パトリシア
城からレイダ王国の方角へ続く道に一筋、泥をあたりの草地に撥ね飛ばしたような馬車の轍が残っている。それを追いかけて一人、手形を忍ばせたパティフィリーナは馬を走らせていた。結局、城の中に国王との近臣の影も形も無いことから、彼等は亡命したという見解で纏まった。クリスティーナはすぐに追っ手を出したのだ。
「お父様たちを追いかけるのはあなたに頼むわ。いずれにせよ、逃げたのは遅くとも夜明け、既にレイダに入国している可能性も充分にある。手形なしでレイダを通行できるのは私たちだけだし、ひとまずぱっちりだけで隠密にお父様たちを追いかけて欲しい。やってほしいことがあるの」
パティフィリーナは首を傾げ、
「お姉さまがやらなくて大丈夫なのか?」
「私は暫定政府を立てて民衆を纏める必要があるのよ。いま王座は空だものね」
「成程、仮王朝か。お姉さまが王になるんだな」
「名前だけよ。あのとき殺せればよかったのだけれど、ジョリーが未だ王として生きて冠を被っている限り、戴冠式は行えない。だからこそ早く奪わないと」
クリスティーナは左手をまじまじと眺めて、ぎゅっと握り締める。事実、この民衆を纏めることができるのはクリスティーナのみである。妹たちには荷が重すぎる役目だった。
「出来るだけ隠密に頼みたいのよ。あなた一人では嫌かしら?」
「構わん。私一人で行ける」
「じゃあ、よく聞いて。従姉妹のパトリシアを、今日中にシャマランに誘拐するのよ」
「パトリシアを?」
「そう、パトリシア」と彼女は復唱しながら、「レイダに逃げ込まれたとなると、レイダ軍隊がジョリーに味方する。ジョリーとその仲間たちくらいなら私達でどうにかできたけれど、隣国のちゃんとした軍隊まで関わってくると敵の兵力が未だ測れない。だから攻めいられないように盾として、彼女を人質に取りたい。それに彼女の使い道は他にもあるわ」
かつて一度パトリシアが人質としてシャマランにやってきた、その理由も、今こうして誘拐しようとしている理由と大差ない。そのパトリシアを、またも利用してしまうことを申し訳なく思いながら―しかしクリスティーナもパティフィリーナも、同情してそれだけだった。姉から借りた駿馬のジョセフィーヌ、泥濘んだ道に、それを無理矢理走らせる。シャマランの民衆たちは馬を持たないからこれは唯一の長距離移動手段だった。徒では時間がかかりすぎる距離である。三時間も走ると、石畳の地面と立派な家々が立ち並ぶ地域に踏入り、パール街を横切っていることがわかった。シャマラン西部の都市は比較的豊かな中流民衆が住んでいたが、パール街はシャマランの中の最富裕層―貴族が住む都市で、シャマリャーレとはほぼ隔絶されている。そこに立つ帝国医学校の横も通りすぎた。シャマランの経済の根幹を占める優れた医療研究の中心で、医師は全てここから輩出される、そんな名門学校である。ただし学費は高く、ここに通えるのは貴族の子息だけである。外から内部は見えないように、分厚い城壁のようなもので周りを囲まれている。関係者が逃げ出したことで、今は門は施錠されて日陰に暗く沈んでいた。立ち並ぶ貴族の家々には、誰かが生活している様子もない。以前民衆に襲われたらしい家々の硝子窓が、割れたまま放置されていて、よくよく見れば空き巣に荒された形跡もある。彼女は家々の馬屋から、くっきりとした馬車の轍が無数にレイダに向けて延びていることに気が付いた。真新しい跡。一ヶ月前に逃げ出した者たちのものではないだろう。パティフィリーナは馬をゆっくりと歩かせながら項垂れてそれを眺め、無線を口に当てた。
「お姉さま。僅かに残っていた貴族や医者たちも蜂起を受けてレイダに逃げ出したみたいだ。付けられたばかりの、新しい馬の跡がある。今シャマランに、医者はほぼ零だろう」
シャマラン側の国境を示す関所を過ぎ、レイダ側の関所が見えてきた頃合いで、一端馬を降りる。手綱を曳いて歩きつつ、彼女はライラック王家の紋章を手元に準備した。
「何者だ。顔を見せろ」
案の定レイダ国境で止めてきた備兵の横柄な口の聞き方に、パティフィリーナは露骨に仏頂面になる。被っていたローブのフードを外して、がたいのいい備兵を睨め付けた。
「これでいいか?急いでいる。早く通せ」
「何様のつもりだ。手形を見せろ」
「はっ、この髪の色でも判らないんだな。レイダの備兵は本当に程度が低いな」
「何だと」
鼻白む備兵に、パティフィリーナは不機嫌そうに紋章を突きつけた。
「貴国と隣交のあるライラック王家の者だ。まさか、手形なしで通れる典範を知らんなどとほざくつもりはないだろうな?」
「ライラック」
備兵の目付きが鋭くなる。瞬間、彼はパティフィリーナに向けて剣を引き抜いた。
「パティフィリーナ・ライラックか。大逆者のクリスティーナ・ライラックの妹だな。現時点でレイダ王国内には、お前たちを見付け次第捕らえよと勅令が出ている」
「勅令だと?さてはお父様がこっちに泣きついたな。シャンビルのアホンダラが出したのか?」
「黙れ。不敬罪も付加して牢屋にぶち込むぞ」
「さっきからお前もなんだ。シャマラン皇女に対する不敬罪も付加してお前こそ牢屋にぶち込むぞ」
「賊軍の代表などに不敬罪とは笑わせるな」
さて、どう切り抜けるか。パティフィリーナにしてみてもこんな勅令が出ているとは初耳である。取り合えずにも、こんなところで足止めを食らうわけにはいかない。
「お前、そんな小者の癖に私を捕らえるつもりか?」
「ふざけたことを抜かすな。おとなしく投降しろ。命だけは助けてやるぞ」
「馬鹿め」
的確に視線を合わせたパティフィリーナは、じっと相手の目を見つめ上げる。備兵の表情が苦しげに歪む。その身体が、大きな石と化して凍りつき、ゆっくりと地面に倒れ伏した。かつて何度か通ったことのある道を記憶を頼りに走り抜け、漸くレイダ城に辿り着いた。剽悍な全貌だが、レイダ市街地とは遠い位置にあるためか周囲に人気はない。周囲の森に遮光されて、昼間にも関わらず辺りは薄暗い。そもそもレイダ自体、人口が少なく全体的に欝然とした国である。暗い色合いに翳った城に翻然とはためくレイダ国旗―その真下の窓が、確か大広間の筈だ。両国国王たちは確かにいるらしく、うっすらと黄色い灯りが漏れている。遠目に観察しつつ、状況を鑑みた。
「前門と裏門には門番か。城内に入るなら同じ手を使うしか無いな」
再びジョセフィーヌを引きながら、パティフィリーナは前門に向かって歩み寄る。パティフィリーナの姿を認めるなり、二人の門番は槍を交差させて構えた。パティフィリーナは即座に彼らに視線を合わせる。目の前で石化してゆく門番たちを眺めつつ、彼女は考える。クリスティーナの記憶によれば、パトリシアは基本的に単独行動を取りたがるらしかった。シャマラン城で寂しく育てられたからだろうと姉が言っていたのを思い出す。憶測だが、例の大広間にはいない可能性が高い。
「失敬するぞ」
誰に言うでもないのだが。流石に敷地内の道順までは覚えていなかったが、姉から城内の地図は受け取っていた。少し前にレイダ城を訪問したときの記憶を頼りに、クリスティーナ自身が作成したものである。この地図がなければ、広い敷地内の中でとても辿り着ける自信は無かった―無論、パトリシアの自室もしっかり書き記してある。二階の、北向の窓の部屋。彼女がいるとしたら恐らく、ここだ。レイダ国内の警備強化に務めているためか、城内の警備は日頃より手薄の様である。ジョセフィーヌを草叢の柵に繋ぎ、パティフィリーナはパトリシアの部屋の方向へ急いだ。
「此処か、薄暗い部屋だな」
ロープに付けた楔を回し、目星を付けた二階の窓の桟に引っ掛ける。カーテンは雑に開かれていた。窓ガラスは、上に登ってからパトリシアに開けてもらえばいいだろう。かなり苦労してロープを登り、息を切らして窓硝子から覗き込む。
「いた」
黒髪の巻き毛が、膨らんだベッドの毛布から除いている。やはり予想通りだ。昼寝しているのか身じろぎもしない。「おい、起きてるか」と叫びながら硝子を片手で叩く。ロープを掴む片方の手が千切れそうなほどにひりひりと痛む。
「パトリシア、寝るな、窓を開けろ」
流石に音に気がついたか、寝返りを打って目を開けるパトリシア。きょとんとした顔で、必死なパティフィリーナを見つめること数秒の後、不思議と合点のいった顔をしてのろのろとベッドを降りて窓の鍵を開けにきた。
「誰か確認するとか、怪しむとか無いのか。悪い奴に騙されたらどうする」
半ば呆れながら、従姉妹の部屋にどかどかと上がり込む。パトリシアの方は始終きょとんとして何も喋らない。居心地の悪い沈黙が二人を覆う。「うちのアホンダラどもは居候してるのか?」と仕方なく話を繋ぐと、パトリシアは少し思案する風を見せた。
「ジョリーとファナックなら来てる」
「で、パトリシアはまた放置か。酷いな」
「自分で帰ってきただけだもの」
「なんでいきなり来たのか知りたくないのか?」
「なんでいきなり来たの」
あまりの会話の噛み合わなさにパティフィリーナは疲れてくる。だが、話す必要があることは沢山ある。険しい表情だけは揺るがせもしなかった。
「私たちが革命を起こしたことはわかるな?」
パトリシアはこっくり頷く。こう尋ねはしたが、世間に疎い彼女が知っていたことがそもそも意外だった。
「こちらはお前たちの軍力を測れないから心配している。いざというときの保険のために、お前に人質になってもらいたいんだ」
「人質」
「やっぱり嫌か?」
「何でもいい」
「本当にいいのか?人質になったのはお前の意志だということになる。両親を裏切ることになるぞ」
「別に、いいけど」
予想通りすぎて拍子抜けしたほどだった。彼女には、彼女自身の意志がほぼ見受けられない―全くの健康体に関わらず、病的なまでの感情と他人への興味の欠落が見られる。しかし、パティフィリーナはその理由をよくわかっていなかった。彼女とは昔シャマランで共に暮らしたが、お互いの接触は殆どなかった。クリスティーナがたまに、遊んでいたくらいで。
「今すぐにシャマランに来てもらう必要があるが、構わないか?」
「えぇ」
まぁ嫌と言っても連れていったがな、とパトリシアは胸の内で呟いた。
「とはいえ私は指名手配されているからな」
「あなたが邪魔者を石にすれば通れる。メドゥーサの力だっけ」
「当たりだ。行きもそうして来たんだ」
パトリシアはじっとパティフィリーナを見つめた。彼女はただ、パティフィリーナから指令が下るのを待っているのだとその澱んだ目でわかった。
「すぐに黙るな。行くぞ」
パトリシアを連れて、素早く窓から脱出する。意外にものろまそうな身体を器用にくねらせて、パトリシアはするすると先に降りた。パティフィリーナにしてみれば、登りよりもはるかに重労働だったが、ひとまずはこれで、任務を達成したことになる。あとはパトリシアを無事にシャマランまで連れ帰るだけだ。
しかし、胃の中に何か冷たい石ころでもあるように、パティフィリーナは違和感を覚えていた。先にすたすたと前を行くパトリシアの瞳は、無機質な錻の目をした人形のようで、どこまでも青い。当然あるべき感情が何一つ籠らないその目を、パティフィリーナは初めて不気味だと感じた。
シャマラン城には最初の城攻めに参加した民衆たちが続々と集まってきつつある。城に残され、ジョリーに見捨てられた下男下女の中には、新たな参加者も多く名乗り出ていた。更に、シャマリャーレで勃発した革命の噂を聞き付けたシャマリャーレ以外の街からも人が入り込んできている。味方は着実に増えつつあった。そして今、王座のみ父親から剥奪したクリスティーナは、配給作業に負われている。城の地下には、隠し金のみならず、飲み物や質の良い食料が、必要以上に大量に蓄えられていた。それらを民衆たちに順番に配給していく作業は途方もなく地道ではあったが、せめてこれくらいしなければ誰にも申し訳ができないだろう。クリスティーナは腹を括っていた。
「不幸なことに、国内の医者や貴族たちは全員逃げ出しただろうと、明朝に出掛けたパティフィリーナから無線が来たわ。もうあなたたちに薬はあげられない、医者も来ない。敵は私たちを殺す気よ」
怒りの籠ったクリスティーナの言葉に、民衆たちは総じて同調し憤怒と嘆きの声を上げた。彼女の視線は、ずらりと列に並んだ民衆たちと、武器で犇めく大広間を見渡す。クリスティーナは少し眉根を寄せた。アズレを探すが、彼はどこにも見当たらない。いったいいつまで隠れているつもりだろうか。
「暗殺者とかいそうで怖いなぁ。ほんとに皆、私たちを信用してくれてるのかなぁ」
コララインが予想外に大きな声を出したので、クリスティーナは口許に人差し指を当てて声を潜める。
「もし仮にジョリーの味方がいたとしても、他の民衆たちを手前声を大にはできない筈だわ。でも危険が皆無なわけじゃない。ほんの僅かだけれど、パール街以外でも、中流民衆なんかは比較的豊かだしまだ国内に残っている。快く思わない者もいるかもしれない。こんな配給作業でも、気を抜いちゃ駄目よ」
「了解、まあでも上手く行ってる方なんじゃない?暫定政府を立てるのだって、普通ならそう簡単にはできないと思うもん」
「そうね。パティフィリーナは成功したかしら。もしも私たちを警戒してレイダに過激な動きがあったら少し厄介だわね」
まさに安否を心配していたころだった。威勢良く、大広間の戸が開いた。
「お姉様、戻ったぞ」
列を無造作に掻き分け、どっと駆け込んできたのはパティフィリーナ。その背後には、同じくローブを被った誰かが立っている。瞬時に姿を認めたクリスティーナは、急いで二人を出迎えた。
「そっちはパトリシアね」
「ああ。言いつけ通りにしたぞ」
よくやったわ、と誉められて嬉しそうなパティフィリーナの脇で、パトリシアの方はぼんやりと部屋を見回した。クリスティーナの存在を認識しているのかいないのか、自分の置かれた状況をどう思っている風もなく、ただそぞろに髪をかき揚げる。
「暑い」
「ああ、熱気で暑いのよ。まともに会うのは七年ぶりくらいかしらね、パトリシア」
「人質になればいいだけだもの」
クリスティーナの声は普段よりも堅い。パトリシアを、騒ぎながらも民衆たちは遠巻きにじろじほと観察している。敵国レイダの王女だった。憎らしく思う者もいるだろうが、だがしかし、物言わぬ人形のパトリシアに、敵性が見受けられるはずもない。
「ああ、そういえばお姉様。少し気になる話を聞いたぞ」
パティフィリーナは思い出して僅かに眉をしかめる。クリスティーナは無言で促した。
「関所で備兵に呼び止められてな。ライラックの紋章を見せたのにいきなり槍を突きつけられたから、何かの手違いかと思ったんだが、違った」
「どういうこと」
「備兵から聞いたが、レイダ中に私たちを見つけ次第捕らえるように勅令が出ているらしい。他にもレイダへの通行手形全て停止する手続きを行ったようだ。今、レイダから手形は一切発給されていない。民衆たちはレイダには入れないぞ。戦争として敵国に"攻め入る"なら別だがな」
「あら、じゃあ何も問題は無いじゃない」
クリスティーナは不敵ににやついた。
「向こうとて、そんな対応ごときで私たちが諦めるとは思ってないでしょうね」
「だろうな。関所はいくつかあるが、レイダの脆弱な国力で守りきれる筈がない。お姉様が民衆を引き連れれば簡単に突破できる。私が関所についた時にはたまたま備兵が僅かでなら、増援を呼ばれる前に石にして通ったんだ」
「使ったの」
頷くパティフィリーナの両の瞳―今は、コンタクトレンズで保護されているものである。じっと見詰めた相手を石化するパティフィリーナの能力メドゥーサは、王家だからこそ受け継いでしまった魔法の一種で、完全に先天性の物だった。レイダの血による突然変異だと言い伝えられているこの力―不吉なジンクスと忌み嫌われる為と、能力の乱用を防ぐ目的で、パティフィリーナは普段から特殊なコンタクトレンズを付けていた。しかしパティフィリーナの場合、あまり強い能力の遺伝を受けていない為、時間が経てば、石に変えられた者は元に戻ってしまうという。
「あの時は、役に立つかと思ってコンタクトレンズを外しておいた」
「正しい判断だったわね。パトリシアを連れてきてもらえたのは大きいわ。恐らく、パトリシア奪還の目的で向こうは慌てて交渉用の兵を寄越してくるわね。パトリシアの命のためにも迂闊に総勢で攻撃は出来ないでしょうね。もし相手の総兵力がこちらを上回っていたにしても、一部くらいならこっちでもどうにかなる筈よ。巧く行けばもっと敵の情報を得るために、寄越してきた奴等を生け捕ってやるわ」
本人を目の前にして下心丸出しのクリスティーナだが、パトリシアは無表情である。たまたまあった近くの椅子に腰をかけて、ぼうっとしたまま阿呆の様にクリスティーナを見上げていた。
翌朝、すっかり白けた空の下、レイダ城の中ではその頃、四人のみの緊急廟議が開かれていた。衛兵の混乱を防ぐためである。甚大な問題が起きていた。
「とうとうパトリシアまで失踪したか」
ジョリーはじわりじわりと寿命が削がれていくような気分だった。混乱するのも当然である。誰も注意を払っていなかった木偶の坊が、いきなり姿を消したのだ。気づいたのは不覚にもつい先程、昨日の昼過ぎから誰もパトリシアを気にかけなかった為、いつ居なくなったのかはわからない。
「パトリシアが自らの意思で一人で居なくなるなんて考えられないわ。明らかに、外部から侵入した誰かがパトリシアを誘拐したのよ。パトリシアの部屋の窓まで楔の跡が付いていたわ」と、あくまで冷静なピアだが、一番苦い顔をしているのはシャンビルとジョリーなのである。
「パトリシアは大人しくてもレイダ後継としての価値を持っている。その権威を借って人質に取ろうというのだろう。我々が焦るのを狙ってな。しかも無視することもできない。小汚い手を使うものだ」
「大勢の民衆が来た形跡も無い。とある関所の兵士の話によると、桃色の髪の少女を見たそうだ。絶対にパティフィリーナだろう。あんなに素早く巧妙にこの城からパトリシアを連れ出せるのは、彼女の部屋と城の勝手を知っていた三姉妹だけだ」
「無理な要求を突きつけてくるやもしれん。パトリシアの命を引き換えにな」
「ぼんやりした娘だ。あぁ、困ったなぁ」
シャンビルは間延びした声を出したが、これでも娘を心配していることは如実に顕れていることが、長年付き合ってきたジョリーなら解る。逆に自分なら、もしクリスティーナが人質になったとしても、もっと露骨に心配しこそすれ、心の底から焦りはしなかったかもしれない。現に城を抜け出す前など、私の怒りは心配から来るものではなかったのではないか―。
「シャンビル、いくら付き合い方が難しくても夕食くらいは共に過ごせんのか。それともパトリシアは夕餉を食べないのか?」
ひとまず自分のことは棚にあげてシャンビルを咎めるが、彼は困惑で青くなって頭を抱えている。完全に平静さを失っている様子に不覚にも苦笑が漏れた。シャンビルは萎れて答える。
「それなんだが、自ら来ることは皆無なんだ。迎えにいけば付いてくるが呼んだだけでは来ない。いらないのかと思って、とりあえずそっとしておくしかなかったんだよ」
成程、とジョリーは妙なところで納得した。最近の皇女は皆夕餉も食べに来ないのだな。
「とにかく、このまま放っておく訳にはお前としても無理だろう」
「勿論だ」
「クリスティーナはパトリシアに何をしでかすかわからない。クリスティーナの狙い通りになるのは癪だが、急を有する事態だ、手っ取り早いパトリシア奪還の為には、レイダ側から交渉してみるしかないだろう。迂闊に攻めいってクリスティーナに危害を加えると、パトリシアを殺されるかもしれない」
「殺す」と聞いてシャンビルの顔がひきつった。彼は震える手を打ち鳴らす。
「フォウル少佐の交渉軍隊を送り込むか。隠密行動には慣れている筈だからな」
「小規模精鋭部隊ね、いいんじゃない?クリスティーナへ妥協案を提示させてパトリシアを奪還できるかもしれない。彼らは弱いけれど、対外交渉なら有利にできるかもしれないわ」
「クリスティーナが暴挙にでない限りはな。まぁ、彼女が彼らを殺しに来たら勝ち目はないから、次は総勢をシャマランに送り込むしかないだろう。それで巧く行けばパトリシアを奪還しクリスティーナを殺す。可能性としてはこちらが失敗してパトリシアを殺される可能性の方が高いだろうがな。クリスティーナはレイダにいきなり攻めいられることを恐れて、パトリシアを人質に取ったのだろうが、そもそもクリスティーナにそんな心配をする必要などない。レイダ軍隊よりも民衆の軍隊の方が余程強いからな」
どうして友人を前にこんな嫌な事しか言えなくなったのだろう、とジョリーは自分を嘲りながら、
「クリスティーナは物凄く狡猾だ。諦めた方が兵士が無駄死にせんで済むぞ。クリスティーナはパトリシアを楯にしたいだけだ。何もしなければ殺さない可能性も高い」
冷たい言い方をするなよ、とシャンビルは力無く笑った。
「逆になにもしなければ攻めいられて終わりなんだ。パトリシアは帰ってこない。隊士たちには申し訳ないが、行って貰うしかない。取り敢えず、今は交渉だけでもいいんだ。どのみちお前が言う通り、レイダ軍隊だけではシャマランの民衆の軍隊には勝てないだろうからな。先に手を出してきたのがあちらだとしても、こちらが思いっきり反撃できないのが悔しい所だ」
「シャマランとの国境を民衆たちが守っていたらどうする?」
「国境を守る此方側の兵士によると、まだ国境付近のシャマラン側の国防は行われていないようだ」
革命が勃発したシャマリャーレから国境までは距離がある。民衆たちは貧しく、馬を持てないので情報が回りにくい上に、シャマラン城で飼っていた馬や貴族たちの馬は逃げ出すときに殆ど連れてきてしまったのでクリスティーナたちも大して動けていないのだ。国境付近の町の民は、シャマリャーレについての情報をあまり得られていない可能性が高かった。とすると、レイダ国境付近の豊かな街は人口が少なくこちらへの敵意も薄いから、そこを通過してしまえば、あとは隣町からやってきた志願兵のふりでもしながらシャマリャーレを目指せばいいだけだ。クルー・フォウル少佐の部隊は、レイダ宮廷専属部隊の精鋭のひとつである。どちらかというと、物理的な戦力よりも、対外的な交渉や思考力を中心とした作戦立案を担うことが多い少人数の部隊だ。武力ではなく、最初はクリスティーナとの対面やシャマランの様子を偵察させる目的で彼らを送り込むのである。パトリシア奪還の話題で廟議が緊張していたまさにその時、例のドレスティが、新たな情報を携えて大広間に駆け込んできた。
「ジョリー国王」
なんだ騒々しい、と顔をしかめるジョリーにお構い無く、彼は晴れやかな顔で何やら紙包みをジョリーに献上した。
「ご覧になってください、吉報です。昨日上界全土に送った電報の返信が参りました。フローラル王国とティリクム王国、更にボンボーヌ帝国が我々に味方するとの旨」
この知らせに、一気に広間が湧いた。なんということだろう。ほんの僅かな可能性しかないと踏んでいた、しかも一瞬前までは一種の脅威であった、強国フローラル帝国と同盟を取り付けられたのだ。
「因みに、風散見国は中立を保つつもりとのこと。安心ではありますね。ミルノカも中立、参戦する気が無い様ですから。お嬢様方に味方するつもりもありません」
「そこで、強国のフローラル、更に他二国がこちらに着いたとなれば、クリスティーナたちは完全に孤立するな。投降せずを得まい」
「はい。フローラル帝国国主であるフランチェスカ女王は、ご自身の意思で参戦すると仰った様です。彼女の兄であるヴィオラ様と、さらにフローラルと密接な関係にあるボンボーヌ王国のリスト国王、妹のキャロル王女と共に、近々レイダを訪れるそうですが」
「噂通りだな。フランチェスカ女王は」
フローラル帝国、頭一つ分抜きん出たテクノロジー技術を誇る機械大国。上界七国の中で圧倒的と言われるその技術を、フローラルは他国に絶対に漏らすまいとして数年前から鎖国政策を取った。一方で国を閉ざしながら、上界に「数年以内の全土征服」を宣言して弱小国を震え上がらせた―これの脅威に晒されたのはジョリーとて例外ではない―猛者で、平和憲章軍を統括するミルノカ王国から「厳重警戒」の対象にされた異例の国家である。いったいどれ程の軍事技術かはどこの国にも想像がつかないが、陰が多いだけその脅威は馬鹿馬鹿しいほど誇張されて人の口に上る。それこそ巷によれば、フローラルでは肥大化させたカラスの首をちょん切り、中に人が乗って大空を飛び回るそうである。ここの軍司令部の総指揮官であり、まだ十五歳の女王フランチェスカは、その歳にして高度なコンピューター技術を持ち、ハッキングやサイバー攻撃を得意とする天才ハッカー、正確にはクラッカーだという。同時に、ハッカーにありがちな自信に満ちた強気な性格だと聞いていた。そんな予測不可能な行動を取る彼女を揶揄し、まことしやかについた異名が、"気違い花子"である。何故花子なのかは、ジョリーは詳しくは知らない。
「フランチェスカ女王によると、クリスティーナ勝利による魔力の突然の強大化を恐れて参戦する。更に、クリスティーナのようなまだ子供が起こした革命などで、国王が治める国が倒されては、他国のクーデターを助長する可能性があるから、とのことです。フローラル帝国とが少し協力してくれさえすれば革命軍など一網打尽ですからね。勝算が見えてきましたね、王様」
しかしジョリーは皮肉な風に、
「さて、真にそれが目的かな。まあいい、証書も同封されている様だ」
ドレスティはシャンビルたちに向き直る。
「今日中に、シャマランにレイダからの派遣兵を送り込みましょう。何があってもフローラルの後ろ楯がありますから安心です」
「ああ。焦る必要もいよいよ無くなったな。パトリシアを使って脅すなら好きに脅してくるがいいさ。余裕をかましている隙に取り返してやるからな」
シャンビルはすぐに、関所に遠征させていたフォウル少佐の部隊に伝令を向かわせた。至急、廟議に臨席するようにと。