襲撃Ⅲ
パティフィリーナは一人、城の中の見回りを行っていた。日付が変わろうとする夜中だ。民衆たちは夜中は殆ど自分達の家に帰っていたが、夜な夜な広間で雑魚寝する生活を送る者もいる。彼らは体調が優れなかったり、家があまりに悪かったりする者たちだ。今のところなにも問題はない。
「特に異常は無し」
呟きつつ広間を後にした。血気盛んなパティフィリーナは、城の見回りや民衆たちへの寝床や食事の配給といった作業にそろそろ辟易していた。今日はレイダの宮廷衛士から襲撃があったが、姉が呆気なく撃退したらしかった。せめて、自分も戦いに参加させてもらいたい。人気の無い廊下は呑まれそうなほどに暗かった。しばらく歩くうちに、道筋にふと黄色い光が漏れていることに気がつく。客間からである。
「こんな時間に。お姉さまか?」
部屋の前までつかつかと突き進み、手燭の火を向けながら大きく声を張った。
「おい、誰かいるのか。もう就寝時間だぞ」
この際致し方ない。勢いよく部屋の扉を開け放つ。中にいた人影が叫んで飛び上がった。相手の反応に、不覚にもパティフィリーナの方が仰天してしまう。
「お前、何者だ」
見慣れぬ顔だ。今まで数日過ごした民衆の顔なら一通り見てきたが、こいつは初めてである。寝癖か天然か、あちらこちらに跳ねた茶髪に、目に眩しい色とりどりの明るい色で染め上げた服を纏った男。シャマランの民衆が纏うような服ではない。だがその服は、所々破れて赤い染みが滲んでいた。そして、この目の青さ―純血のシャマランの人間なら翡翠色をしている。レイダ人の可能性が高い。
「レイダの者か、こんなところで何をしている!」
客間のソファに寝転がっていたのだろう。ずり落ちた体勢のまま呆気に取られた顔でパティフィリーナを見上げている。その顔を良くみれば、目の辺りに痛々しい大痣があった。
「早く答えよ。まさかスパイじゃあるまいな。答えないと縛り上げて姉に突き出すぞ」
事態を飲み込んだようだ。男は焦ったように体勢を立て直す。
「待って待って、別に怪しい奴じゃないって!オレだよオレ」
「何の詐欺だ。夜中に城の客間で敵地の人間が一人寝転がっていて怪しくないと抜かすか?」
「いやいやいや、なんだ、クリスティーナちゃんから聞いてないの?オレたち昼間の宮廷衛士だって。彼女が狩って味方に付けたんだよ」
パティフィリーナは露骨にじろじろと男を睨む。そういえば姉がそんなようなことを口にしていた気もする。内輪の話を知っているなら本人だろう。だが、客間を独占してソファで寝転がるとはいい度胸だ。タメ口というのも気に食わない。
「馴れ馴れしい奴だな。オレたちと言ったな?他の仲間はどこだ」
「オレ以外には兄さん一人だけだよ。クリスティーナちゃんと話し込んでんじゃないかなあ。どこで寝たらいいかわかんないからここ借りたんだよね」
「ふん、使える兄さんと違ってお前は用無しか」
「そんな嫌な言い方しないでよ。君は?クリスティーナちゃんの妹だよね」
「パティフィリーナだ」
差し出された右手を渋々握る。呆れかえるしかない。男はぼろぼろの風貌の割りに痛がっている様子もなく、ひたすらにこつきながら、
「初めまして。オレはアンリね。パティフィリーナちゃんは何してたのさ?こんな夜中に危ないよ?」
「見回りだ。全くだな、お前のような怪しいアンポンタンがソファに寝っ転がっていたりとかな。勉強になったわ」
「あは、そんな怒んないでよ」
「言っておくが私はお前たちなんぞ信用せんぞ。どこの馬の骨かもわからん輩だ」
「はいはい、怪しくてごめんね」
アンリは頭の後ろで腕を組む。悠々と足を伸ばしてソファに座る家臣にあるまじき態度に青筋の立ちかけるパティフィリーナ。棘棘した言葉がぽんぽんと口を継いで出る。
「なんだその態度は」
「え、ソファに座ってるの。君も座る?」
「タメ口とは何事だ」
「あー、癖?」
「お前とは話にならん」
仕方なくパティフィリーナもアンリの隣に腰掛けた。不機嫌そうに腕と足を同時に組む。横で結んだ三つ編みが顔の脇に垂れてくるので、アンリは全く躊躇せずにそれに手を伸ばした。
「すっごい髪の色だよね。ピンク?オレンジっぽい気もするけど」
「五月蝿い、触るな」
邪険に手を払って、彼女はアンリと隙間を開ける。アンリが驚きも恥じ入りもせずににこにこ笑っているので、逆に興奮した気持ちも静まってきてしまった。代わりにソファの端ににじりよってアンリとの隙間を空ける。
「亜麻色が強く出すぎただけだ。妹の髪なんか薄い青だぞ?レイダの遺伝子が入ると青みが出やすくなるんだ。お前の目だって真っ青だろうが」
「あー、確かに兄さんの黒髪も青みがあるような」
下らない話をするなと彼女は呟き、ふと、真に迫った声を出した。
「なぜ寝返ったんだ?」
「クリスティーナちゃんに強制的に引っこ抜かれたのさ。味方すれば命は助けるってね。兄さん以外のオレの仲間やポンコツ上司は、彼女に全員殺された」
「何?お姉さまが、お前の仲間を殺したのか?」
パティフィリーナは一人で考え込んだ。撃退したとは聞いたが、二人を除いて皆殺しにしたのか。最近の姉の姿を思い浮かべれば、目の前でいくら血が流れようと、毛ほども動揺していない印象だが―姉らしくない。元々目的のためなら何でも耐える人間だったが、革命が始まってから、ジョリーへの復讐を遂げるまで、敵対する者たちへの慈悲は、例え自分より弱い相手であっても完全に閉じ込めてしまったのだろうか?
「お前にポンコツ呼ばわりされるとは余程のポンコツなのだな」
返答を熟考した挙げ句そうとしか返せなかったが、アンリは全く悲しむようすもなくへらへらと笑っている。
「どっちかっていうと、こっちのほうがレイダよりは居心地がいいよ。そういやさぁ、オレたちパトリシアちゃんの救出の為に遣わされたらしいんだけど、どこいるかわかる?」
「ふん、なんのためにそれを聞く?この守りのなか、兄さんとパトリシアを連れてレイダに逃げ帰ろうなんて考えても不毛だぞ」
「いやいやまさか、殺されたくないし、兄さんだってそんなこと考えてないっしょ。そこまでレイダの人達に忠誠心無いってオレら……ただ、パトリシアちゃんが辛い思いをしてたら可哀想だなーって思って」
パティフィリーナはアンリを横目でまじまじと眺めた。こういうやつが本気かどうかを見抜くことは、姉のほうが得意だろう。こいつの片割れの方は、姉に対して何を話しただろうか?本気で味方するつもりで、尚且つ賢い男ならば、パトリシアの居場所など聞きはしないだろう。口にするだけでまだ未練があるのだと思われる可能性を考慮するだろうからだ。
「パトリシアはこの城の中で部屋を宛がわれて安全に暮らしている。民衆たちが彼女を監視しているんだ。ま、正確な場所が知りたかったら姉か民衆たちに聞くんだな。お前、また誰かに引っこ抜かれたら裏切るつもりか?」
パティフィリーナにしてみても、心配事はクリスティーナと同じである。だが、はっきりと口に出すのが彼女の性だった。
「裏切る?いやあ、ないと思うよ。クリスティーナちゃんが味方になってくれると信じてオレらを引っこ抜いたわけだしさ。裏切ったら可哀想じゃん。ここは安全だし」
「裏表が無いところだけは誉めてやる。だがな、悪いがここは安全じゃない。そしてお前のものでもない、皆のものだ。民衆たちは元レイダ軍隊のお前らなど絶対に信用しないだろうし、私も信用しない。絶対にだ」
立ち上がりかけながら、パティフィリーナは手燭の光で奥を示した。影になった彼女の血色の良い唇は、冷たい銅像のように引き結ばれている。
「まずその汚い服を着替えさせてやるから着いてこい。その後、一緒にいくか?さっきから姉が私を呼んでいる」
クリスティーナは熱っぽく輝く瞳を窓の外へ向けた。気温が下がって結露した窓の奥に、黒々と闇が溶けていて、どこにも灯火が見当たらなかった。二人が喋らないと、蝋燭の焔がぱちぱちと爆ぜる音が聴こえるくらいに、城全体が静まっているのがわかる。これが明朝にでもなれば、民衆たちが起き出して、クリスティーナが風散見に旅立った報せを聞いて大騒乱が起こるのだろう、と―セシルは今からそれを憂いでいた。説明を求める興奮した大衆に、彼らから敵視されている捕虜のセシルが状況を説明するしかないのだ。同時に、最早誰かの言う通りにしていれば生きていける状況では無くなったことも、重々承知していた。まだ深夜だが、風散見国まではかなりの距離がある。早く出ても、船で行けば到着は翌日の朝になるのだ。夜中までこれからの戦略を練ったクリスティーナとセシルだが、不思議とあまり疲れてはおらず、逆に冴えてしまったようだった。セシルはふとアンリのことを思った。寝るといっていたが、どこで寝るつもりだったのだろう。民衆たちに受け入れられないのは目に見えているから、着ている服だってあのときのままの筈だ。燭台で暖まった部屋にいるセシルでさえ寒いのに、破れたような服一枚で怪我をして、何処かで雑魚寝でもしているだろうアンリはもっと寒いのではないか―。
「そろそろ、出ないと間に合わないわね」
どれほど沈黙していただろうか。突如、クリスティーナは目線だけを窓の外に注いだまま独り言のように呟いた。視線の先には闇があるばかりである。
「こんな夜中に出るんですか。一国の皇女が一人で遠征なんて異常ですよ」
「あら、心配してくれてるの?優しいわね。服はこれでいいかしら」
彼女は髪を高い位置で一つに縛った。長い髪だと作業に邪魔だからと、巷の女たちがよくやる髪型である。クリスティーナの着ている衣装は、下女が着るような、質素な飾り気のないものである。先方には礼を欠くが、正体を隠すためには町人拵えするしか無いという見方だった。ライラック王家の徽章と印を捺した詔書、更に印鑑と現金をいくらか詰めただけの鞄を脇掛ける。風散見への通行手形は関所で発行してもらうしかない。最後にクリスティーナは、部屋の隅に忘れられたように掛けられていた布地の厚い外套を、まるで鞄を守るかのように上から着込んだ。
「ジョリーたちは紫電一閃の速さで同盟を組んだ。この調子じゃ直ぐに計画を立てて攻めてくるに違いないわ。私達には一刻の猶予も残されていない。しかもジェット機で移動できるフローラルに比べて、航行するしかない私達は何倍も時間のロスがあるから、夜中だろうとなんだろうと、とにかく急がなくてはならないわ」
「家臣がいないにしても、せめて、信頼できる民衆を複数人連れていけば」
何の連絡もなしに、いきなり風散見を訪問することになる。こんな無理な訪問が通るのかもはたまた判らないし、玄関先で追い払われる可能性だってある。クリスティーナは、セシルの提案ににべもなく首を横に振った。
「構わないわ、とにかく時間がない。船頭は必要だけれど、他は私一人で行く。桟橋のあたりは国防のために、何人かの漁師たちが常に交代で監視しているわ。彼らを連れて船を操縦してもらう。夜中だから隠密に行けるでしょうよ」
お願いします、とセシルは念を押した。
「あなたに何かあれば、民衆たちが混乱して悲しむ筈だ」
「私の方は本当に心配無用よ。ただ、ここには最悪の事態が起こらないとも限らない。一日以内に攻撃してくる可能性だってあるわ。明日中には帰るつもりだけど、どんな事態にも落ち着いて、慌てない覚悟を持ってね」
真剣なクリスティーナの表情を見、セシルの顔も自然と引き締まった。
「わかりました。心に刻んでおきます」
自分という存在が必要とされることは新鮮でなんだかこそばゆい。張り詰めた空気のところに、いやに上っ調子な声が響いた。
「お取り込み中失礼しまーッす」
扉がバタンと開く音、続いてバタバタと騒々しく響く足音に、セシルはぎょっとするのとうんざりするのとを一挙に抱えて背後を振りかえる。
「アンリ」
「や、兄さん、女の子と二人っきり?何話してたの」
「いや、違……そういうわけじゃ」
いきなり飛び込んできた弟は、意外にも小綺麗な服装をしていた。巧く交渉して着替えさせてもらったのだろうが、案外気丈そうなのにほっとする。そして、更にそこに桃色の髪の少女が割り込んでくる。彼女が例の妹の一人なのだろうか。
「これ、マウズ、少しは気を遣え。若い男と女の間を邪魔するなど無分別極まりないぞ」
困ってクリスティーナを振り仰ぐ。彼女は貫禄ある笑みを返してきた。
「そういえば、セシルにはまともに妹を紹介してなかったわね。パティフィリーナとアンリはどういう馴れ初めかしら?随分仲が良さそうじゃない」
「仲など良いものか。このアンポンタンが客間で伸びていたから叱咤したまでだ」
始終眉間に皺の寄った不機嫌そうな顔だが、やはり妹らしい幼さが見えなくもない。パティフィリーナはセシルの正面に立った。セシルにとっては、丁度つむじの辺りを見下ろす形になる。クリスティーナとは反対頑固そうな、露骨に疑り深い目を向けてきた。
「ふん、とはいえお前もやはりレイダ兵の一味か。なよっちいモヤシ眼鏡だな。セシルと言ったな?アンリにも言ったが、お前もそうだ。例えお姉さまと仲良くしていようと、私はお前なんぞ信用せん」
「はい……?」
今のは言う必要があったのだろうか。クリスティーナは苦笑を浮かべている。
「これがパティフィリーナなりの歓迎の仕方よ。悪いけど多目に見てやって頂戴」
「歓迎などしておらん」
一方、アンリの方は目敏くクリスティーナの格好に目を付けた。
「あれ?クリスティーナちゃん、どっか出掛けんの?」
「今から風散見国へちょっくら出掛けてくるわ。面倒くさい説明はセシルから聞きなさい。パティフィリーナには少しの間国を頼むわ」
「梅吉に電報は打たんでいいのか」
「フローラルにハッキングされたらひとたまりもないわ。そうそう、後でセシルの眼鏡と服をアンリにやったように調達してあげてくれないかしら。コララインはどうしてる」
「とっくの昔に寝たぞ」
セシルは三姉妹であることを思い出した。この並びでいくと三女も甘く見ない方が良さそうだ。
「では、行ってくるわね」
クリスティーナは一人一人と目を合わせる。感傷を切り捨てた瞳だった。
「あなたたち、くれぐれも国を頼むわ。特にアンリ、兄さんと協力して民衆を纏めるのよ」
「国を頼む?兄さん、どういうこと?」
事情を何も理解していないアンリを、「後で話すから」とセシルは黙らせた。このタイミングでパティフィリーナが来たと言うことは、クリスティーナが例のテレパシーで来るように連絡したのだろう。実際そのようで、
「そしてパティフィリーナ。さっきのテレパシーで細かいことは説明したし、もう事情はわかってるわね?コララインやアズレ、セシルたち皆と力を合わせて国を守って。敵はすぐ近くにいると思ってね」
クリスティーナの言葉に、パティフィリーナは丸い唇をきゅっと結ぶようにして頷いた。
「深刻な顔だな。お姉さまが少しいなくなるだけだろう?言いつけ通りにはするが、任せろ、私がシャマランを守る。あと言っとくがお姉さま、こいつらはあくまで人質、捕虜だ!あんまり信用せん方がいいぞ」
「はいはい、じゃあ監視も頼むわね」
合図代わりにちらりと目配せして口許を綻ばせたクリスティーナの笑顔は決して明るくは無い。そのまま振り向きもせずに立ち去ったクリスティーナの髪が目の前で翻った残像に、はっとしたパティフィリーナの胸にはどっと複雑な感情が溢れて乱れた。
「ふん……お母様よりずっと母親面してるじゃないか」
その日の夜、セシルは不本意そうなパティフィリーナに案内されて、アンリと共に客間で寝ることになった。民衆たちは公平に大広間やホールやらでめいめい雑魚寝しているのだが、パティフィリーナはふんと鼻で笑って、
「お前らのような怪しげな敵性捕虜をいきなり民衆のいる部屋に混ぜたら彼らは反発するだろう。お前らなんぞにこんなちゃんとした部屋を貸し出してやる義理はないが、彼らはお前らが昼つ方に攻めてきた奴等だと判っている……皆と眠れば暴力を振るわれたりする危険もあるからな。有り難いと思え」
放り込まれた客間は先程アンリが昼寝していた部屋で、端にある会議室と違って大広間の隣にある。未だに起きている者もあるのだろう、赤子のか細い泣き声が静寂の中に遠く響いて、周囲の者たちが慌てて宥めすかす声などが聞こえてきた。フォウルは、シャマランは人口の四分の一を伝染病で失ったと言った。では、その彼らを一緒に寝かせて大丈夫なのだろうか、とセシルは考えた。現在シャマラン城で眠る民衆全員に分け与える部屋数などありはしないだろう。彼らは、昼間にここに通ってクリスティーナの話を聞いたり、食料の配給を受けたりして、夜中はやむを得ない事情がある者以外はめいめいの家に帰る。しかし自分を含め、彼らは不幸なことに、医者と薬だけは、この城へ来ても貰うことは出来ない。医療に携わる者たちは皆亡命してしまったと、クリスティーナは教えてくれた。シャマランの明確な身分制度は王家・貴族・医学者たちと民衆たちとの間で二分されている。シャマランは優れた医術を持つ者を多数輩出するが、それは西側、レイダに近い裕福な都市―中でもパール街―に住まう者たちからで、東西で明らかな経済格差が生まれていることは、セシルが今までに読んだ様々な地理書に書かれていた。そしてその一番貧しいスラム地区シャマリャーレが、同時に王都であるのは珍しいことである。市場として栄えていたジョセフの時代の名残だ。城を建て替えたくても金が無かったに違いない。
部屋には洒落た時計が掛けてあって、針は夜中の二時辺りを指している。セシルがパティフィリーナに貰った紫色の細縁の眼鏡はやはり度も大きさも合っていないので、アンリは面白がって一生懸命に声を殺して笑い続けていた。セシルの傷ついた肩や脚は時折しんしんと傷む。客間には夜中の冷気で冷え込んでいて、大きなソファの隅に、薄い毛羽だったブランケットが無造作に丸めて置いてある。先程アンリが脚でぐちゃぐちゃにしてしまったようだ。
「兄さん、オレここ使うけどいい?兄さんもう一個ので寝て」
アンリは先刻自分が使ったソファに再び寝転がり、顔に毛布を被せて足首を組んだ。セシルは暫く闇の中に座って、夜に慣れた眼で部屋に掛けられた風景画などを眺めたりしていた。レイダには裕福な家庭にのみ瓦斯灯があるが、恐らくシャマランもそうなのだろう。ふと不安を煽られて、彼は部屋に置かれたそれを点火した。
部屋のドアノブが回転する音がする。
セシルは驚いてアンリの毛布を引っ張ったが、警戒心の薄い彼は深く眠っていてぴくりともしない。セシルの顔が引きつるのもお構いなしに開かれた扉から、呑気そうな黒髪の男がひょいと顔を出して、「あー、君だ、君。やっと見つけた。ここにいたのか」と笑いながら身体を滑り込ませてきた。
セシルとアズレは相対する形で、客間に置かれた机に着いている。彼の名は、紛うことなきあのクリスティーナが認めた陰の指導者のそれだった。些かイメージとは違う彼の様相に最初は少し怪しんだが、彼の瞳の色が青緑色なのを見て彼は確信する。
「あなたも魔法を使うんですね。王族でしたか」
「なるほどね、最初にそこに切り込んでくるか」
彼は唇で微笑んで、「どこで気づいた?口調?目かな?」
「瞳です。その色」
「レイダの国民なのにそれを知っていて気付くとはなかなかだね。シャマランの民衆ですら知らないのに」
「宮廷衛士でしたから」
実際、特殊な職務で無い限りは国王の顔をまじまじと見る機会など無いだろうし、まして隣国の王族の目が緑か青緑かなんて情報をちまちま脳に貯めている物好きもそう多くはないだろう。
アズレはぞんざいに指を絡めて、何を考えているとも言えぬ表情で、「クリスティーナから僕のことを聞いたのか?」と目を細めた。「王姓だということ以外は」とセシルは答えておく。
「王姓だなんていったところで僕は凋落した王族の端くれだ。生まれも育ちもシャマリャーレだし、この国の興亡も変遷も、生まれてからすべてこの目で見てきた。魔力だって、ちゃんと学んだクリスティーナとは違って大して使えやしない。日がな僕の一日を聞きたいかな?」
セシルは不親切に曖昧な笑いを浮かべたが、アズレは元々答えを求める気もなかったらしい。勝手に喋りだす。
「朝から晩まで街中をふらふらしていたんだ。国内の医療関係者が全て逃げ出したという話も聞いてね、確認がてらパール街と周辺を散策したが実際にそのようだった。いやぁ、噂ほど素早い情報媒体マス・メディアはそうないね。そこで、昼間にレイダからの使節が来て、捕らえた彼らをクリスティーナが解放したと街の労働者たちが噂するのを聞いてね。どんな奴等か気になってさっき城に戻ってきたら、丁度出ていく人影とすれ違ったよ。頭からローブで隠して俯いていたが、あれはクリスティーナだろ」
よくわかったな、と言わんばかりの不審な目でセシルがアズレを眺めるので、彼は軽薄な笑いを浮かべながら手を振って否定する。セシルの頭に、アズレが城中の部屋の扉を手当たり次第に開けまくって青い瞳のレイダ捕虜を捜し回る光景がごく自然に浮かんだ。
「聞いてみただけだ。まぁしかしその反応を見る限りクリスティーナなんだな?そして君は今しがたクリスティーナが出ていったことを知っているということは、つまり君、彼女とほんの先程まで共に居たんだろ」
一人笑壺に入るアズレを眺め、セシルは溜息をつく。なるほどクリスティーナが警戒するのも至極当然な、いやに引っ掻けてくる少年である。革命軍を率いる為には揃いも揃ってこんな性格をしていなければいけないのか。アンリみたいなのの良いところは、話していても疲れないところだ。どちらも味方なのは唯一の救いである。
「その通りです。レイダがフローラル・ボンボーヌ・ティリクム三国と組んだ同盟への対抗策として、彼女は風散見との協力を打診しにいく」
「何故そんな話を君と」
「彼女は僕に情報と意見を求め、僕はそれに応えた。クランベリー姫も同じ考えでした。時間の猶予はないと、直ぐに風散見へ」
「奇妙だな。レイダから捕らえてきたばかりの君一人の意見を、彼女がそんな簡単に聞き入れるなんて。それにそのレイダ側の動きについて、僕は何も知らないが」
「民衆たちも未だ知りませんから明日彼らに伝えないと。僕がシャマランに発つ直前に、宮廷内にもたらされた情報ですから知らなくて当然です。クランベリー姫は、話を聞いた時点で僕と同じ考えだったんだと思いますがね」
「クリスティーナは君をどう見ている?」
セシルは記憶の綱を辿って、クリスティーナの言葉を捻り出した。
「民衆たちと同じに扱うと言いました」
「なるほど、他に何か話したか」
「他愛の無い身の上話くらいなら」
アズレは始終仰け反るように身を退いて聞いているのだが、その目に明らかな好奇の欲望が浮沈している。やはり彼も、クリスティーナの動きが気になるのだ。それでも彼女の前に堂々と出てこないことに関しては、クリスティーナの為にも直接聞き出したかった。セシルは彼が以前そう思ったように、恐らくアズレにとっては聞き苦しいであろう質問を展開するしかない。
「あなたが影ながらクランベリー姫を監視しているのは明らかに協力できるほど信用していないからですか。まだ王の娘であった彼女を疑っている」
それを聞いて、アズレは彼特有らしき品の悪くない高笑いをしてみせて―背後でごみの山のように固まっているアンリを慮ってか含み笑いに代えて口許を抑える。予想していた反応だが、緊張するセシルの精神にはそれしきでは障らない。アズレはまだ笑いを引き摺りながらこんなことを言う。
「悪いが君、勘繰りすぎじゃないかな?君の癖に冴えない意見だ。疑いを深めていくことは普通はしない、共通の目的を達成させたいなら、それを除くために信頼を形成していく。君の意見の後半が正解だとしよう。過程において懐疑という段階があるのが至極当然で、今僕らがここにいるとするなら、ここから脱却するためにお互いに自分を顕して歩み寄るのが自然な方法だ。信用させたいのに隠れてこそこそする奴がこの世にいるのか。事実クリスティーナは、自己を表舞台に置くことで他者との信頼を築いている」
「つまりあなたは、クランベリー姫と信用してされる関係になりたいと」
「平たく言えばそうなるねぇ。クリスティーナもそう思っているだろう。ただそれが現時点では難しいというだけだ」
そもそも本気で言っているのか定かではないが、大層な矜持の持ち主である。確かにセシルの見方もアズレに近い、しかし申し訳無いがクリスティーナの方はそうとも限らないかもしれない。彼女は、現時点では当然のような顔でセシルをアズレ監視の任に就けた。そしてセシルがクリスティーナに付いていく以上はそれを破棄することはない。セシルが「黙ってこそこそとアズレを監視している」と言っても大した語弊は無いだろう。今のところクリスティーナの考え方はアズレのそれとは違うようだし、彼女が、この後どう対応を変えるかでアズレの見立ての正誤が決まる。そもそもアズレの方からは姿を現さないことがフェアではない状況を生んでいる。クリスティーナはそういった点でアズレについて彼以上に心の内を言わなかった。
「つまりだ、僕が表舞台に出てこないのは、単に、既にクリスティーナという僕の代わりがいるからだ。今のところ彼女のやり口は凡そ僕とは掛け離れてはいない。風散見と同盟を組もうというのも、特にフローラルを敵に回したなら当然だ。方向が同じなら先駆者パイオニアは一人で充分だろう」
「ええ、言いたいことはよくわかります」
「しかし君、些か過労気味じゃないかな。明日からの苦悶の生活に耐えられないぞ。そっちの奴を見習ってそろそろ寝た方がいい。民衆たちと君たちとの間にはまだまだ厚すぎる壁があるだろう。早く乗り越えろ」
それは如実だった。誰しもから投げつけられる白い目や、敵意を剥き出した憎悪の言葉。そういう意味でクリスティーナもアズレも、誰しもを平等に扱おうとしている。それが虐げられた者達への統治における最善だと知っているからだ。「あぁ、そうだ」とアズレは頓狂な声を出し、去り際に振り返って親指を立てる。
「クリスティーナ不在の件については僕が民衆たちに伝えてやる。まだ君には敷居が高いだろう。安心して眠りたまえ」
セシルは、世の中には軽薄そうな知識人と、軽薄な馬鹿の二種類が存在するのだと実感する。