襲撃Ⅰ
西側の関所に駐屯していた部隊に、突如伝令が下った。
「国王様からの御呼びだ。至急レイダ城に帰還するぞ!」
退屈そうに屯していた隊士たちはのろのろと立ち上がって、同様の伝令を次々と飛ばしていく。飛び交う声に、関所の入り口に横付けされた荷車の上で、帳簿を付けていたセシルは顔を上げた。
「少佐の声……?」
隣国で勃発した革命の影響で、レイダ中の手形が発給停止するという前代未聞のこの事態―国境警備と物資供給をする僅かな車の検閲に当たる作業を、彼らは担っていた。セシルは、フォウル少佐の部隊に配属されている、弱冠二十二歳にして作戦を担当する若者である。レイダ王国といえば平穏無事で何事もないのが常だったから、このような状況は文字通り始めてだった。彼としては、どうか革命に巻き込まれませんようにと神に祈るのみである。
「兄さん」
誰かが背後から肩を突っついてきた―振り向くと、セシルに向かって人懐っこい笑みを浮かべてくる。
「すげえ悲壮な顔になってるよ。少佐が城に帰るってさ!」
「ああ。すぐ準備する」
弟のアンリとは、幼い頃からずっと一緒だった。二人はレイダ王家の血を引く名門の貴族である。幼少期に跡継ぎ争いの居座古座に巻き込まれて以来、祖父に匿われて暮らしているのだ。結局、宮廷衛士として本来の身分を誤魔化すことで何とか楽に生きてきた。セシルにせよアンリにせよ、王家内での権力争いに大して興味が無かったのだ。
「いきなり召集が下ったって、理由はなんだ」
「んーさあね。オレもよくわかんない」
隊員全員が乗り込んだ大型馬車に揺られつつ、走り去る外の風景を眺める。豊かではないが平和な町並み。娘と民衆たちに襲撃され、逃げてきたシャマランの国王は、今このレイダの城で匿われているようである。シャマランについては、シャマランの国王と仲の良いシャンビルを介して、レイダ国内に情報がもたらされる。レイダは大衆伝達が発展していないので、国内の情報伝達だけで精一杯だった。最近は旅行者にも規制が入り、国王直々による情報開示から、国民は国外の情報を得るしかない。それによると、高度な医術を持つはずのシャマランで、何故か得体の知れない疫病が流行っているということしか聞いていない。シャマランは魔力を持つ国王が結界を張って国を護る。革命を起こして、王政を倒すつもりだとしたら民衆たちは無謀すぎる。以前まで魔力で治められていた国を、あまりにいきなり無防備な状態に晒すことになるのだ。だが、疫病が流行っている、それだけでは革命を起こす理由などにはなり得ないだろう。考えられるのは、シャンビルがシャマランの情報を隠匿している可能性だ。最近のシャンビルがシャマランについてあまり語らないことから、隣国の具合が微妙なことは勘で解る。ジョリーが、何かしら暴政を行ったのだろう。娘に革命を起こされるとは、一体如何程の―?
「おとなりのお姫さま達がお父さん追い出したんでしょ?んでもって、お父さんたちはレイダ城に逃げてきたんだっけ」
隣のアンリはずっと、絡まったらしい癖のある茶色い髪を弄っている。そのまま、軽い口調で喋り続けていた。宮廷衛士らしからぬ喋り方だが、どんなに努力しても直せなかったらしい。
「まあ、要はそうだな」
「お姫さま達か。いいなあ。うちのパトリシアちゃんみたいに、あっちも可愛いって噂で聞いたよ。見たいなー」
「足バタバタやめろ」
アンリの困ったところといえば、十九にしてその学力の低さと異常な女狂いである。だが抜群の対人能力と明るさで、覇気にもやる気にも欠けるセシルのコミュニケーションを手伝い、二人で何とか上手くやってきた。
「まあでも、この隊だけをお呼びってことは交渉重視か、或いは作戦重視の計画立ての任務だろうな」
「そうだよね。戦わせたりなんかしたら兄さん死んじゃうしさ。でもなんだか、重大任務な予感がするなあ」
「シャンビル国王様、只今帰還致しました」
膝をつくフォウル少佐に続いて、他の隊員も傳いた。シャンビルは労うように口許を綻ばせる。その目に努力して抑え込んでいるような焦燥が見え隠れするのを、セシルはちらと見た。
「早かったな。何か問題はあったか?」
「いいえ。怪しい者も見受けられませんでした」
報せに満足げに頷いてから、シャンビルは大きく声を張った。
「新しい任務を下す。お前たちの部隊でシャマラン帝国に入国し、誘拐されたパトリシアを奪還せよ」
「誘拐された」
驚きが走るのも当然だ。混乱を防ぐために、パトリシアが誘拐されたことは四人の間で伏せてあったのだから。セシルだけは、素早く広間に目を走らせる。広々とした室内で、シャンビルの後ろに置かれたテーブルについて、此方を眺めている男と目があった。予想していたよりも遥かに若いことに先ず驚く。快活で情熱的な雰囲気のシャンビルとは対照的な、高貴な落ち着いた佇まいである。少しくすんだ金色の髪に、淡い翡翠色の瞳、なにより印象的だったのが、無機質且つ物憂げな目許―彼がシャマランの国王であったのだと、すぐにぴんときた。セシルは宮廷衛士と言えど、隣国の国王であるジョリーを間近で見たことはない。噂にも聞くジョリーの内向的な性格から、シャンビルが自分と妻以外とは殆ど面会させなかった。
「パトリシア様が? シャマランに」
「ああ。シャマランの三姉妹の仕業だ。パトリシアが失踪し、更に先程遅れて、クリスティーナからパトリシアを預かっている旨の書簡が届いたのだ。そこでお前たちの出番だ。なるべく交渉を有利に進め、人質になっているパトリシアを奪還してほしい。クリスティーナはシャマラン城を占拠し、パトリシアを閉じ込めているだろう。重大任務だ。心してかかれよ」
「了解致しました」
少佐同様に頭を垂れつつ、セシルの心の中には暗雲が垂れ込める。最悪だ。それもこれも、お人好しのシャンビルが、隣国の国王と余りに仲睦まじいせいだ。革命直中のシャマランに乗り込むこと―それは、彼が愛してやまない安寧秩序の崩壊に他ならない。
「ここがシャマラン帝国、話とぜんっぜん違うじゃん」
アンリは灰色の閑散とした建物を掌でぺちぺち叩く。乱暴に扱われて罅割れた壁や、その間に吊るされた朽ち縄、翻る襤褸布、そういったものはシャンビルの話には一度も上がったことがない。シャンビルは隣国のことを考えて不都合を隠蔽するが、今回ばかりは隠しようがないと思ったのだろう。アンリや他の隊員たちは街の荒廃に衝撃を受けている様だが、しかしセシルだけは、シャンビルの不安そうな様子や不自然な語り口から薄々予想がついていた。革命が起きるには、毎度暴虐と欠乏がその根底にある。植物は貧弱な雑草などしか生えていないし、畑などは全く見当たらなかった。シャマランの自給率の低さは上界でも有名な話である。土地が瘦せすぎているのだ。セシルは折り目がついて、縁の磨り減った古い地図を眺めながら答えた。
「そうだな、この辺りが丁度、シャマリャーレへの入り口にあたる」
革命前夜は静まり返り、当日は大鎌を構えた金髪の皇女を先頭にシャマリャーレの民衆三千人余が突き進んだという。その道に立ちながら、荒れ果てた、人のいないボロボロの屋台が細々と立っている様を浮き足立って眺める精鋭たち。もし誰かに会ったなら、挙動で簡単に外国人だとバレてしまうだろう。本当に目をつけられたら、それこそ厄介なので目には緑のコンタクトレンズを入れている。ふと、冷たい風にのって、えも言えぬ生臭い香りがセシルの鼻孔を刺した。胸がむかむかするような不快なこの匂いには覚えがある。死臭だ、と思い当たってセシルの肌が泡立った時、フォウル少佐が大声で後ろの隊員たちに怒鳴った。
「おいお前ら、ウスノロみたいな顔してぼけっとしてんじゃないぞ。シャンビル国王が最近開示した情報いわく、このシャマリャーレは人口の四分の一を伝染病で失っている。この空気にも細菌がウヨウヨいんぞ。もし感染したら、この国の高度な医療を受けない限り、死ぬ」
突如、隊員の一人がわぁと叫んだ。道の端っこに、転がっている屍を見つけたのだ。その姿を見て、隊員たちは―少佐でさえも思わず口許を抑えた。見開かれた黄色く濁った眼球に蝿がたかり、人間の皮膚とは思えぬ紫黒色をした、半裸の、苦しげに歪んだ体の屍体だった。足元をさっと見てみれば、あちこちでちらほらとどす黒い鼠が死んでいる。これが伝染病か。セシルは口を塞いで座り込んだ。アンリが慌てて、セシルを水の湧いている崩れかけた噴水の所へ連れていく。
「兄さん、落ち着いた?」
アンリが心配そうに覗き込んでくる。記憶が定かではないが、どうやら嘔吐したようだ。まだ動悸が収まらない。思い出したらまた吐いてしまいそうだった。アンリが案外気丈なのには驚かされ、それから図太いか無神経辺りに表現を換える。
「で兄さん、お姫さま達は?」
「あそこの城」
セシルのまだ震えている指先に、聳え立つ城の壮大な城郭―尖塔が陽を受けて白々しく煌めいている。少し小高くなったような丘の上に、周囲を分厚そうな城壁で囲んだ鬱屈した外観だ。ようやく落ち着いて、濡れた口許を拭いながら彼は溜め息をついた。
「医療は貧しい一般民衆には行き届いていないのか。この国の医術は上界一なのに」
「兄さーん、難しい顔ばっかしてないで雰囲気楽しもうよ。気楽にさ」
「よく楽しめるな、お前」
最初の攻撃で両親を国外に追い出すことに成功してはいるが、王座は宙に浮いたままだ。その穴に、シャマラン第一皇女のクリスティーナ姫が体よく収まっていると聞いている。結局白黒曖昧なまま時間が流れているのだ。これで終わりな訳がないのは誰の目にも明らかである。そもそも、こんな状態の国が安泰にやっていける筈がない。
「さぁ、兄さん戻ろう。安心して、吐いたヤツは兄さんだけじゃないから。あそこで少佐たちも休憩してるよ」
さっきの出来事ですっかり警戒心の強まった隊員たちに、フォウルは号令をかけた。返事は他の隊員に任せて黙っていたセシルだったが、運悪く少佐と目が合ってしまった。
「セシル、相変わらず覇気の無い顔だな。ここは戦地だぞ」
「はい」
しかしセシルには、少佐に看破された通り、大してこの部隊のために貢献する気があるとは自分でも思えなかった。早めの自前の夕食を取った一行は、フォウル少佐を先頭に目的地に向かって小走りに進む。すでに夕方だが、陽が落ちる前にパトリシアを奪還し、早急にレイダに帰る必要がある。地理に昧い中でシャマランの道を進めば、退路を絶たれる可能性があった。夕陽を受け影を帯びた城の尖角は、近付くほどに荘厳さを増していく。三月の肌寒い突風に身も心も竦みつつ、城の敷地内と思しき小高い坂を登り詰め、門衛の姿ひとつ見当たらぬ城の前門を駆け抜けた―体力の無いセシルには、これだけでもかなり辛かったのだが。声を出すなとの命令を受け、セシルたちは口許を塞いで黙る。とはいえ、城の窓からは丸見え、既に城の敷地内に侵入したことはクリスティーナに把捉されているかもしれなかった。半ば無駄とは知りながら、突然の攻撃に備えられる様に、隊列を組んで臨戦態勢に入るのである。臨戦態勢とは言っても実際のところ、部隊の構成員はほぼ非武装だった―というより、"精鋭"などと名乗ってみるはいいが武器はあっても戦術の心得は殆ど無いメンバーである。戦える訳が無いのは目に見えていた。
フォウル少佐のみが城の玄関―呼び鈴の前に立つ。アンリや他の隊員たちと共に茂みの陰に潜んだセシルは、固唾を飲んでその様子を見守った。数回城の呼び鈴を引いたフォウル少佐は、咄嗟に尻ポケットに手をやって待機の姿勢を取った。その手に銃把が握られているのを見て、セシルは軽く不安を覚える。まさか、誰か出てきた途端に片っ端から撃つつもりじゃないだろうか。兄さん、と声をかけられて振り返ると、手に同じ様に銃を握ったアンリがいた。緊張しているらしくそわそわしているが、戦う準備をしろと促しているのだろう。喋るなと目で咎めて、セシルも銃を構えた―かなり恐る恐るではあるが。扉の内側から、少女の声で返事があった。
「御大層な一行ね。旅路お疲れ様」
幼い。声に驚いたのは、少佐もセシルも同様だった。てっきり厳つい男が城を守っているものだとばかり考えていたのだ。女性であることにまず驚いたが、更にその声はまだ若い少女のもののようである。
「だけれど、随分と待たせてくれたわね」
扉一枚挟み、恐らく拡声器で話しかけてきているのだろう。冷めた、見下すような声。侍女の対応には思えない。いきなりの強腰な態度に早くも戸惑いながらも、フォウル少佐はできるだけ冷静な対応に努めた。
「レイダ王国の勅撰宮廷衛士です。そちらは。クリスティーナ・ライラック王女に話がある。案内してほしいのだが」
「あら。武装して乗り込むのは賢いとは言えないわね。こっちには民衆がごまんと集ってるわ。部外者が武器を持っていると目を付けられるわよ」
「あくまで護身用です。そちらに危害を加える気はない」
「そう? 私にはあなたが銃を握りしめているのが丸分かりなのだけれど。後ろのお仲間さんたちもね」
隠れているセシルの背筋がぞくりとする。見えない蜘蛛に密かに狙われていて、気付かぬ内にその糸に囚われていた哀れな虫のような気分だった。少佐も同様に驚きを顕にしたらしい。
「吃驚したようね。なんでばれているのかわかる? 鍵穴から覗いているからよ。あとは、あなたの格好や表情から推測するだけね」
錯乱させる目的なのか、話の意図が掴めない。フォウル少佐の限界も近い様だった。額に皺を刻み付けながら、眉を潜めて圧し殺した声を出す。
「確かに、我々は武装しています。だが、目的はあくまで交渉だ。今我々が臨戦態勢にあるのは、万一の攻撃に備えた当然の防御だからです」
「別に結構よ、目的はパトリシア?」
「はい。我々はシャンビル国王からも、ジョリー国王様からも、パトリシア姫を奪還するように勅令を戴いている身。あなたの態度からして侍女のはずがない。まさかとは思ったが、クリスティーナ姫ご本人ですか」
悠然とした返答が―この状況を面白がっているような馬鹿にした声が、拡声器で聞こえてきた。
「そう、大正解よ」
閂の外れる様な金属音と共に、古めかしい扉が重々しく開く音が響く。さっと衣擦れる音を耳にし、隠れている隊員たちの間に緊張が張り詰めた。とうとう、あのクリスティーナ姫のお出ましである。
少佐から、予想外の命令が下ったのはその時だ。
「総員、狙撃準備」
一瞬、セシルはぽかんとする。狙撃。危害を加える気はないんじゃなかったのか?
「兄さん、何してんの」
アンリに強く腕を引っ張られて、よろめきながら少佐の後ろの隊列に与した。突然の命令の為随分と雑な連携である。だが見れば、回りは皆玄関に向かって銃を構えていた。いよいよ訳が分からなくなった。
「アンリ、狙撃って」
「オレにもわかんないって」
少佐は恐怖を前に錯乱したのだ。ここで危害を加えれば、パトリシアを奪還するどころか彼女も自分達も殺されるかもしれない。アンリの方も人に銃を向けるなど初めてである。不馴れな隊員たちの動揺は無論、従容と現れ対峙するクリスティーナには伝わっている筈だった。
「あら、危害を加える気はないんじゃなかったの」
クリスティーナはセシルと全く同様の感想を述べた。
初めてまともに目にする隣国の皇女は長い金髪に碧眼で、飾り気の無い服を纏っていた。顔だちは充分十五の少女と言えよう。確かに噂に違わぬ風貌をしているが―だが彼女は、異様に感情の読めない表情を湛えていた。クリスティーナの方は今一釈然としない様子で首を傾げる。全く焦りも恐れもしていないらしいことに、セシルはまず驚いた。
「クリスティーナ姫で間違い無いな。パトリシア姫を奪還するように勅令を受けている。貴女のお父様も合意の上の決定だ」
冷たく言い放つ少佐の前で、クリスティーナは気難しい顔で腕を組んだ。
「あらそう。けれど野蛮な真似はよしなさいよ。戦うのは苦手なんでしょう。一応は交渉に来たんだったらパトリシアのためにもそれらしくしたらどうかしら?話くらいは聞くわよ」
「先に手を出してきたのはそちらだろう。今すぐにパトリシア姫を返して頂きたい。大人しく返して頂けない限り、貴女の命は保証しない」
クリスティーナを恐れていながら、武器と数を盾に、助かるかもしれないと過信している。上司の慢心をセシルは敏感に感じ取った。クリスティーナが甘くはないことくらい、彼女の両親が受けた仕打ちを見れば明白。だがアンリは、
「ねえ兄さん。なんかクリスティーナちゃんが可哀想だよ、あのポンコツに止めるように言った方がいいかな」
「は?」
思わず脇のアンリの顔をまじまじと見詰めた。何を言い出すかと思えばアンリの奴、少佐も迂愚だがこいつも相当のポンコツだ。見掛けに騙され過ぎじゃないか? 外見は少女でも、彼女の中身は恐ろしい白魔術師ブランカなのに。
「止めるようにも何も、俺達で彼女を殺せる訳無いだろ。油断したら本当に死ぬぞ」
目の端にふっと、不気味な視線を感じたのはその刹那だった。
「あら、そこの眼鏡君、中々の審美眼をお持ちね」
思わずセシルの体が跳ね上がる。まさか、聞かれていた?この距離で?おっかなびっくり見返すと、クリスティーナは貼り付けたような薄笑いを浮かべてセシルを注視していた。間違いない。
「皆人を見る目が無いわね。初見で大概の人は甘く見るんだけど。例えばそこのあなたとか」
クリスティーナが指差して示した。矛先はセシルを少し離れ、隣のアンリに向いている。
「こんにちはアホ毛君。お名前は。全部聞こえていたけれど、若気の至りってことで赦してあげるわよ」
「ひッ」
かく言いつつも自分より若い相手を前に、声にならない悲鳴を上げるアンリ。俯いたセシルも青褪める。特に理由は無い。只言いようもなく恐ろしかったのだ。とんでもない皇女を敵に回したものである。歳に似合わぬ異様な威圧感と、油断しているようで寸分の隙もないこの態度。誰しもが、銃を構えていながらに、クリスティーナを撃ち抜ける自信を持ち合わせていなかった。一方、場の空気に間違いなく圧倒されているフォウル少佐だが、後に引く訳にもいかなかった。半ば自棄になりながら左手を掲げ卸す。
「奴に構うな、錯乱だ、生け捕れ!一刻も早くパトリシア姫を奪還するぞ、迷っている暇はない、妹まで増援に来たら勝ち目はないぞ」
クリスティーナはやんわりと笑顔を作る。しかしセシルはその笑顔に恐怖しか覚えない。身体が硬くなるのを感じる。
「ヒステリックにならないでちょうだい。誰がこんな危なっかしい戦場に妹なんか連れてくるって言うのかしら。私一人であなたたちなんか充分手に負えるわ」
言うなり、クリスティーナは強く両手を打ち鳴らす―突如場に闇が降り、クリスティーナを囲むように強い光が炸裂した。同時に強風に煽られて視界が完全に烟る。
「白魔術」
思わず呟いたセシル。途端にアンリから叱咤の声が飛んできた。
「ぼけっとしてると怪我するよ。どうせ何も見えないんだから顔伏せて頭カバーしないと」
珍しく正論を言われたのでそれに従う。理解しがたい事態に直面したときに呆けてしまうのはセシルの良くない癖だった。
「さて、これは殺してもいいのかしら。あなた方は私を殺してパトリシアを取り返す手に出たのよね、でもこのままじゃ鼬ごっこだと思わない?折角手に入れたパトリシアを易々と返す訳ないでしょう」
顔を伏せながらも視界が遮られる不安に、僅かな隙間か正面を盗み見る。無数の呻き声と暴風の中、喋るクリスティーナは左手に火の玉を揺らめかせていた。緑の硝子のような目に強く橙色が煌めいている。始めて目にする魔術である。
「じゃあ、まずはあなたから」
見なくてもわかる。最初に、無謀な司令塔であるフォウル少佐を殺すつもりなのだろう。自分自身の死と先程の屍体が交互に脳内を掠めて、セシルは震えが止まらなくなった。顔に荒れ狂う砂嵐が直撃する。喉の奥で細い息をしつつ、熾烈な嵐にひっくり返されて再び地面に這いつくばったセシルは冷たい石段にぶつかった。声を上げることも出来ないほどに腹の辺りが痛む。眼がぐらぐらと眩む。砂嵐はいつの間に止んだか、脳の奥で次第に喧騒が聞こえてきた。大勢の民衆たちの声だろうか。
「あなたたち、この人たちを下に閉じ込めておいてくれないかしら。あぁ、勿論この二人だけよ。ごめんなさいね、私はまだ仕事が残ってて」
クリスティーナの声が―しかし先程とは打って変わった柔らかな声である。潮が引くように遠退いて朦朧とする意識下でそれが聞こえてくる。少佐は死んだのだろうか。アンリは生きているだろうか?
「兄さん、兄さん」と呼びながら、肩を掴んで、誰かが揺さぶってきた。これはアンリだ。
「兄さん、もしかして死んだ? 待ってよ、オレ一人でどうにかしろって言うの? あぁ、どうしよ」
セシルは薄く目を開いてずるずると半身を起こす。知覚が全て戻ってきた。左肘をついた地面は物凄く冷たく、身体は左肘以外は痛くて動かせない。流れ込んでくる冷気に身震いする。アンリは嬉しそうな声を上げた。
「兄さん!うわ、ひっどい顔、大丈夫?」
確かに口の中に鉄や泥の味がする。切れた唇や頬から血が出ているのだろう。仕方なく肩の布で拭うと、首の骨から異様な音がした。アンリを見ると、彼の方も大概な酷い顔をしている。裸足で、痛々しい大痣が額にできているが、しかしアンリの表情は明るい。
「良かった。オレ一人だけ生き残ったりしたらどうなることかと思った。兄さん眼鏡吹き飛んだっぽいね。見えてる?」
「あまり見えない。他の皆は」
セシルは頭を降ってあたりを見回した。木製の格子が填められた中に、自分達がいる―牢獄だ。闇のなか、少し遠くに赤い火が灯っていて、扉のあたりに看守らしき人影が見えた。嫌な予感が当たったか、セシルとアンリ以外の隊員たちの姿は見えない。それから、自分達が死んでいないことに初めて驚いた。
突如、立て付けの悪い扉が開かれる不気味な音が響く。遠くの赤い灯にぼんやり照らされて、人影が看守と何か会話している。少女の、背中まで広がる金髪が見える。セシルは思わず手で口を抑えて身をすくませた。
「クリスティーナ姫」
砂でざらざらする喉から掠れた声が出る。アンリは心配そうに首を伸ばしてクリスティーナの方を眺めている。真っ赤な肩掛けを羽織ったクリスティーナが、つかつかと此方に歩いてきた。彼女の歩く脇にも沢山の牢屋があり、その一つにセシルたちが収監されているようだった。奥まった所にある二人の牢屋の前に着くと、ゆっくり屈んで除き込み、クリスティーナはふっと口許を緩ませる。底まで抜けるような無機質な瞳の色に変わりはない。
「今晩はお二人さん。痛々しいわね」
セシルは何も言えずにただクリスティーナを見上げる。彼女は背筋を伸ばして辺りを見回した。彼は息を詰めて、次のクリスティーナの言葉を待つ。
「ここに、少し前まで、女の子がいたのよね。私の一番下の妹くらいの歳の、まだ小さな子よ。その子は私たちが革命を起こす前日に、ジョリーによって串殺刑に処されたわ。何か食べるものをと木の実を探していて、裏の崩れた塀からシャマラン城の敷地内に入ったの。そこで私の家臣たちに見つかったわ。泥棒として、この牢屋に入れられた。蟻の穴から堤も崩れるってね」
やはり、とセシルは考える。いかなる状況下でもセシルはまず思考した。罪のない多くの人を不条理に処刑するような政治は、シャンビルが時折心配していたように、精神的に追い詰められていたジョリーの内面が顕著に現れている。シャンビルが無理矢理隠匿したシャマランの裏側を、今クリスティーナは包み隠さずに話している。彼女はセシルたちの方へくるりと向き直った。
「あなた方だけを捕まえたの。私はレイダの情報が欲しいだけ。あなた方が私に情報をもたらしてくれたら、悪いようにはしない。ここからも出して、名目上は民衆の一員として、実際にはレイダからの捕虜として、共に革命に参加してくれるというのなら、命は助けるわ」
全くもって選択の余地のない条件を提示してきた。セシルにもアンリにも、レイダ宮廷への忠誠心など毛ほども存在しない。ただ気になるのは、クリスティーナの心の内だが。
「何故、僕たちだけを」
「全員はいらないわ。残りは悪いけど殺したわ。あなたは賢そうだから捕まえたし、たまたまあなたの連れだったそっちの子はおまけよ。あなたが死んだら代用する。使えなさそうだけれどね」
歯に衣着せぬ切り捨てた返答である。先程の感覚を思い出して、セシルの全身が総毛立った。今の台詞は本気か、ポーズか、それすらも諮れないほどに無感情な言いようだ。独裁者の娘と言うのも頷ける気がする。
「あなた方が妙な動きを見せたら、民衆たちはすぐに殺しにくるわ。他の民衆たちはレイダからの捕虜であるあなた方を冷遇する筈よ。それでも、心の底からレイダに対抗できる覚悟があるならこちらに付いて。乱暴でご免なさいね。ならば今日からあなた方はレイダの一衛士という立場を捨てなくてはいけない。シャマランの民衆の一人になるのよ」
セシルの中で、どろどろと恐怖が沸き上がってきた。普段は煩いアンリは只ならぬ空気に何も口にしない。判断はセシルに任せるということだろう。だが、相談するまでもなく、選ぶ道は一つだった。
クリスティーナが格子の隙間から差し入れてきた掌に、セシルは痛む右の腕を伸ばした。握り返した自分の掌は、未だ小刻みに震えている。私が怖いかしら、とクリスティーナは、今度は本当に優しげに微笑んだ。
「安心して。私はあなた方を歓迎するわ。今から、味方だもの」
クリスティーナは二人を牢屋から出し、壁の杭に掛けてあったランプにふっと息を吹き掛けて炎を灯した。魔力なのだろうが、間近で見ると手品でも見ているようだ。いや、悪い夢の方が近いか。例の扉を開けた先は只管灰色の石の階段が続いている。地下奥深くにこの牢獄があるのだ。
「私はさっきまで民衆たちへの配給作業で負われていたわ。でもあなた方だけはどんなに忙しくても私が対処したかった。あなた方が来ることはこちらの狙いでもあったし、どんなものか私が見ておきたかったのよ。ところで、傷は痛むかしら。昇れる?」
クリスティーナは比較的急な階段を足取り軽く昇っていく。彼女が後ろを振り向いて尋ねてくると、早速警戒心が薄れているらしいアンリは友達と話すような口を利いた。
「オレは平気だけど、兄さん体力ないからなあ。脚が痛そうだけど」
「大丈夫、昇れる」
とは言いつつも、漸く一階に着く頃には息はすっかり上がっていて足元がふらふらした。クリスティーナは、少佐や他の隊員たちには殺して、予め狙いをつけていた二人は骨一本折らずに生かしておいた。彼女が彼らを殺したのは、逆らった場合の見せしめなのだろうし、セシルたちを民衆と同等に扱うと言いつつ、裏切られる可能性を心配しているあたり全く信用してはいないのだろう。やはりアンリのように彼女を恐れないのは不可能なように思える。しかし大人しくしていれば手を出さないという。クリスティーナはその場でアンリを解放し、城のどこへでも好きなところへ行ってよいと言った。セシルはアンリに目線で念を押した。ここで妙なことをしたら、クリスティーナは情報を得次第さっさと自分たちを殺しに来るだろう。今度は彼女はセシルを、会議室まで導いた。その間、すれ違った民衆たちに白い眼を浴びせられ続けたことは言うまでもない。なんて排他的な目付きだろう。ジョリーと繋がっていたレイダは、彼らにとっては完全に敵国扱いなのだ。城の中は外とは一転して質のよい大理石や布で装飾が為されていて、レイダ城と大差無い閉塞的な城の端のほうに、その部屋があった。
「あの牢屋の格子は元々鉄製だったの。牢屋の柵すら取り壊さなきゃいけないくらい、国内の物資が不足したのに、それでもジョリーは、皆兵制に基づいた徴兵をどうしてもしたがった。なんでだと思う?」
「そもそも皆兵制だったんですか」
クリスティーナは驚いてセシルを見詰め、
「シャンビル国王から聞いてないの?他の国は知らないにしても、彼だけにはジョリーも色々相談していると思っていたのだけれど」
セシルは苦く微笑んだ。
「彼は情報隠匿の鬼ですからね。フローラルからの侵攻を恐れてですか?」
答えを期待した質問のつもりではなかったのだろう。直ぐに答えたセシルに、クリスティーナは表情を変えずに「流石ね」と呟いた。
「フローラルは隣国を除いて鎖国しているけれども、"帝国"と名乗るように、あの国は将来的な他国侵略を名乗り、ミルノカの憲章軍に厳重注意を受けている。フローラルが国土を広げるために他国への侵攻を計画している噂は上界中に漫然と流布しているわ。実際、戦争中でもないのに勝手に他国の領土を侵すことは上界憲章に触れるからミルノカを敵に回すことになるけど、フローラルはミルノカともう一つ弱小国の軍隊くらい捌く心意気でしょうね」
「いや、でもそういえば、シャマラン帝国は国主が魔力で結界を張って軍事侵攻が行えない仕組みになっていると」
クリスティーナはちょっと微笑んで右手でセシルを制した。
「その内説明するわ、今は聞いて。その時対象にされる可能性が一番高いのがこのシャマラン・レイダの二国家よ。ジョリーはシャンビル国王と仲が良いから、自国と、とくに弱いレイダを守るためにも軍隊を強くしておきたかった。だけれど、確実に攻めてくる確証もないのに延々と訓練を続けて国庫の底をつくなんて本末転倒。実際、疫病の治療だとか、そういった方向へお金をつぎ込めなくなったわ。まるで子供のように、限度を知らないのよ」
セシルは言いつけ通り黙ってクリスティーナの話を聞いていた。感情が高ぶらないように低い声で喋っているのだろう。革命を起こした動機などは、話から聞く限り自らの安泰や欲望しか顧みない父王への復讐で間違いなさそうだ。あくまで民衆のためであって、間違っても王座を強奪したかったからではない。だとすれば、彼女は決して悪ではない。だが、クリスティーナが、民衆とは隔絶された空間で豊かに平和に暮らしてきたことは間違いがないのだ。見るからに損得勘定で動くクリスティーナが、「虐げられた民衆に同情して」なんて感情的な理由のみで自らの安寧を捨てるだろうか。寧ろクリスティーナには、それ以外にも、親を憎む動機があったのではないだろうか。同時にセシルには、他国に対して疑心暗鬼になりがちなジョリーの気持ちも容易に想像がついた。彼は躊躇いながら慎重に口を開く。
「フローラル国主のフランチェスカ女王の後先考えない強行は有名な話ですからね。そのことなんですが、レイダは今朝、上界数ヵ国と手を組みましたが、ご存知ですか」
無論クリスティーナは初耳だ。どういうこと、と眉を曇らせる。
「レイダ国主であるシャンビル国王は、あなたの父上との会談で上界各国と同盟を組む決定を行いました。全土に渡って詔書を発行したところ、うち数ヵ国が味方に付くとの返信が来て、風散見国とミルノカ王国、あとはここシャマラン以外は全てが味方に付くようです。つまりフローラルも敵に回っていて、おそらくフローラルは、仮にこちらに勝利した場合ジョリー国王に領土を割譲させるつもりだと思います。そうしないと兵力で見れば弱小なあちら側に味方する利点がない。逆にあなたに味方しなかったのは、あなたが勝利したときにシャマランの持つ魔力が異様に強大になりますから、フローラルの弱小化を懸念してのことだそうです。シャマランの次期跡継ぎクリスティーナ姫の強い魔力は、生前のジョセフ国王が誇って上界にふれまわっていましたから他国でも有名です。フローラルは、自国の力の強大化を望んでいます」
「なるほどね。三月革命を、宣言通り六国を征服する為の踏み台にしようと。ひどい冒涜行為だわね」
クリスティーナも一応は危惧していた事態だ。だが、打開策を考えてはいない。予定としては、レイダに攻めいられないようにパトリシアを人質にとって身を守りながら、レイダ側が寄越してくるパトリシア奪還軍と交渉してジョリーの命と引き換えるつもりだったのだが―相手方はクリスティーナを最初から殺すつもりで、交渉する気持ちを失っていた。しかしどのみち、今回のセシルたちのようにレイダ単体で負けたとわかれば、今度はフローラルあたりの軍隊も付け加えてパトリシア奪還に、そしてクリスティーナを殺しに再び攻めてくるだけである。下手に挑発してはこちらの立場も危うくなりかねなかった。
「今となっては攻めてくるのを待っているだけでは負けるわ。私たちも攻めないと。但しパトリシアは返さないわ。相手を前に怯んだと思われては向こうの士気が上がるだけよ」
苦々しい声で呟くクリスティーナ。セシルはため息をつく。
「その通りですね。ですが相手方にフローラルがいるとなると、こちらの兵力も強化しないと危ない橋を渡ることになります。そういえばアンリは、怖い思いをして疲れたから寝ると言ってました」
昼間の態度を見る限り、そんな柔な精神力じゃ無いだろうと彼は胸中で突っ込んでいる。クリスティーナは微笑ましそうな顔をした。
「あのアンリって子はあなたとは正反対と見えるわね」
「アンリは社交的なので。頭は悪いですが、この隊の趣旨ならばある意味、精鋭エリートでしたよ」
クリスティーナ暫く黙っていた。それから、誰に言うでも無いように小さく「ごめんなさいね」と呟いた。何を言っているのかはすぐに分かったが、セシルは―少佐や仲間を失った悲しみなど少しも感じていないことを初めて自覚した。嘆くべきことかはわからないが、無理にこちら側に寝返らされた屈辱も、シャンビルを裏切った罪悪感も、不思議なくらいに微塵も存在していないのだ。
「セシル、今から、詳しくジョリーの話をするわ。あいつの悪政についてよくわかるでしょうよ。シャンビル国王から、あいつについて何を聞いた?」
「凄く繊細で、自分に厳格で、それでも、民衆思いで意思の固い方だと聞きました」
クリスティーナはセシルの予想通り、からからと冷笑する。セシルは俯いて、ひたすらに黙って言葉を待っていた。だいたいどんな話かは予想がついている。クリスティーナは、堰を切ったように吐き出した。