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民と専制  作者: 紺夜はな
March
4/9

蜂起

コララインは、延々と続くスラム街の狭苦しい小路をのんびり歩いていた。白壁の民家に挟まれた道は緩やかに曲がって、先は細くなっていて望めない。三月にしては暖かい夕方だったが、この道を通るといつも涼しかった。クリスティーナから、夕方に城を抜け出して中央教会に来るように指令が下っていた。それによると、民衆の協力を勝ち得たお姉さまたちは、民衆を味方に付け、一部の労働者たちと共に、もう司祭の居ない教会に身を潜めたらしい。彼らは情報を得次第、各々自分の知り合いたちに情報を伝播する。お姉さまは、昼間のうちに密かに城に帰り城の食料を運び込んだので、今夜は城には帰らないとも言っていたけれど。

「流石にお父様たち心配するだろうな。いや、しないかぁ」

斯く言うコララインも、あっさり城を抜け出してきた身である。帰らないともなれば城全体が大騒ぎの筈だ。黄昏てきた大通りに、誰一人見当たらない―死体は別として。普段から人は少ないとクリスティーナは言っていたが、こうも少ないということはやはり、皆教会に行ったのだ。コララインの唇から軽薄な感想が漏れる。

「まあいっか。いくら心配したって明日になっちゃえば戦争だもんね」

中央教会は蔚然とした一角にどっしりと立っている。みすぼらしいスラム街には不釣り合いな、重厚感のある壮大な佇まいと、その外観には見覚えがあった。幼い頃に両親に連れられて行ったような気がする。ただし、その時の雰囲気は重苦しくて、コララインはどうしても好きにはなれなかったが。「燃えてるね」と、思わず呟きながら敷地に足を踏み入れた。荘厳だったそこは、今日はやけに、活気に溢れている。青のステンドグラスから鈍く灯りが漏れている為、中に人がいるのは明白で、幾人もが互いにがなる声も聞こえていていた。

「お姉さま、着いたよ」

叫びながら協会の戸を開けると、そこに立っていた誰かにむんずと腕を掴まれた。古着の上に深い青のローブを羽織っている。目許が怜悧でまだ若い、少年のようだ。

「君、名前は」

「第三皇女のコラライン、だけど」

「コラライン、あぁ、やっぱりね」

少年はコララインを前に臆する様子もなく、彼女に視線を合わせて屈む。名前はわかっていて、確認しただけなのだとぴんときた。

「末の妹ちゃんだね。クリスティーナの」

「そうそう。びっくりした?お姉さまのお友だち?お姉さまはよくシャマリャーレに行ってたけど」

「お友だちとは少し違うな。僕は民衆たちの代表だ。アズレって言うんだが、クリスティーナから聞いてるかな」

コララインには思い当たる節がない。お姉さまはそんなことを言っていただろうか。周辺の民衆たちがコララインの存在に気が付いてざわめき出す。コララインの青みの強い髪色は稀有で、よく目立った。聖壇上のクリスティーナは、その喧騒を目敏く発見した。

「コラライン、こっちに来なさいよ」

綺麗な青い聖壇上に来てみると他に、パティフィリーナの姿もある。普段は物寂しく涼しい教会内は大人数の熱気で暑苦しかったが、一致団結するには絶好の場所な筈だ。民衆たちは、クリスティーナが配給した食事を一心不乱に貪り、彼女が大樽で城から数個運び出した何年ぶりかのエールを豪快に煽った。広く美しい教会の中に、酒臭い貧乏人たちのどら声や姦しく騒ぐ若者たちの声が響く。きついリカーや汗の臭いなど、クリスティーナは全く気にしなかった。

「お食事を邪魔して悪いけど、聞いてほしい。作戦よ」

これだけで、大きな歓声が上がる。流石のコララインも目を見張る光景だ。

「武器は、あなた方が用意して持ち寄ってくれたもので充分よ。王家の軍隊はあなた方だから寝返られたら一貫の終わり、奇襲をかければ武器を持ち出す時間も無いものね。はっきり言ってちょろいわ。お父様たちの起床時間は朝の六時。明日、お父様たちが起き出す前の早朝に体系を組み、一気に攻め立てて包囲すれば、国王軍を一網打尽にできる」

「西側の奴等、王家の犬どもの家はどうする?襲わないのか」

声を上げた男にそうだそうだと何人かが続いたが、クリスティーナはきっぱり首を横に降って、

「憎いのはわかるけれど、もうあそこを襲っても何も出てこないわ。貴族も医者も九割は逃げ出してしまった、国の唯一の医学校は閉鎖状態よ。これ以上やったら余計に医者が居なくなって終わりだわ。残った彼らを懐柔して、どうにか患者の手当をしてもらわないと。あと誰か、アズレの居場所を知らないかしら?」

「お前、アズレのこと知ってるんだ」

うら若い若者である。クリスティーナは少し迷う。アズレについて知っていることを、私はどこまで明かしていいのだろう。若者はしばしクリスティーナを眺めていたが、やがてにっと笑った。

「お前、アズレが自分と同じ王族だってことを心配してんのか?それなら安心しろ。俺たちはそれを知ってるが、アズレは王座を望んではないさ。もし、王家の中で、本当に全員がジョリーのやり方に賛成だったなら、その時は多少でも魔力を持つアズレが王になる計画だったが、嬉しいことに魔力の強力な第一継承者が味方についてくれたからな。アズレは基本的に街中を自由に歩き回ってる。奴は俺たちの指導者というよりも、俺たちに最初に革命の提案をした代表だ。立場の同じ仲間ってスタンスを崩さない。何か作戦を立てるのも、特にアズレの許可は要らないだろう。奴は突然ふらりと現れたりする。アズレがお前のやり方に反対なら、お前に文句を言いに現れる筈だ」

それを聞いて、クリスティーナは考え込む。話を聞く限り、アズレは一歩引いた立場からこちらを窺っていると言うことになるだろう。私の動きを確認してから、姿を現すつもりだろうか―。

「お姉さま、さっきそこに、アズレって人いたけど」

あっけらかんとコララインが言い放ち、クリスティーナはぎょっとして彼女を振り返る。

「どこで?」

「戸口付近にいたよ。お姉さまのこと知ってたみたいだけど。もう居ないよ」

「まぁ」

やっぱり、とクリスティーナは思った。アズレはクリスティーナの動きにしっかり興味を持って、遠目に監視している。クリスティーナが本当に信頼できるか試しているのだろう。アズレの存在について始めて耳にしたパティフィリーナたちは不思議そうな顔をしている。言った通りだろ、と先程の男は得意気な顔をした。

「アズレはそういう奴だ。誰にも基本的に奴の居場所はわからない、流離い人みたいだからな。だが安心しろ、俺たちはお前のやり方についていくさ。少なくともアズレが反発しない限りは」

ふと、丈夫そうな体躯の男から声が上がった。

「お前、何か闘えるのか?」

「戦闘能力の話なら、そうね、大鎌の使い方は祖父から習ったし、他にも彼から習った魔術ならお手のものよ。五行に属するものはだいたい使えるわ。物によるけど対象を爆破させたりも可能だし。ただし、物凄く体力を使うから多用はできないわ。あと、人を直接殺せない」

闘志が盛り上がってくるなか、次々に声が上がる。

「他には?パティフィリーナは?」

彼らが煽る声に、彼女はふんと鼻を鳴らす。

「私も白魔術を使うが姉ほどじゃない。後は、トライデントを使用した黒魔術なら少しは」

「トライデント?」

「悪魔なんかがよく持っている刺叉のような武器だ。これに魔術を効かせると、白魔術と違って人体に直接攻撃できる。お姉さまと同様に可視物体のみだがな。だが黒魔術は私は使わん。絶対にな」

疑問を赦さないような目で労働者たちを威圧する。クリスティーナはすぐにコララインの背を押した。

「そして彼女が得意なのが、負傷した人間の傷を癒したりできる、慈愛の魔法よ」

民衆たちの歓声で教会が震撼する。酔いの回ったような高揚が彼らの間に久々に溢れ、自分達を変えていくことへの気概に燃えていた。

アズレはひっそりと教会の外に出た。大勢に踏み荒らされたような芝生がある。暮れ泥んできた、すこし曇った薄紫の空である。そこには、封じ込められた内部でありったけを爆発させている分、まるでよく訓練されたかのような人工的な静けさが漂っている。見事に作為的な静けさだった―怪しいほどに。彼はそれを、逸る胸一杯に吸い込んだ。


今思えば、やはり虫が知らせていたのかもしれなかった。普段は、深夜のこの時間ならば、自室の窓から見下ろす光景にちらほらとシャマリャーレの町の灯りが見えるのだが、それが、暗かった。灯りが殆ど見当たらない。嫌な予感は更なる不運を運んできた。

「国王様、お休み中失礼致します。至急お伝え申し上げたいことが」

部屋の外から、いきなりドレスティの声である。何だと問う声が尖った。

「お嬢様方のお姿が見えないのです。それも、朝からずっと」

「何」

直ぐにジョリーは扉を開けた。廊下には、蒼白な色をしたドレスティの姿がある。必要以上に何かに怯える目が、ジョリーを妙に苛立たせた。

「クリスティーナが」

「いえ、クリスティーナ様ばかりでは御座いません」

「パティフィリーナもか。コララインも」

控えめに首肯する家臣を前に、ジョリーは頭が痛くなってきた。この大変な時期に、娘たちはどこで現を抜かしているのだろう。

「探したのか」

「少なくとも城の中は隈無く捜索させました。今はシャマリャーレにも捜索隊を向かわせています。パティフィリーナ様も明け方から、コラライン様は夕方からです」

ジョリーは底冷えするようなこの上なく冷淡な目でドレスティを見下ろした。普段の穏やかさとはかけ離れたそれは、まごうことなき冷徹な独裁者の表情である。

「全力で探せ。娘たちを遊び人にするつもりはない」

「探してはおりますが、些か」

ジョリーの視線が睨むようにすっと細くなった。

「民衆だって今は荒れている。どう考えても金持ちは敵だろう、クリスティーナたちがもし夜の町に出掛けていたら、もし皇女だとぼれていたら危ないだろうが。そんなことを私が知らないとでも思ったか?どいつもこいつも此方を馬鹿にして、あぁ本当に、どっちを向いても愚かだな」

低い声で苛々と呟くジョリーを見、まだ若いドレスティの瞳が明らかな恐怖の色に変わる。

「外は危険だ。王家を守れるのはこの城だけだ。これ以上脆弱になって何とする」

やはり、魔法が無いとこの国を治めることなど不可能なのではないか―そんな思いにふと苛まされ、気弱になることも増えてきた。無論、そんな無様な自分を誰かの前で晒したりなどはしないが。代わりに、魔法を使うことでしか国を治められない父を、そしてこの国を蔑んだ。クリスティーナにも、最初は複雑な思いで接するしかなかった。しかし、まだ幼いクリスティーナなら、ジョセフが与えた毒を抜いてやれるかもしれない。そんな思いで育ててきた娘だ。自分の治政は最初は上手くいっていた。まだ間に合うかもしれないと淡い期待を抱いていた―少し前までは。ジョセフという壁が七年前に死んでから、娘と話して、笑って、彼女に出来るだけの愛を捧げてきた、その筈だ。だが遂に、クリスティーナは妹諸共姿を消した。本当にクリスティーナたちが遊びに行ったと、私は思っているのか?いや、違う。漠然と、ジョリーの勘は不吉なことを告げていた。無情にもとうとう来たこの日の夜の、この外の異様な静けさ。

「革命だな」

「国王様、今何を」

不穏な言葉は聞こえていないかのように振る舞ってきた。今、このドレスティが応えたように。だが、それももうできない。事実は明白だった。ジョリーとて愚かではなく、冷酷とも言える理性を持ち合わせていた。

「外を見ろ。民衆たちは武器を手に息を潜めている。恐らく明日だ。我々を狩ろうと言うのだな」

「まさか。考えすぎです。この城に、一般民衆がそう簡単に攻め込める筈が無い」

「実際には破られて侵入を許しているではないか。処されて終わりだがな。大事な財源である医学者たちまで襲う。愚民たちだ。だが、群衆心理が軍の姿を顕にしつつある。あれだけ串刺しにしたのにな」

ドレスティの顔が次第に青ざめた。

「ですが。まだお嬢様方が恐らくシャマリャーレにいらっしゃいます。仮に革命だと、致しましょう。もしかしたら、民衆たちが人質に取ったのかもしれません。ですが」

「人質に取られるならばクリスティーナとパティフィリーナだけの筈だ、と言いたいのだろう?コララインはわざわざ夕方自分からシャマリャーレに出むいたのだからな。姉を探したいと言うのならば、私たちに話をしただろう。確かにその通りだ。恐らく民衆が娘たちを人質にした訳ではないであろうな」

「そうでしょう。ですから」

「考え方は逆だ。見たか、最近のクリスティーナの顔を。思い起こしてみれば、突然町に頻繁に行くようになったり、廟議にも出なくなったりしている」

「何を仰りたいのですか」

ドレスティの声が震えている。ジョリーは悠然たる笑みを浮かべた。

「娘たちはもともと、革命が起こることを察知していたのではないか。だが未だに私のことを恨んでいるクリスティーナは、私の前では良い娘を演じ続け、裏では民衆たちと款を通じていたのかもしれぬ。ジョセフの毒は抜けていなかったということだな。きっと彼女は、ジョセフへの狂信的な崇拝思想で民衆たちと目的が一致した。彼らに同情し、私を倒すことでジョセフの時代に戻そうと―そう思っている」

ジョセフは落ち着いていた。

「娘たちを探している時間は無い。それに娘たちもそれを望んでいない。狡猾な奴等だ、あやつらならきっと逃げおおせるだろう。いや、寧ろ……彼女たちが主犯かな」

竦然と立ちすくむドレスティに、彼は命令を下す。

「馬車の準備をせよ。ファナックを起こせ。パール街の医学校は施錠し、関係者と貴族たちには亡命の手配をしろ。少ししかいない、時間はかからんだろう。明ける前に城を脱するぞ。いや、いい、冠は私が持つ。奴等には絶対に渡さん」

よくよく眠れないままに夜明けが来た。朔の未明である。逸早く目が覚めたクリスティーナは、直ちに妹たちを起こす。今日が、肝心要の第一歩だ。既に武具の準備をしている民衆たちを隈無く見守りながら、クリスティーナは時折激励を叫んだ。

「行くわよ。私たちなら、できるわ」

暁闇の仄明るい白い陽を背に、連なり歩く民衆の総勢、およそ三千―王宮に着くまでの間に、這般の事情で教会に来られなかった者、付近の街から話を聞きつけて革命に参加してきた者が加わって列を為してゆく。だが、アズレは未だに現れなかった。まだ、クリスティーナの動きを監視している。どこかにひっそりと混ざって。

王政が堅固だった頃の王家の部隊を相手にするならばとても敵わない数で、烏合の衆では惨敗するのが火を見るより明らかである。だが、今は向こうは脆弱だ。戦い方はこちらが圧倒的に心得ている。先頭を歩くクリスティーナは、革命の象徴の様に大鎌を構えていた。柄の長く刃渡りの大きな、重く立派な鎌である。

「さて」

王宮の下―普段は、クリスティーナが見下ろしていたその場所に、クリスティーナたちは布陣した。付近の土地は荒れ、ひょろひょろとした白っぽい雑草が生えているだけのみじめな場所である。怒濤のように民衆たちは広庭に溢れ返った。喧騒、金属がぶつかり合う音がかんかんと響く。太い薪に燃え上がる松明の炎。火矢。例の革命絵図は現実の物となった訳だが、まさかその中心に、自分が立とうとは。

「勝鬨を上げよ」

クリスティーナの号令で、一斉に歓呼が轟いた。乾いた地面が底から響くほどの激しさだ。幾分かは慣れたパティフィリーナたちだが、それでもその迫力は嵩ましされているようだ。彼女たちも緊張に身が引き締まる。

「直ぐに城を包囲しなさい。囲むのよ。隙無くね」

今ならば、余裕だ。全員がジョリーの軍隊であったシャマリャーレの市民たちは、今や革命勢力である。城には近衛兵しかいない。案の定、存在を知らしめたにも関わらず、迎え撃つ近衛達は現れない。疲れ果て、臨戦態勢に無いのだろう。民衆たちを軍配しながら、クリスティーナはふと考えた。ジョリーは私たちを見ているだろうか?復讐する娘たちを―。

「クリスティーナ、突破口が開いた。流れ込めるぞ」

「総員中へ」

幾人か見覚えのある近衛たちが、無惨に命を絶たれて足許に転がっていた。それらを含め周囲を虚ろな人形のような目でざっと見渡すクリスティーナ。 目をぎらぎらさせて血に飢えた民衆が、かつての自分たちの居城を侵している様を見るのはえも言えぬものがある。が、こんな所で躊躇うクリスティーナではない。 先陣を切ったクリスティーナに比べて明らかに動揺している妹たちだったが、意思の力で屍体を踏み越えて城の中に駆け込む。後に続いて、民衆たちが雪崩れ込んだ。

「王座はどこだ」

「大広間よ。あの人はいつも王座に座っているもの」

これ以上無いというほどに早く走りながら、クリスティーナの心に疑念が沸いてきた。静かすぎる。いくら軍備が脆弱だからと、百かそこらの近衛のみで城が成り立つ筈が無い。隠れている使用人までもを処するつもりは毛頭ないが、にしても手勢が少なすぎる気がする。まず、あいつらの姿が見えないではないか。あの家臣たちの姿が。パティフィリーナとコララインには、途中で他の民衆を引き連れて他の城中を回るように指示を出していた。クリスティーナ側の民衆たちは、施錠された大広間の重厚な扉に、幾度も熾烈な斬撃を浴びせかける。最後にクリスティーナが振るった鎌の一太刀で、見事に崩れ去った扉だが、しかし―。

「国王がいないだと」

王座が、部屋の中央に頓挫している。だが、そこにジョリーの姿はない。クリスティーナは、きつく唇を噛んで嘆息を噛み殺した。舌の上に生温い鉄の味が滲む。

「してやられたわね。勘づかれたんだわ」

「逃げたっつうのか」

「恐らく。静けさを疑ったわけね。この城にはいくつか隠し扉があるから、パティフィリーナたちにも、もう少し城を探してもらわないとわからないけれども。逃げたとしたら、私たちの攻める姿を見たからじゃないわ。出発は昨夜くらいかしら。王座に温もりが無いし、なによりこの守りを抜けられる筈がない。でも、まだ近くにいる筈よ。絶対に探し出す」

王座を掌で触りながら呟くクリスティーナ。その蒼氷色の瞳は冷たい光を帯び、ぐっと握りしめた拳を王座に降り下ろした。腹の底から絞り出すような掠れた声が出る。

「民の絶望を知れ。不屑ふせつな暴君め」

古い幌馬車が、何台も峠を疾駆していた。逃げるように走るその車たちの先頭が、ジョリーの乗った馬車だ。後ろに続く車の中には、一部の城の近衛やら臣下やらが乗っていた。更に続く馬車には、途中で合流した、未だにパール街周辺に残っていた僅かな医学者や貴族たちが乗っている。脇に開けた広漠な大地と、干からびた土でできたような灰色の家々の中に、朝焼けに照らされた城―かつて威容を誇ったジョリーの城が見える。蟻の大群のような民衆に覆われ、容赦なく攻撃を受け、脆く崩れていく王宮。民衆たちが放った火矢によって炎が燃え上がり、美しい城を鮮やかに包み込んだ。草木が焦げる匂いが鼻を突く。結果的に、いくらかの近衛は城に置いたまま黙って亡命したことになる。既に空の王座に、君臨していたジョリーがまだ居ることを信じて―剣戟を振るう僅かな近衛部隊が、圧倒的な民衆を前に散っていくのが見えた。彼らは、ジョリーにとっての数少ない、本当の意味での味方だった。城の前の草地が朱に染まる。正面で冷然と指揮を執る、金髪の、大鎌を構えた少女の姿。ジョリーは目を細めてその勇壮な姿を眺めた。

「クリスティーナ」

革命はやはり起きた。しかしその指導者は、実の娘。父王を弑逆しようとしている。娘は逃げただけでは無く、やはり、しっかりと反撃の準備をしていたのだ。一方でジョリーもしぶとかった。呆気なく殺されてたまるものか。竪琴を、とジョリーは命じた。同乗するドレスティは一瞬怪訝な目をしたが、何も言わずに馬車に積んできた荷物の一つを紐解いた。中には、立派は竪琴が大事に包まれていた。両手で大事に抱えて撫でていた冠を、彼は脇に置いた。左脇に赤々と燃え上がるシャマラン城を眺めながら、ジョリーの口許にうっすらと笑いが広がっていく。そして彼の指は、どこか退廃的な美しい音色を掻き鳴らし始める。

やがて国境を越え―隣国、レイダ王国に辿り着いた。既に完全に夜明けを向かえていた。日が昇り切ってしまう前に、王都に向けてひた走るのみである。背後からは確実に、クリスティーナたちが寄越した追っ手が迫って来ている。捕まれば、さながら落武者狩りのごとく殺されるかもしれないのだ。

「レイダ城まではあと数分、充分逃げきれる距離です。シャマランと比べて人通りも少ないですし、飛ばしても大丈夫ですよ」

家臣からの報告に、ジョリーは感情の籠らない目を瞑った。

シャマランとレイダは、元々一つの国である。その名残からか、シャマラン側の王家は三十年に一度の割合でレイダ王家から内親王を一人娶る伝承があった。しかしファナックの歳は、その三十年に一度に当たっていない筈なのである。これはつまり、ジョリーとファナックの比類のない交遊の深さにある。かつてから二国の間柄は良好ではあったが、今の代は特に信頼関係が深まっていた。それをシャンビルが喜び、妻の妹をジョリーの嫁に迎えさせた。これがファナックだ。したがってクリスティーナたちはレイダ人とシャマラン人の混血であり、両家には親戚関係が成立する。その誼や、同盟の効果で、両王家の人間のみ、互いの国を通行手形なしで往来できる仕組みになっていた。この仕組みを利用して楽に亡命したが、レイダに問題なく入ってこれるのはクリスティーナたちも同様である。だが、他の民衆は通行手形が無い限り入国はできない。これは大きかった。

「レイダに入ってしまったからにはこちらのものですね。まずはレイダ国王にお会いして、通行手形のシャマランへの発給を停止していただきましょう」

「ああ、そうだな。シャンビルとは幼い頃からの仲だ。頼れるのは彼だけだ」

レイダ国王、シャンビル・ミューストレートはなかなかに禁欲的な政治で知られる。無論魔法など使わない政治だ。大人しい国民性も相成り、ほとんど暴動は起こらない安定した国だった。だが、国力と軍事力に大幅に欠けている。かつて豊かだったシャマランは、定期的にレイダに物資を贈っていた。レイダ妃のピアと、ファナックが姉妹関係にあるのも大きい。他にも、ジョセフが死ぬまでは、レイダ王家の皇女が、人質としてシャマランの城の中で暮らしていた。シャマランの物資や金銭的な援助を受けなければ、貧しいレイダの統治は不可能だったので、同盟の約束として、皇女が人質になったのである。しかしジョリーが国王になってからは、幼い頃からのシャンビルとの深い交遊により、彼は彼女をシャンビルに返したのだ。こうした所以で、両家の関係は充分に親密だった。しかし、例え永久に貧しい国の国主であっても―シャンビルの生き様は、ジョリーにとっては羨望の的だった。憎らしいほど彼を羨んでいた。

「シャンビルとピアには娘がおったな、あのとき、シャマラン城に預けられていた」

「パトリシア姫ですね。確か今年で十五になられますから、クリスティーナ様と同い年です」

「ふ。そうだな。まあ、クリスティーナとは随分雰囲気が違った記憶があるが。クリスティーナもあれくらい、大人しければな。もう七年も前だな……彼女がここで暮らしていたのは」

クリスティーナとパトリシアは従姉妹にあたる。とはいえこの二人に関してはジョリー自身、親睦の深い印象を持っていなかった。レイダ側の人質であったパトリシアは、クリスティーナともまま戯れていたようだが―特別仲良くしている風でもなかったのだ。パトリシアは、利発なクリスティーナとは違って、ぼんやりとした娘だった。ジョリーは、王家内の柵に掛かりっきりで、人質としてやってきたパトリシアには殆ど注意を払えなかった。彼女には一間が用意され、侍女たちが世話をしてやりながら、何不自由なく、しかし殆ど放置されて育ったのである。シャンビルからは、パトリシアへの接し方が判らぬと、何度も相談を受けていた。パトリシアをそんな風にしたことには、それなりにシャマラン側の責任があった。少なくともシャンビルは当時、幼いパトリシアを預け、他人の手で育てることに反対していた。しかし、国力の脆弱なレイダの安泰のためだと回りの家臣たちに強く推され、泣く泣く彼女をジョセフに預けたのだ。幌馬車は、次第にその鬱然たる姿を顕にしてくるレイダ城に、がらがらと吸い込まれていった。

「長旅、ご苦労だったな」

レイダ城の大広間で、シャンビルたちは来客を快く迎え入れた―彫りの深い顔に、天性の陽気な笑顔が刻まれている。ジョリーが飛ばした飛脚からの情報で、先に事情はわかっている筈ではあるが。

「よく無事に逃げられたわね」

妹と妹婿を労いながら、ピアは背後にひっそりと立っ娘を振りかえった。

「叔母様に伯父様よ。ご挨拶なさい、パトリシア」

黒髪に巻き毛、レイダ人特有の真っ青な瞳。容姿は母によく似ているが、この娘がクリスティーナの従姉妹だとはとても思えぬ、この覇気の無さ。七年前、シャマランを去ったときの彼女と、態度に何一つ変わりはなかった。パトリシアは頭を下げることなく、口を開いた。

「こんにちは」

「久しぶりだな」

それ以上は喋らずに、パトリシアははたまたひっそりと部屋を出ていった。別に避けているわけでもないらしいが、何を考えているのかも判らない。そして何より、シャンビルとピア自身が、この娘の扱いに難儀しているのである。特にシャンビルなどは、娘と上手く関われず、愛情を深められないことを嘆いていたが―そんな悩みも、今のジョリーにはこの上ない皮肉に思われた。七年間、クリスティーナが見せてきた自分への信頼は、全て偽りだったのだから。上辺だけの愛で騙され続けるより、いっそ興味もない素振りをされているほうがましではないだろうか。

「要は革命を、実の娘であるクリスティーナが、起こしたってことなのだな」

一通り話を聞き終わったシャンビルはゆっくりと尋ねる。ジョリーは薄く笑いながら頷いた。

「クリスティーナと、そして国民の両方を苦しめた私に復讐したかったんだろうな。流石は私の娘だ」

「にしても信じられんなぁ。齢十五かそこらだろう?クリスティーナは」

「あやつはああいう娘だ。だが、まだ間に合う。他の上界各国に協力要請するのが得策だろう。まとめて革命軍を鎮められるからな」

「なぜ他国に頼る?敵はクリスティーナたちだけなのだろう。それにお前は本当にそれでいいのか?娘を討ちたいようだが」

ジョリーは冷たく鼻で笑った。

「構わないな。あちらも私を討とうとした。奴は私を恨むが、奴は私を七年間騙し通し、精一杯注いできた愛情を捻り潰した。結局は相手を苦しめた方が勝ちなんだ。私は沢山の時間をクリスティーナに費やして、それを棒に振った。クリスティーナも民衆たちも、心のそこから私の死を望んでいるだろう。両者が私のどこを憎んでいるかにはそこそこの違いがあるだろうが、いずれにせよ彼らには私の真意はもう伝えられない。私は見つかり次第殺される。しかし私は逆に、今シャマランに生き私を憎む彼らを根絶やしにして、全く新しい、魔力に頼らないシャマラン王国を再建したいんだ、私に付いてくる者たちへ恩を返さねばならん、だからこそこんなところで死ぬわけにはいかないのだ」

言ってしまってから、自分が愛情だと豪語するものは精々、こんなことになれば簡単に捨て去ってしまえるくらいの軽いものだったのかもしれないと虚しく思った。八年間、ジョセフがクリスティーナに注いできた愛情とは、七年間ジョリーが彼女に注いだそれとは、全く重みが違ったのだろう。クリスティーナは父を裏切って討とうとし、同時に父も、娘を討つべく軍を仕向けようとしている。そして、今私が吐いた言葉は私のものだろうか、とジョリーは更に不安になった。期待に応えるために誰かの言葉を代弁しただけなのかもしれない。今まで彼らに、自分は自身の言葉を伝えようと試したことがあったのか、それには自信があるとは言えなかった。

「顔色が悪いが大丈夫か?」

シャンビルに気遣われて、彼はすぐに我に返り、強く頭を振って思考を切り替えた。雑念は邪魔でしかない。本来なら、レイダの備兵程度の戦力で充分の筈だ。レイダを戦場にしてしまえば、敵は娘たちのみである。だがそれは、相手が規範を守った場合に限る。

「クリスティーナは、通行手形が無くても民衆をレイダに入れる可能性がある。国際法を破っても、強行突破するかもしれん。多勢と武器をいいことに城を攻め落とすような奴等だ、可能性は高い」

「おいおい」

暴力はごめんだぞ、と言わんばかりにシャンビルは胸の前で腕を組んだ。レイダでこのような暴動が起こる可能性は限りなく低い。 取り合えずは、レイダ通行手形を停止し、今日中に詔書を各国に送って返信を待つ―この場合に最も確実な手段だ。強力な魔力で国を治めていることを知らしめ、上界の中では他国との貿易が盛んだったシャマラン、そしてレイダとの二王国からの詔勅とあらば、国力の低い幾つかの国は報復を恐れて味方に付くかもしれない。

「恐らく、ティリクム王国とボンボーヌ王国は味方に着くでしょうね。軍事力に乏しいから。ただボンボーヌは、軍事面ではフローラルの傘下にあるし、国力が弱い訳じゃないから実質的にはフローラルの判断に従うことになる。ミルノカ王国は憲章軍を持つ永世中立国だから選択肢に入らない。微妙なのは風散見国かざみのくに、フローラル帝国の二国。いずれも豊かだもの……味方に付くメリットが無い。しかもフローラルは現状として"鎖国"状態よ。それに、レイダの軍事力は微妙だし、シャマランの民衆軍隊は全て敵に回っている。味方についてくれるかは、賭けるしかないわね」

ピアの考察に、ジョリーは渋い顔で頷いた。

「ティリクムの軍事力はほぼ零だ。できれば強国の二国のどちらかでも、味方についてくれれば。シャマランの再建には国民の意識の根からの改革が必要だ。そのためには、今の魔法に慣れ親しんだ怠惰な国民では叶わないだろう。大規模な軍隊で攻め要り、その命を絶たなくてはいけないが、だがレイダは脆弱だ。強国を味方につけたいんだ、難しいがな。送って良い返事が来るか、これは賭けだ。可能性は低くても、やってみない手はないぞ」

   

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