襲撃Ⅱ
「軽く流して聞いてなさい。シャマランの医術は対外的に貿易ができるほどまで発展しているのに、スラム化した貧しいいくつかの街では疫病が蔓延して、多くの人々はお金もなく、医者が来ないままに死んでいった。医者は高いお金を払わないと来ないのよ」
セシルの脳裏に、またシャマリャーレで見かけたあの死体が甦り―彼はつい口許を塞いだ。死体ばかりはどうにも慣れない。クリスティーナは水を流すように滑らかに語る。
「シャマランの国王は自らが持つ魔力のみで国を維持する。戴冠式のときに、王冠に王の血を吸わせるの。王冠はその血に含まれる魔力で、国境の周囲に不可視の結界を―そう、これは透明で物的な壁みたいなものね。張ることができるのよ。結界は普段は緩くシャマランの国境を取り巻いて有事に備えるだけだから、貿易や旅行―まあこれは最近は規制されたけれど、それらなんかは王の承認を得て通路を開けば問題なく行える。だけれどもいざ有事になると、王は魔力を最大限結界に注いで強化する。外国の脅威はシャマランには絶対に入れなくなるし飛び道具も跳ね返る。王の体力が尽きない限りその結界は国を守るわ」
「だから物理的に最小限の兵力で国防ができる」
「その通りよ。お祖父様は次々とシャマランの経済発展を成功させたけれど、その頂点がやっぱり医術の発展ね。民衆たちは医術によって対外的に儲けたお金と、シャマリャーレの発展で、めいめい文化的な生活が営めていたわ。けれどジョリーが国王となった七年前、彼は突然皆兵制を施行した。兵力と軍事規模の拡大を画策して、国民に国を守らせようとしたわけね。皆兵制には大反発が起きたけれど、彼の考えは変わらなかった。シャマランの自給率は、自然と資源が少ないせいで昔からほぼ零に等しい。だからジョセフの時代までは医術の貿易によって賄っていた食糧も、国庫の不足で輸入できなくなっていたわ。圧倒的な筈の医術の儲けだけでは補えないほどに、お金が不足していたの。度を越した傭兵制を行ったからよ。彼ら兵士に払う一定の賃金は莫大に膨れ上がった」
「本業は軍人ということですか。兵役義務と報酬としてのいわゆるベーシックインカムが入るから他の仕事をしなくなって産業が衰退する。実質的な失業の恐怖がないと人は働きませんから」
「そうね、確かに最初はそうだった。だけれども『本業』に対する『労働』はその苛烈さの割に『収入』が安かったの。だから完全な社会主義は実現せずに、最終的には資本主義に回帰したわ。彼らは他に働かざるを得なくなったけど、訓練のせいで他に働く時間がない。結局は残った暇を潰して低賃金の労働を行うしかなかった。元々家がある程度豊かで、軍役の報酬のみでも生活できたのが中流階級だけれど、彼らは豊かな内地で穏やかに暮らせたみたいよ。だけれど、シャマリャーレを代表に東側の諸都市は悲惨だったわ。国内の貧富の差は拡大するばかり。過酷な労働環境、医者も呼べないのに疫病まで流行って治安が悪くなってくると、ジョリーは串殺刑を考案してすぐに施行した。極刑の基準は段々と下がって、多くの人間が大門に吊り下げられるようになった。あの生首が風にはためく異様な光景は一度見たら忘れられない。鬼畜の所業よ。革命が始まった段階で、皆で彼らを下して弔ったわ。無実の者がどれだけいたことか」
「そもそもなぜ疫病が流行ったんですか」
クリスティーナは漸く迷う素振りを見せた。
「シャマランは元々平均寿命が短い国なの。原因はわからないけれど、五十くらいで亡くなる人も沢山いるわ。シャマランは医学的な知識は深いけれど、実践できるだけの自然や資源が無いから、国民は健康を害しがちで身体が弱いんじゃないかとも言われている。それでも、お祖父様のときには例え感染してもすぐに医者にかかれるだけのお金が国民にあった。けれど今は、最初に感染者が出て、その人にお金がなかったらもう終わりよ。貧しい人々に広がっていく一方だわ」
クリスティーナの口振りに熱が戻ってくる。持て余している怒りのやり場に困っているように、手を組み合わせて固く握っていた。セシルは微動だにせず、集中してクリスティーナの話を聞いた。
「荒れる中で国民が不満を訴える度、それでもジョリーは真摯に新たな政策を打ち出していたわ。でももはや手遅れなの。ジョリー自身の精神も限界を迎えて、最後は、彼は体調を崩して城に引きこもるようになっていた。外部の者との面会を拒んで、毎日、ヒステリックに民衆を串刺しにしながらね。さて、ジョリーがいきなり皆兵制を始めたのは何故だと思う?」
「ジョリー国王自身が、ジョセフ国王のやり方に反発したからですか」
「そうね、そうとも言えるわね。彼ね、魔法が使えなかったの」
セシルはぎょっとして目を見開いた。よくよく考えれば事情はそうとしか思えなかった。ジョリーはフローラルの軍事侵攻を恐れた―つまりそういうわけか。ジョセフのように国を守る魔力が無かったから、おそらく戴冠式では王冠に血だけ吸わせでもしたが、結界は張れなかったのだろう。だから国防を行うために、国を挙げて軍隊を組織したのだ。クリスティーナはその反応に唇を歪めて笑い、それから、全てを諦観しているような、陰のある瞳を机上に落とす。クリスティーナが着けた燭台の蝋燭が、薄暗い部屋の中の二人を柔らかく包んでいる。
「シャマラン国王は代々魔力を持つもののみが立ってきたわ。前例は一度だけ、その時には凄惨な大革命が起きた。だけれどもジョリーが王になれたのは、彼と彼に味方する者が邪魔者を全員殺したからね」
セシルは記憶の棚をこじ開け、七年前にシャンビルが国民に隣国国王禅譲の報せを発表したときのことを思い出す。当時彼は十五歳で、レイダ王宮の前の人々が詰めかけている広場で、アンリとともにバルコニーを見上げて聞いたものだ。あの時のシャンビルの動揺具合や、病気とすら聞いていなかったジョセフの崩御の知らせにはかなり驚かされたものである。何やら陰謀があったのではないかと有識者の間で騒ぎにはなったが、シャマランの国民すらそのことを知らないようだった。そのあとは何も知らせはないままに、ジョセフの息子が王になったとだけ聞いたのだ。
「もしかして七年前に亡くなったジョセフ前国王が、そのジョリーたちによって殺されたということですか」
「そう、その通り。革命が起きるまで、この真実はシャマランと、親睦の深いレイダの王族両家の間で内密にされてきたわ。実はジョリーと違って魔力を持つ彼の弟のドミニクが生まれてから、シャマラン王家は二つの派閥にぱっくり割れてしまったのよ。一つはジョセフの意見を支持する派閥、もう一つは、ジョリーを庇護する彼の母クレマチスの意見を支持する派閥よ」
ジョセフは強力な魔法政治を維持するために、魔力を持たぬ者の血は入れないという考え方だった。彼は跡継ぎにドミニクをと主張し、ジョセフの妻クレマチスは魔力政治に反対してジョリーを跡継ぎにしようとしたのである。ジョセフもクレマチスも同等の強い魔力を持っていて、両勢力はしばらく拮抗していたのだ。
「私が生まれたのはちょうどその頃だったわ。ドミニク叔父様には妾腹の子供が沢山いたけれど、大した魔力を持つものは生まれなかったようね。王家の争いで命を落としては可哀想だと、皆が王籍を抜けて一般民衆になったわ。一方で、ジョリーの最初の子供である私には、ジョセフは大した期待はしていなかったみたい。けれど私が生まれて強い魔力を持つとわかったら、お祖父様は私をジョリーの元から引き離した。そうして、跡継ぎドミニクの次の跡継ぎとして私を育てたのよ。私の身を巡って、二つの派閥で争いが起きたらしいわ。クレマチス派は魔力政治では民衆は不幸になると主張して跡継ぎをわざわざジョリーにしたがったのだけれど、私の魔力が敵の手に回ったら自分達への攻撃が強まると恐れたみたいね。けれど、家臣たちが血を流してさんざん争って、負けたのはクレマチス派だったわ」
まるで見てきたかのように話す。クリスティーナはまだ当時生まれて間もなくだった筈だ。流血の惨状を簡単に想像できるくらい、彼女が育った環境は殺伐としていたのだろうか、とセシルは考える。
「私の存在が元凶だったのかもしれないわ。その時から、両家の力の均衡は崩れていった。私がジョセフたちに取られてから段々とクレマチス派は焦りだして、私が四つになるころに、打開策としてドミニク叔父様を暗殺したの。怒ったお祖父様は、クレマチス派への報復として―そのクレマチスの殺害を決断し、復讐は一年以内に果たされた。さて、クレマチスお祖母様を殺したのは誰だと思う?」
「それは、ジョセフ前国王の派閥の家臣の中の誰かだと思いますが」
何故そんな当たり前のことを聞くのか内心首を捻るセシルに、クリスティーナはちょっとだけ試すような微笑みを向けた。
「外れよ。殺したのは私なの」
「あなたが?」
動転した声が洩れた。
「何故ですか、わざわざ五歳の子供の手を汚す理由なんかないでしょう?」
「違うのよ。私はね、誰かに殺れと言われて殺った訳じゃない。私が殺りたいと言ったのよ。クレマチス派は過去を顧みない欲望にまみれた卑劣な者達だと幼い頃から聞いてきたわ。後から生まれた妹たちも、見事にお祖父様が親権を手に入れ、クレマチス派から悪影響を受けないように完全に分離されて育った。ジョセフは息子の娘たちを奪った、けれども彼の治世は素晴らしかったし、お祖父様の行動は忌み子の娘の私たちへの優しさに溢れていた。ドミニク叔父様は気さくな優しい方だったわ。けれども、彼は殺されたの、クレマチス派の繁栄のためにね。四歳の私はそれが悲しくて、彼を殺したのがクレマチスお祖母様たちだとお祖父様に聞いた時には幼心に激しい復讐心に燃えたわ。お祖父様はクレマチス派の存在を嘆いては、『けれども身内は決して手にかけないぞ』って言っていたの。だからクレマチスへの復讐を決めたときも、とても辛そうだった。その時に、私がお祖父様のために殺らないと、って思ったのよ。クレマチスは派閥の長、守りが固いわ。子供の私の前でなら油断するだろうということで、家臣たちも敢えて私を推してきた。お祖父様は暫く渋って、最後に承諾したの」
クリスティーナは机上に置いた自らの左手をじっと見詰めた。
「私はお祖父様から習った覚えたての黒魔術を使って、お祖母様を焼き殺した。黒魔術が何を意味するかはあなたならわかるかしら」
「魔術には詳しくありません」
セシルは素直に答える。クリスティーナは差し俯いた。
「黒魔術は―こればかりは、私の祖先が産み出した紛い物と表現したいわ。回復魔法に代表されるように、人の命を救い、人を危機から護るための便利な道具として白魔術は生まれた。魔術とはそういうものとして定義された。それでも、白魔術は使い道次第で人の命を奪い得る。でもそれは護ろうとした行動の結果の一つであって、目的はそうではない。少なくとも私たちはそう自らを慰めてきた」
だがクリスティーナは魔術でクレマチスを焼き殺す。それは直接人体自体を爆発させる魔術。人の命を奪うために開発された黒魔術は、数百年前時の流れ白魔術の解釈を勘違いした者によって産み出された。当時王族の中で持て囃されたが、次第にそれが魔物のように制御不可能であったことを彼らは自覚し始める。人に早すぎたのではない。いつにおいても人が扱っていい代物ではなかった、それだけだ。
「お祖父様が何のために幼い孫にそれを教えたのかはわからない。私もパティフィリーナも使えるけれど、『あまり使いすぎるな』とお祖父様は言いながら細かく私に教えたわ。人を殺すための魔術が存在すると知った愚かな私はクレマチスを焼いた。この左手を一つで、簡単にね……殺したことを後悔してはいないけれど、私が選択した魔術は使い手としては失格よ。そう、お祖父様はやっぱり悲しそうだった。それで私を抱き締めて『ごめんね、ごめんね』って何度も謝ったわ。私はお祖父様の役に立てて嬉しかったけれど、彼が複雑な気持ちなのはよく悟っていた。リーダーを失ったクレマチス派は最早終わりかと思われたわ。けれど三年後」
クリスティーナの目付きと声に険相が浮かんだ。憎しみと恨みがありありと告白されている。
「彼等は、クレマチス派はとうとう、お祖父様を手にかけた。私と散歩している最中に、私の目の前で、大勢で囲んで殺したのよ。クレマチスの遺した奴等が、徒党を組んで狙ってきたわけね。彼らは私たちを親のように育ててくれたドミニク叔父様とジョセフお祖父様をどちらも奪ったわ。遺された私達は弱かった。あっという間に形成が逆転して、クレマチス殺害の罪で私も殺されようとしたけれど、ジョセフが吹き込んでやらせたんだろうということで私は無罪。その時、私はようやく八歳ね。この段階で、ジョリー派の人間たちは私たち姉妹を『更生』させるべく、自分達と同じところに住まわせ、白々しい愛情を与えて育て始めた。他のお祖父様の味方は次々と処刑されたわ。私はまだだめだ、大人しくしていないと命が危ないと思って、大人しくジョリー派に従った。ほんとは全員黒魔術で殺してやりたいくらい憎んでいたけれど、機を待って自制したわ。けれど私は今日まで七年間、一時たりとも忘れなかった。お祖父様を目の前で殺されたあの衝撃と憎しみをね。そしてやっぱり、クレマチスに鼓舞されて他の家臣に言われるままに王座に座ったジョリーに、国を治める力なんか無かった。四百年前の史実通り、たった七年足らずでシャマランはこのざまよ。私たちのみならず民衆まで苦しめる、身の程知らずの生きているだけで沢山の人を不幸にする害虫。いつか絶対にジョリーを殺すと決めてから七年、ジョリーは精神が衰弱、ジョリー派の家臣たちは平和ボケ、民衆たちの士気も上々、これが機だと私は思ったわ」
彼女が時折見せるあの恐ろしさはこういった過去によるものなのかも知れない。つまりこれが、革命への情熱の根底にあるわけだ。
「けれども私はね、いざ革命を始めてしまうと、民衆たちの気持ちを全然わかっていなかったことに気がついた。彼らと過ごすうちに、私だけがとりわけ苦しんだんじゃないとわかったのよ」
クリスティーナは自嘲気味に笑う。
「けれども、祖父を殺された憎しみを、彼らと共有するのはできないと思ったわ。彼らが求めているのは優しいお祖父様ではなくて、生活に恵みと繁栄をもたらしたジョセフ国王だから。だからこういう話をしたのはあなたが初めてだけれど、でもあなたもこういう気持ちは、わからないかもしれないわね」
セシルは少し酷いことを考えた。死者の望みは復讐だと、誰の酌量で決めているのだろう。奪われやすいものを愛し、喪い、愛を悲しみに、悲しみを憎しみに、憎しみを野望へ昇華するだけの単純な自己の行動に、偽りの正当性を添えるだけにすぎない。勝手なものだと思う。だが誰しもそうせざるを得ないのだ。だって遺された者は、絶対に死者の声を、彼の望みを聞くことはできないのだから。そしてセシルは図々しくこんなことを考える自分を嘲る。現に自分も同じ思いを抱いたのだ。だから彼女に共感するしかないのだ。彼は自分のことを話してみようという気になった。
「そういう気持ちに似たものなら、味わったことがあります」
「良かったら話してちょうだい」
クリスティーナは興味深そうに指を絡めて肘を突く。
「僕やアンリはレイダ王宮貴族の家系の出です。宮廷衛士として王宮の軍隊に入ったのは六年ほど前でした」
「社会勉強として貴族の子供を軍隊に入れる話ならよくあるわね。あなた、名字は?」
「王姓です」
ミューストレート、とクリスティーナの唇が動く。息を呑んだ。
「なら完全な王族じゃない。物凄い身分なんじゃなくて?流石に王族を衛士にするなんて聞いたことがないわ」
「いえ。僕よりも、弟の―いや、義弟の、アンリの血筋のほうが正統な王筋に近いです」
「あなたは、アンリ君の家の養子」
「そう、僕の実父は出世を切望していましたが、同時に、物凄く不埒な男でした。父はミューストレート家の生まれですが、あまり身分の高くないセーラ・スイフトに惚れ込んで求婚したんです。ですが母のスイフト家は、貴族ではありますがあまり王筋に近くないので、父は後悔した。彼は王家に取り入って、母より身分の高い十も年上のミューストレート姓の女に乗り替えました。ステラ・ミューストレート。彼女がアンリの実母です」
どうりで二人とも似ていないわけだ、とクリスティーナは合点がいった。どちらかというとセシルはパトリシアのような黒髪で更に青ざめた顔をして、アンリの方は赤茶けた巻き毛の健康的な肌色である。
「父は早速ステラと内通して、子供を二人ももうけました。僕がある程度成長するとすぐに、父はセーラとの結婚を名目上勝手に破棄してステラと結婚した。父は家を出ました。母は父に去られても、懸命に耐えて僕には優しく接し続けましたが、失意に呑まれて次第に衰弱し、そのまま亡くなった」
「おいくつだったの」
「まだ二十前半でした。僕が七歳の時のことです。母は早くに父に結婚を迫られて断れなかったそうで……それが運のつきでした。身寄りの無くなった僕は嫌でも父についてステラの家に入るしかなかった。そこに居たのが、あのアンリと、彼の兄のベルです。父が母と結婚している間にステラと作った子供。ステラは長男のベルばかりを可愛がって、できの悪い次男は嫌っていたらしい。父は自分の子供すら疎ましがって、ステラだけを連れて家を出ようとしました。身勝手で無責任な男でしょう、でもステラはベルだけは離そうとしなかった。仕方なく父が折れて、ある朝突然、ステラと父とベルは姿を消したんです。父も僕なんか気にもとめていなかったし、あのステラは当然血の繋がっていない僕が邪魔なので散々な目に遭わせた。ですから、家にアンリと二人だけ残されたことに気がついた日には物凄く嬉しかった。冷遇されていたアンリも、全く悲しんでいなかった。いや、理解していなかっただけでしょうけど」
「酷いわね」
「それでも僕とアンリの祖父のマイクが、そのあとの僕たちを養ってくれました。彼は浮気性な放蕩息子に呆れ返っていたので。彼のお陰で僕もアンリも恵まれた生活が出来、学校にも行けました。でも庶子の僕や捨て子のアンリは王家の面汚しでしたから、宮廷衛士になることで身分を誤魔化すことにしたんです。確かに辛かったけれど、僕よりも恵まれず苦しい思いをしているひとは沢山いますからね。母は父に殺されたようなものだけれど、祖父に助けてもらえただけましです。もう父のことは忘れてしまおうかと思いました」
セシルらしい、とクリスティーナは思う。私なら、大好きな唯一の肉親を殺した奴を忘れられるだろうか?恐らく無理だ。現に自分はそれを根底に、父を殺そうとしている。
「あなたは自分達を苦しめた相手に復讐するだけの実力も勇気も行動力もあります。僕には出来ないことです」
「そんな綺麗な話じゃないわ」
セシルは俯いて暫く唇を噛んでいたが、ふと、何か思い浮かべたように顔を上げた。
「一つ引っ掛っていたんですが、そもそもそのクレマチス派が、ジョリーを次の王に立てることを主張したのは何故ですか?四百年前のシャマランの革命は有名ですし、過ちを二度繰り返さないために王が魔力を持ちつづけるのは当然です。ジョリーを立てるメリットが無いと思うのですが」
「幼い頃は単純に、お祖父様とクレマチスは敵対していたから、クレマチス派はそのお祖父様が推すドミニクを王にしたくないんだ、とだけ教えられたわ。けれどお祖父様は亡くなったし、私はジョリーに引き取られたけれど、何故クレマチス派がジョリーを王にしたがったのか、元々どうしてジョリーとドミニクで派閥が割れたのかについては、ジョリーたちも禁忌のように何も教えてこなかった。知らないで済ませるには重すぎる話だし、それでもこれには私なりの解釈しか出来ない。クレマチスは狡猾だけれど愚かではなかったし、お祖父様と渡り合う実力もあった。その彼女が覆轍を踏むリスクを冒してまでジョリーを王に推したということは、クレマチスはジョリーが生まれる前から魔法政治に反対してお祖父様と敵対していた可能性が高いのよ。これに大革命よりもさらに危険な要素が含まれているってことになるのかしらね……さっきも言ったけれど、『このまま魔法政治を続ければ民衆は不幸になる』とクレマチスが主張したらしいと聞いたわ。正直わからないとしか言えないの。私はシャマラン城の文献は殆ど読み尽くしたけれど、私が知りたいところだけすっぽり抜けているのよね」
違和感が解消されないので、セシルも頭を悩ましてしまった。彼の知識は深かったが、隠匿された情報を知る力など無論ない。
「ここまで話すつもりじゃなかったのよ、忘れてちょうだい」とクリスティーナは弁解し、感傷を振り払うようにいきなり椅子から立ち上がった。
セシルはいまいちクリスティーナという人間が掴めずにいる。王家の柵に感情をねじ曲げられ、父への復讐に燃え、自分が善とする目的のためならば、躊躇なく邪魔者を殺す革命軍のリーダー。しかしクリスティーナは、いつでも大衆への想いに溢れている。常に皇女らしく厳格に振る舞おうという気負いを感じない。王家の身分争いに辟易した身としては、その態度はかなり新鮮だった。
「で、私たちはどう出たらいいと思う、セシル?ジョリーたちは味方を増やして力を付けてくるわ」
そんなことまで訊くのか、とセシルは思ったが、再び椅子に腰かけたクリスティーナはただセシルの目に視線を注いでいる―彼は戸惑いながらも口を開いた。
「レイダ側に味方が……特にフローラル国がいる限り、シャマラン側は分が悪いように思います。先程も言いましたが」
「だわね。だけれど、私たちに味方してくれる所があるか」
「ミルノカは永世中立国だから選択肢に入りません。ですが、風散見国はひとまずは中立の立場を表明しました」
「風散見を、なんとかして味方に引き入れたいと思う訳ね」
セシルは控えめに、だがしっかりと頷いた。
「フローラルの兵器の脅威は恐らく上界一でしょうが……そこに対抗できるのが風散見国の兵力だと思えます」
「風散見国といえば絵に描いたような独裁国家ね。それでも一度も大きな蜂起を起こしたことのないっていう。国主は十六になる箱入りのお姫様って聞いたけど」
「あの国を実質的に治めているのは彼女専属の小姓ですよ」
「梅ヶ崎梅吉」
風散見国の政治事情はたまに耳に挟む。その度に聞く名前だ。実際の国主である梅ヶ崎梅子内親王の政治を肩代わりしている十七の青年だが、ほぼ彼が国を治めていると言っても過言ではない。
「彼の出生も身分も謎に満ちています。ですが物凄い政治手腕をお持ちです。大国をいとも簡単に治め、あの若さで強国を造り上げた」
「おっそろしい十七歳ね。中立を保てるだけの自信も、そりゃあ有るでしょうよ。私が説得してみない手も無いけれどね」
「味方に付いて貰えればかなり心強い相手でしょう。ただ、説得するのは難しい筈です」
「でしょうね。少なくとも使いの者じゃ絶対に無理だわ。私がひとっ走りしてこようかしら」
セシルの目が不安げに曇る。
「いい手だとは思いますが、僕の意見なんかでいいんですか。あなたが風散見にいる間、空っぽのシャマランを誰が治めます?あなたの妹姫たちですか?」
「そこは気にしないで。私はあっという間に帰ってくる予定だけど、もしものときには、いい伏兵がいるのよ、うちにはね。もっとも、いろんな意味で隠れているんだけれど」
虚をつかれた顔を見せるセシル。
「どういう意味で?」
「アズレ、私と歳の同じ少年が、民衆の中に混じっている。彼は民衆たちを、私よりも先に纏め上げて革命を計画していた敏腕の持ち主よ。だけれど、私が協力するということを示してから今まで、彼は姿を消してどこかに隠れている。影ながらに私を見ているはずよ」
「なるほど。あなたが信用できるかできないかを、民衆の立場から見ているってことですか」
「鋭いわね。恐らくその通りじゃないかと私も踏んでいるわ。彼、まだ幼いこっくりの前には姿を現すけれど、私の前には警戒しているのか現れないわ。その彼に、私のいない間、城を任せたい。民衆たちからの信頼はとても篤いし、彼自身の革命への思いも格別よ」
「ですが彼は今隠れているんですよね。彼に任せることをいつ伝えるんですか」
クリスティーナは顎に手をやって、何か企むようにほくそ笑んだ。
「いや、彼ならきっと、私がいざ居なくなれば出てくるわ。私のやり方には干渉してこないけれど、国を少しでも危殆に晒すことだけは嫌がる筈よ。あなたには、その彼が出てきて民衆たちを纏め始めたとき、そのやり方をしっかり見ていてほしいの。この国を、彼ならどう治めるつもりか」
当然のように穏やかに語るクリスティーナを見て、セシルは絶妙な違和感を覚える。ということはつまり―アズレは密かにクリスティーナを監視しているとして―クリスティーナも密かにアズレを監視するつもりだと言いたいのか。相手がいないからと、妙な動きを、尻尾を見せないか。別に二人は、お互いが信頼できるから共に革命を起こした訳ではない。単に目標が一致しただけで、それでも指導者は二人もいらないから、どちらかが手を引いて密かに監視する構図が生まれている。そしてその監視役に、クリスティーナの代わりに駆り出されたのが、セシルだというわけだ―だがそもそも、信頼できないからと隠れ合うことがこの先に道を開くとは思えない。お互いの不信が高まるだけだ。その上何故、ここへ来て間もないセシルを、ともに闘う同志すら疑うクリスティーナが使おうとする?セシルはあくまで、「レイダ軍にいた一介の民衆」、ただの情報提供者でしかない筈だ。こんな重要な役目を与える筈がない。
「僕がですか?何故です」
「あなたは鋭いし、分析能力に長けているからよ。何も聞かないで言う通りにしてちょうだい」
セシルは、何故シャマランの民衆ではなく、レイダ人捕虜にそんな役目を任せるのかが聞きたかったのだ。だが二度も言及する勇気は出なかった。或いは、クリスティーナが答えをはぐらかしたのか。
「そのアズレの存在は、他国には」
「アズレのことは、まだお父様たちは知らない。革命勢力の頭は私のみだと思っているわ。まぁ、私がシャマランを留守にすることは無論、他国に漏れないように充分注意するし、一日もかからない計算だから目を付けられはしないはずだけれど……今後私が長く国を空けるときがあってそれが敵国にばれたら、チャンスとばかりに攻めてくる。そんなときにアズレがリーダーだとばれたら、彼の命も狙われるわ。今は伏兵でいてもらうべきね」
向かいに座ったクリスティーナはそっと、膝に置いていた真っ白な左手をセシルの目の前に掲げた。そこから緩やかに仄青い煙が立ち上っている。彼は驚いて背凭れに仰け反った。
「そんなに怯えないでちょうだい。もし何かあった時の為に、あなたと私を結びつけておく便利な力を授けておくわ」
精神感応は、能力を持つものがその力を共有したいと思った相手と、或いは力を使える者同士が合意の上で操る魔力である。発信することで自分の位置を知らせたり、相手と脳内で交信することもできる。それを彼女は、セシルに与えようとしていた。
「私はテレパシーで妹たちと交信することができるわ。ただし親たちとは交信していない。必要がなかったんだもの。まぁ、もししろと言われても、私が断ったわ」
「そんなこともできるんですか」
「あなたと私には必要よ。このテレパシーは脳内で交信されるから、ハッキングされる恐れがない。例えばフローラルは、無線での交信をハッキングする技術を持つらしい……ああ、これは何かの本に書いてあったわ。だけれど、そういったものを恐れる必要がなくなる。どうしても洩らせない重要な話は、これで行うといい。少し痛むわよ」
クリスティーナは躊躇わずに指先をセシルの額に当てる。低く呪を唱えたところで、セシルの体に軽い電撃が走った。脳から刹那に血の気が引いたが、意識が朦朧としたのはその一瞬だけだった。すぐに戻ってきた視覚の中で、クリスティーナが安堵の表情を浮かべている。
「悪いわね。でもこれで、魔力を共有できたわ」
「僕からでもできるんですか」
「心を沈めて、強く念じながら私に話しかけてみるだけね。ただし魔力は体力を消費する。テレパシーはあまり体力を使わないけれど、必要な時だけにするに越したことはないわ」
頼もしく微笑むクリスティーナを、セシルは半信半疑な目で見上げた。
「わかりました。有難く使います」