいだ。
「それだけじゃない。彼方にしか出来ないことだ」
ハルは笑っている。
グロテスクな鬼のままで。
「最初に教えてもらったんだ。私たちに時間は関係ない。たった一日でも百年と同じ。千年も一瞬のこと。だから、ここ何日かで私はもう十分」
「もう十分に供養されたってこと? それなら、なんでまた鬼に戻るのよ」
「執着し始めたから」
「え?」
「あの人が来るよ、もうすぐ」
「あの人? 最初に言ってた怨霊のこと?」
「私のお役目はここで終わり。だから、いま解放された」
「鬼から?」
「うん。あの人が来るまで、ここに居るのが私のお役目」
怨霊が来る。
「あの人は彼方にものすごく執着してるんだ。やっと彼方の前に姿を現せる」
「誰なの、その人って」
「もうすぐ分かるよ、ぎっぎっぎ。自分で確かめて」
「一つ、教えて」
「なに?」
「十分に供養されて、鬼からも解放されたなら、なんでまたその姿に?」
「それはね、私が彼方に執着し始めたから」
「私に?」
つまり、どういうこと?
「彼方」
ハルが、ゆっくり私の背後を指差した。
「来たよ」
6
うらめしや。
無限桃花という次元が展開されて、四次元へ重なった瞬間。意識したのは生前の執着だった。
四次元、つまりこの世へ現れて、行動を起こすまで数日。わたしはその間、この世での代行者を見つけねばならなかった。
幸い、それはそこら中にあふれている。わたしはハルという名前の小さな子供を選び、その子に協力を求めた。見返りに、供養をしてあげる、と持ちかけた。ハルはあまりに幼かった。また浮遊霊となって久しいハルの渇望も凄まじかった。あまりに飢えていた。彼女に触れると、生前の生き様が見て取れた。時間を超えてゆき、ハルの死を見た。
荒野があり、地面は乾いてひび割れていた。田んぼだとしばらく気づかなかった。あばら家が立ち並ぶ中、やせ細った死体が転がって、井戸は枯れて、霜が降りるほど寒かった。
いつの時代か、までは特定できなかったが、それは大飢饉だった。ハルはその時代に生まれて、すぐに死んだのだ。
枯れた田から離れ、乾いた小川を超えたところに、屋根もまばらな家があった。わたしはハルの目でそれを見た。母が居た。兄が居た。父は居なかった。戦に駆り出された、という声を、ハルの耳で聞いた。
立ち上がることも出来ないハルに、干物のように乾いた顏の母がやってきて、兄に火を起こすように言う。
手には、鉈。
首が飛んだ。腹を裂かれた。四肢は火で炙られて、頭蓋はひっくり返され、穴を穿たれた。
ハルの目でそれを見ていたわたしは、頭の中を粥にされるまで見届けた。母が言う。ハル、ハル。
わたしは貪られるがまま。
ハル。ハル、ハル。
骨を割られて、隋まですすられた。ハル、ハル。
だから、ハルは自分の名前しか覚えていない。最後に母が自分の名前を呼んでいた事だけ覚えている。
殺された理由すらまったく覚えていないほど、ハルは幼かった。
幼い子の飢え。乾き。千年分の。それを癒せるほどの人物は、わたしが知る限りでは、一人しかいなかった。
無限彼方。
彼女ならハルを供養できる。ハルと家族のように過ごせる。
そして、わたしはハルを鬼にした。この世で彼方の居所を見つけて頼み込めば、きっと彼方はハルを供養してくれるよ、と約束した。
かわりに、わたしに代わって彼方の様子を見ておいて、と。
いつかまた私は、ハルのところへやってくるよ、とも付け加えた。
わたしは彼方に用があるのだ。
生前の執着は、多次元へ滑り込んだわたしを四次元へ呼び戻した。巻き上げられた次元が展開し、四次元へ重なった時、私は複数の次元に跨る魔物と化していた。
執着するもの、怨霊。かつて怨霊に葬られたわたしは、新たに無限桃花という怨霊になった。
わたしは妹に会いに行く。
7
私はゆっくり振り返った。何も居ない。
「こっち」
ハルが言う。走っていた。
小さな体だが、意外に足が速い。寝室まで行き、ドアをすり抜けて中へ入っていった。私はドアを開けてついてゆく。
私のベッドがある。
ハルがベッドの上に座っていた。
壁の隅をじーっと見ている。
「もうここじゃない」
またハルが走る。今度はキッチンだ。
雑に並べられた食器ががたがた音を鳴らしている。ひとつひとつを確かめるように。シンクの下の戸がひとりでに開いて、手で中をまさぐるように、中に入っていた洗剤やら漂白剤やらのボトルが動いている。
その後に床に放り出しておいたゴミ袋ががさがさ動いて、それが止まると、冷蔵庫が激しく揺れ始めた。
結界だ。ハルのいたずら防止に張り付けたお札の結界が効いている。諦めたのか、冷蔵庫の揺れが収まったので、その隙にお札を剥がしてみた。
ゆっくり冷蔵庫のドアが開いた。
中身はほとんど飲み物ばかりだ。
それらを、確かめるように、ひとつひとつ観察している。
「こっちこっち!」
ハルが叫んだ。振り返ると、居間のテーブルの前に、ちょこん、と座り込んでいた。冷蔵庫のドアはいつの間にか閉じていた。
私は居間に行き、ハルが見上げる方向を見た。
見えるような、見えないような。
おぼろげながら、輪郭がイメージできるようになって、気づいた。
「姉さん?」
8
うらめしや。
今のわたしにふさわしい言葉といえばこれだろう。
私は知りたかった。
今の彼方がどういう人間になっているか。
四次元、つまりこの世で言えば七年が経っている。わたしよりずいぶん年上になった。
かすかな期待はしていた。
あれだけのことをして生き延びたのだから、さぞかし立派になっているだろう、と。
しかし、結果はそうではなかった。私の理想と現実は大きく乖離していた。
まず寝室だ。
万年床じゃないだけ良しとしよう。しかし部屋は汚いわ、脱いだ服は投げっぱなしだわ、いつのか分らない飲みかけのペットボトルとか半分だけ食べたチョコとか。仮にも寝室だ。こんな空間で平気で寝続けているのか。
ハルの報告によれば、定期的にやってくる友達が綺麗に片付けてくれるらしい。しかしすぐに元に戻るとのこと。
次にキッチン。ぱっと見は綺麗なのだが、そもそもそんなに使っていないだろう。汚れようがない。聞いた話によればインスタントラーメン作るくらいしかコンロは使わない。普段はすべて外食かコンビニ弁当で生命を維持しているらしい。
案の定、ゴミ袋の中身はコンビニ弁当の容器ばっかり。それもかつ丼とか牛カルビ弁当とか、男の一人暮らしが好みそうな勇ましい食生活なのがうかがえる。
冷蔵庫の中身はもっとひどかった。
何を恐れてか結界で封印されていたが、観念したのか彼方が自分でそれを解いてくれた。
中身を見たわたしは頭を抱えた。
大量の缶ビールが横になって冷えている。あとは紙パックのコーヒー牛乳に炭酸飲料に焼酎の割材が入っている。おっさんの冷蔵庫だ。
申し訳程度に野菜ジュースが入っているが、原料が野菜なだけでこれはジュースだ。野菜を食べているという言い訳にはならない。
そして実に嘆かわしいのが、彼方の出で立ちである。
Tシャツにパンツ一枚。
確認のために言うが、わたしの妹だ。つまり女の子だ。
今年で二十三歳の女だ。
あまりにだらしないのではないか。定期的に遊びにくるという友達とやらはどう思っているのだろうか。報告によればいつもの事なのでもはやツッコミもしないらしい。外に出るときだけはちゃんとおめかししてるよ、とハルはフォローしていたが、そんなもん当たり前だろう。
死してなお執着し、魔物となってまで確かめたかった妹の現状は、なんともだらしがないおっさんのような性格の女になっていた。
なんかガッカリだ。このまま死んでりゃよかったか。
「うるさいな、ならさっさと往生しやがれ」
えらい強気だな。
「化けて出たと思ったら生活習慣チェック? まだ祟りを起こしてくれたほうが腑に落ちるんだけど」
わたしが起こす祟りなんてものはない。せいぜい食生活の乱れによる体調不良を起こす程度だ。
「あのね、私けっこう身構えてたんだけど。鬼まで使って出現を宣言しといて、化けて出たのが姉さんだった、まではいいんだけどさ。ほんと何しに出てきたのって感じ」
実をいうとわたしにもよく分らない。気が付いたらこの世に居たのだから。それほど執着が強かった、ってことなんだろうけど。
「はいはい、そりゃ私は姉さんに恨まれてしかるべしですよ。姉さんはあんな死に方したけど、そのおかげで生き延びた私はこの有様ですよ。毎日ダラダラ生活させてもらってます。恨んでる?」
うらめしや。
「ちゃんと答えなさいよ」
彼方すごいね。わたしほとんど声出してないけど会話が成立してる。
「あのね、そんなもん私達が生まれてからずっとやってた事でしょ。オバケと対話なんてのは馴れっこなのよ」
そりゃそうか。
「そんで、どうなの実際。恨んでる?」
恨んでなんかいない。あれは私が自分の意志でやったことだから。
「ほんとにそう? 結果として姉さん地獄に落ちたんじゃないの?」
でも今はここに居るんだよね。なんでだろ。偉い神様が気を回してくれたのかな。
「七年ぶりね」
うん。
「私はまだ恨んでるよ。姉さんが死んだこと」
なんで。
「私が死ぬはずだった。ほんとは私が姉さんに殺されるはずだった」
でも、そうはさせなかった。
「ごめんなさい」
謝ることはない。
「ごめんなさい」
いいって。
「だって」
あ、泣いちゃった
泣き崩れちゃった。
しばらくそっとしておいてあげよう。
泣くにもそれなりの理由がある。
その経緯はわたしの口から説明することでもない。いずれ機会があったら詳しく語るとして、かいつまんで言えば、私は妹、つまり彼方に殺された。
怨霊の憑代となりこの世で暴れる魔物として、彼方はわたしに討たれるはずだった。だが、そうはさせなかった。代わりに私が憑代として、彼方に憑いた怨霊と共に地獄に落ち、彼方は生き残った。
そして今日、生身とオバケの違いはあれど、七年ぶりに再会した。
9
私のスウェットの裾をハルが引っ張った。
「いいよ、持っておいで」
ハルはとことこ冷蔵庫まで走っていって、一番下の引き戸を開けた。中からコーヒー牛乳を取り出した。
日本人形のような姿から、ハルは本物の小さな子供のようになってしまった。これで幸運でも運んでくれたら、と思うが、同居を始めて三か月ほど、いまだにその気配はない。
ハルが取り出しやすいように飲み物を冷蔵庫の一番下の棚に移動させてあげたら、喜んで自分で取り出すようになった。勝手に漁ったりしたこともあったが、そのたびに私がこっぴどく叱るので、それ以来は毎回ちゃんと私に確認してから冷蔵庫を開ける。
おっと、少し説明しないと。
あの後、姉さんから聞いた話。
結局のところ、ハルは家族と暮らしたかった。それがハルの執着。鬼となり怨霊、つまり姉さんに使役される存在となってからは、姉さんのスパイとして私の家に住みつきつつ私の状態を報告し、報酬である疑似的な家族の暮らしを体験していた。
ここまでは、姉さんが目論んだとおり。私はハルを供養して、一つ屋根の下でしばらく暮らした。
役目を終えたハルは姉さんから使役される存在ではなく、また一人の浮遊霊に戻るはずだったが、ハルに新しい執着が生まれてしまったので事は簡単に収まらない。
「まだ彼方と暮らしたい」
ハルはそう言って、役目を終えてからも私の部屋に居ついてしまったのだ。追っ払ってもいいが、小さい子供だし無下にしたらバチが当たりそうだし。
というわけで、あれからもハルと私の同居は続いている。
「甘い物ばっかりはだめよ」
「うん」
これが、ハルが求めているものだ。
母親が欲しかった。私はその代わり、ってわけだ。
私自身にそんな気は毛頭なかったし、自分が母親になるイメージもまったくもってピンと来ないが、現状そうなってしまっているから仕方ない。
それに、あの後から、ちゃんと部屋着も着るようになったし寝室だって掃除したぞ。だらしがなさすぎるとハルが粗相をした時に示しがつかないしね。ハルが居ることで私の生活にも一定の緊張感が生まれたってことだろう。姉さんがハルを鬼のまま置いていったのはお目付け役として働かせることを念頭に置いていたから、か。
ともあれ、私の生活は可能な限りの日常に戻っていった。
ただ、姉さんだけは、もう二度と現れなかった。
10
無限桃花という次元を纏めて小さくし、四次元から離れたわたしは、一匹の魔物としてふらふらしていた。
四次元から離れた、といっても向こうを観察できないわけじゃない。向こうでの実行力が無くなるだけだ。必要なら展開すればいいし、いまはそうではないから纏めている。
わたしの次元はすべて展開すると、この世と、地獄だった。
いま、私は地獄に居る。
地獄の底を眺めている。
かつて、彼方に乗り移り、そしてわたしが地獄に道連れにした怨霊が居たからだ。それの執着はわたし以上だろう。しかもそれを地獄に叩き落としたのは他でもないわたしだ。地獄の奥から、いまも叫び声が聞こえてくる。
わたしと、彼方が憎いと叫んでいる。
わたしが何故この世に再び現れたのか。
高次元の誰かが気を回したからだ。
あいつを見張れ、と。
この世で彼方を観察し、ハルとの接し方で巫として衰えていないことを確信したわたしは、また地獄へ戻り、あいつを見張っている。
まだ、わたし達の戦いは終わっていなかった。わたしの役割は彼方に引き継がれ、いずれ世に舞い戻る魔物を討つ準備をするために、わたしはこの世と地獄を跨る者にされた。
執着するもの。怨霊。
地獄から来る魔物。
わたしが死んだ経緯を語る機会はしばらくないだろう。
代わりに、新たな戦いを語る時は近いはずだ
それまで、どうか日常を楽しんでほしい。
彼方。
次はあなたが、あの魔物に立ち向かわねばならないから。
「怨めしや」
心の底から、そう唱えた。